鴨着く島

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新春の京都三社と伊勢三宮(5)

2019-01-25 21:57:45 | 旅行

(4)では伊勢神宮の成立とその直前にあった崇神王権の大和への東征を述べたが、この崇神東征をもう少し詳しく述べ、さらにその年代の特定を書いておきたい。

私見では九州から大和への王権の移動すなわち東征(東遷)は二回あった。

一回目は南九州からの東征(というより移住)で、これが古事記に描かれた16年余りかかった「神武東征」。

二回目は今述べた「崇神東征」で、これは日本書紀に記されている3年余しかかからなかった東征であった。

崇神天皇のホームは北部九州で、崇神天皇は朝鮮半島南部の金海にあった伽耶国(倭人の国)を拠点にして海を渡り、北部九州の糸島半島(五十)に勢力を南下させた辰王(魏志韓伝)の後継者であった。(※故江上波夫東大教授はこの辰王を騎馬民族の首長とし、わずかな騎馬武者とともに対馬海峡を渡り、北部九州を席巻した挙句、大和へ侵入して新たな王朝を築いたとするが、辰王はけっして騎馬民族ではない。

辰王は魏志倭人伝によると中国大陸の殷王朝の末期に朝鮮半島に逃れた「箕子(キシ)」の40数代後の「準王」の後裔で、最初、北部朝鮮の楽浪から濊(ワイ)にかけての地域を支配していたが、秦末(紀元前220年頃)の混乱に乗じた衛満(エイマン)の侵入によって半島北部から南下して馬韓に身を寄せ、その後は倭人に支えられて辰韓を建国した。

しかし今度は魏の末期に大将軍・司馬懿の半島侵攻に遭い、朝鮮南部の韓の地から海を渡って糸島半島に本拠地を移した。その経緯を物語るのが崇神とその子垂仁の和風諡号である。どちらも糸島を意味する「五十」を含んでいる。

朝鮮半島で倭人の血を交えているから大陸の殷王朝の末裔と言ってもほぼ倭人となっていた崇神は、その後さらに北部九州に拡大して「大倭」(北部九州倭人連合)の棟梁となり、司馬懿の子の建国した晋王朝の支配した朝鮮半島からの海を渡っての攻撃の手が伸びるのを恐れ、北部九州から安全な大和への東征を決行した。

やや長くなってしまったが、以上が魏志倭人伝に加えて魏志韓伝をも精査して見出した二回目の東征(崇神東征)の概要である。

この東征により南九州由来の橿原王朝の後継である「武埴安彦・吾田姫」王権は滅ぼされ、神武以前に大和入りしていた「カモタケツヌミ」は京都(山城国)まで移動を余儀なくされたのである。

さてこの崇神東征の年代だが、崇神天皇は九州邪馬台国(私見では八女市)の卑弥呼が亡くなり、後継の「台与(とよ)」が後を継いだ頃に大和入りしたと考えられるので、西暦250年代だろうと思われる。

さらに、では最初の「神武東征」(私見では神武の子とされるタギシミミの移住)はというと、これは魏志倭人伝に書いてあるように「倭が大いに乱れて何年も戦いあって混乱したが、卑弥呼が擁立されてようやく収まった」とある140年代から180年代の初期の頃、すなわち140年代と考えている。

崇神王権は「大倭王権」とも言い換えられるが、それまでアマテラス大神を「同床共殿」で祭っていたのが出来なくなり、よそから来たがゆえに大和の土地神である「大和大国魂」も祭ることができなくなって「民の中から反乱を起こすものが現れる」事態を招いたわけである。

その結果として、ヤマトヒメはアマテラス大神(八咫鏡)の最良の捧持場所を求めて行き着いた先が伊勢の地であり、そこに創建されたのが伊勢神宮であった。