鴨着く島

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新春の京都三社と伊勢三宮(4)

2019-01-24 08:47:26 | 旅行

伊勢神宮の成立は(3)で書いたように、推定4世紀の半ばに垂仁天皇の皇女ヤマトヒメが現社地を見出したのだが、そもそも神宮の御祭神である天照大神(を映した鏡)をなぜ大和王権の中枢部で祭り続けなかったのかーーという疑問を起こしたことはないだろうか?


大和王権にとって最も大切な最高神が「日の神:天照大神」であるならば、王権の内部で捧持し斎きまつるほうが、より王権の神聖かつ権威存続の上で都合がよかったはずである。


それなのによりによって、ヤマトヒメは捧持しながら数か所の祭祀地を転々とした挙句、大和からは直線で東へ80キロも離れた地に祭ることになったのだろうか。


そのことの発端となった事件が、日本書紀の祟神天皇紀に見られる。


祟神天皇(第10代)の6年の条にはこう書かれている。


〈前年から国内に流行性の疾患がはやり、民が多く死んだ。そして6年になると百姓が流亡しはじめ、中には叛逆するものも現われ、天皇の権威をもってしても治めるのが困難になった。そこで天皇は早朝から夕方まで神祇を祭るのに専念した。


これより以前、天照大神と倭大国魂(神)を宮殿の内部に祭っていた。しかし、両神の神威が大変に強く、内部に祭っておくことが畏れ多くなった(適当でなくなった)ので、天照大神を皇女の一人であるトヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)に託し、笠縫邑にて祭らせ、また倭大国魂(やまとおおくにたま)は同じく皇女ヌナキイリヒメ(沼名城入姫)に託したが、ヌナキイリヒメは髪が抜け落ち、痩せてしまって祭ることができなかった。〉


ここでは天照大神のほかに大和の大国魂(土地の最高神)の祭られ方が記されているが、このようにいわゆる「同床共殿」(神と同じ床建物を共有すること)が忌避されるようになった様子と、トヨスキイリヒメとヌナキイリヒメの対応に雲泥の差があることが見て取れる。


前者は今日でも天皇のお住まい(皇居)の中に天照大神(を映した鏡)は祭られず、遠く伊勢神宮に祭られているので、違和感はない。


古代において天照大神の鏡(八咫鏡)に関しては、奈良時代までの天皇の宮殿は即位ごとに、また同じ天皇の時代にあっても数か所の新宮殿の遷移が普通であった。しかしそのたびに天照大神を遷座して祭ることが多大な負担となったので宮殿に同床せず、伊勢の地一箇所に永久に鎮まることが最良となったのだろう。


むしろ後者の大和(倭)という土地の最高神「倭大国魂」を祭った(あるいは祭ろうとした)祟神天皇の皇女ヌナキイリヒメが「髪落ち体痩せ」て祭ることができなかったことの方に疑問が湧く。


なぜなら、祟神天皇は大和に入った神武天皇から数えて10代も後の天皇であり、何を今さら土地神「倭大国魂」を祭ったら祭った姫が「髪落ち、体痩せ」て祭ることができなくなったのだろうか。


それ以前の10代の間、ずっと大和に王権を築いていたのであれば当然最初の神武天皇かそれまでの天皇の代に鎮められていてしかるべき「倭大国魂」のはずである。古代でも中世でも土地神を丁重に祭るのは、その土地に入って生活を築く上で必須のエチケットのようなものなのである。


それなのに10代も経過した後の祭主たるヌナキイリヒメが祭れなかったということは、この祟神王権が当時の大和にとっては外来の王権であったことを示唆してはいないだろうか。


また同天皇の7年条には、ヤマトトトヒモモソヒメと三輪山の主神「オオモノヌシ」との聖婚譚が記されているが、この話も大和王権の成立初期にとっくに祭っていてしかるべき三輪の土地神の説話でなければならないのに、何を今さらこの天皇の代の話として書かれなければならなかったのか。


これら祟神天皇の5年から7年にかけての記事から読み取れるのは、祟神天皇は当時の南九州由来の大和王権にとっては異質の外来王権であったということである。だから皇女ヌナキイリヒメや大叔母ヤマトトトヒモモソヒメが祭るのに難儀をしたり出来なかったりするのだ。


ではどこからの王権であろうか。それは祟神天皇と垂仁天皇の和風諡号に使われている「五十」(いそ)が示唆している。「五十」は仲哀天皇紀と筑前風土記逸文にある「五十迹手(いそとて)」という首長の故地である糸島半島(糸島市)で、ここを基点に北部九州全体に勢力を伸ばした王権である。


この王権の東遷こそが日本書紀に描かれた3年余で大和を征服した「大倭」(魏志倭人伝)王権で、この「大倭」(大いなる倭国)が奈良時代開始の頃に佳字化によって「大和」となったと考えている。


この新王権である祟神王権の大和への東遷により、滅ぼされたのが祟神10年条にある「武埴安彦」と「吾田姫」の王権であり、また垂仁天皇5年条にある「狭穂彦」「狭穂姫」の王権で、追い出されたのが神武天皇より先に大和葛城に入っていた「カモタケツヌミ」だろう。


カモタケツヌミ王権は葛城から、木津川中流の岡田に移動し、伏見あたりから鴨川をさかのぼって最終的には久我の山基、すなわち現在の下鴨神社(賀茂御祖神社)を中心とする京都市街地の北部に移動した(移動を余儀なくされた)のであろう。


※因みにトヨスキイリヒメは天照大神を笠縫に祭ることができたことからすると、外来王権である祟神天皇の本当の皇女ではなく、私はこのヒメこそ卑弥呼の後継者である「台与(とよ)」であろうと考えている。卑弥呼は「ひのみこ」であり、日を祭る斎主でもあったことからして後継者である台与(とよ)も当然日の神を祭ることにおいて不足はなかったと思われるのである。


トヨスキイリヒメという和風諡号からして、「とよ(豊)の城(宮殿)に入った姫」と読み取れ、これは私見での八女邪馬台国に、南から狗奴国が侵攻した際に敗れて逃れた先が今日の大分(豊国)であり、おそらく宇佐神宮の中殿の女神「ヒメノ神」はこの「トヨスキイリヒメ」だと考えてもいる