鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

新しい元号は「令和」

2019-04-01 18:50:47 | 日本の時事風景

今日の11時40分、菅官房長官から新元号がテレビ中継で発表された。

その元号は「令和」。

菅官房長官の口から「れいわ」と出て、すぐに額入りの色紙に書かれた文字を掲げたが、それを見て一瞬「うむ」と声が出た。

「和」は馴染みがあり、昭和生まれとしてはすんなりと入ってくる文字だが、「令」にはちょっと戸惑ってしまった。

「命令」「律令」などの熟語がとっさに浮かんだが、どちらも「上からのお達し」という意味合いなのだ。勢い庶民としては敬して遠ざける体の漢字である。

その一方で「令嬢」「令息」「令夫人」などとして使われ、「良い・優れた」という意味合いもある漢字ではある。

しかも、この漢字は万葉集の「梅の花」の詞書(ことばがき)から採用された初めての中国の古典からではない命名との説明を聞いて、最初に聞いた時点での違和感のようなものは次第に薄れた。

実は万葉集をわが「史話の会」では、一昨年の一年間学びに費やしていて、件の「梅の花」を二か月にわたって学んでいるのである。

万葉集と言っても原典である4500首余りを網羅したたとえば岩波書店発行の古典全集で学んだわけではなく、小学館から発行されているダイジェスト版に拠ったのだが、この「梅の花」については詳しく学んだのである。

というのは、この「梅の花」を詠んだ歌というのは、天平2年(西暦730年)のい旧暦の正月13日に詠まれているのだが、当時の太宰府長官であった大伴旅人が九州諸国の国司やそれ相当の高官を自邸に招き、各々に梅の花を織り込んだ歌を作らせた総数32首の和歌群なのである。

詠み人の中に当時の薩摩国と大隅国の高官が入っているので、詳しく見て行こうと、万葉集第五巻に掲載されている32首(万葉集4516首に付けられた通し番号で815番から846番まで)とそれぞれの詠み人の名前をプリントして会員に配り、二回にわたって学んだのだ。

それぞれの歌についてここでは触れないが、梅の花の宴の開催者である大伴旅人の歌だけを次に挙げておく(通し番号の822番)

 

  わが苑(その)に 梅の花散る 久方の 天より 雪の流れ来るかも 

 (太宰府長官の官邸に咲く梅の花が散っている。まるで天から雪が降るようだ。)

 

「令和」という漢字は、この32首の歌を詠むことになった事情を説明した「梅花の歌32首ならびに序」という詞書(ことばがき)の中にあるのだが、その内容についてはすっかり忘れていた。

慌てて万葉集を開いてみると、次のように述べられていた。(令と和を含む箇所と前後を挙げた。)

 

 「天平二年正月十三日、帥(そち=大宰府長官=大伴旅人)の老(おきな)の宅にあつまるは、宴会をのぶるなり。時に初春の令(よ)き月、気淑く、風和(なご)み、梅は鏡の前の粉(こ)を披き、蘭は「ハイ」(王へんに凧)の後の香を薫らす。しかのみならず、曙の嶺に雲移りては、松は羅を掛けて衣笠を傾け、・・・(後略)」

(天平2年=730年の正月13日に大宰府の長官官邸において宴会を催した。時に正月という良き月で、天気もよくて風もなく、梅の花が香ってまるで淑女が鏡の前でおしろいをはたくようであり、また庭の春蘭もハイ(高官・貴人が集う時に手にする楕円形の長い板)の後ろにしたためたの同じと香りを漂わせている。そのうえ、朝方の嶺に雲がかかって霞のように見え、嶺の松があたかも薄物の衣笠をかぶった令人のようだ・・・)

この詞書にあるように「令」は「よい」という意味があるので、最初の直観的な印象よりははるかに良い漢字だと知れる。

馴染むのにそうはかからないだろ。

「令和」はまた二文字の間に返り点を入れると「和せしむ」とも読めるから、世界の平和を進展させるという意味でもあり、日本が中心になって世界が和むようになればうれしい限りだ。

 


吾平山の御陵

2019-04-01 09:44:04 | 古日向の謎

3月31日(日)、歴史研究の「史話の会」の仲間と一緒に日南方面へ花見を兼ねて出かけた。

天気は上々だったが、西風が強く特に朝は肌寒かった。

7時に鹿屋市中心部にある城山公園駐車場を出発。志布志・串間・油津経由でまずは海岸べりに鎮座する「鵜戸神宮」を訪れた。

9時少し過ぎに到着したが、風の暖かさに驚く。同じ西風がやや強く吹くのだが、ほとんど冷たさを感じない。

鵜戸神宮の属する鵜戸(小字名)全体は一昨年の秋に国指定の名勝になっていた。鵜戸神宮の楼門には扁額に模した「祝 国指定名勝 鵜戸」の横看板がかかっていた。

 

さて、本殿は鵜戸(洞窟)の中にあり、その後ろの岸壁に「お乳岩」があるが、しかしこれはどう見ても神話への付会だろう。ウガヤフキアエズノミコトを生み置いて母のトヨタマヒメが海へと帰って行ってしまったと神話が語っているにしても、柔らかな乳房ではなく硬い岩の乳房ではどう しようもない。

その代わりに妹のタマヨリヒメ(トヨタマヒメの心に寄り添ったヒメ、という意味)をここへ送り、「お乳飴」を作って養育したーーというのがあらすじだが、現に近くの売店ではそれらしきものを参拝者に売っている。

だが、そのストーリーまでは呑むにしても、こんな岩だらけの場所ではそもそも暮らせまい。

神代の話としても、ここに住居を構えて生活することは不可能だ(まして赤子を抱えて)。

それより鵜戸神宮を含む鵜戸が国指定の名勝になったことの方をより一層アピールすべきだろう。

鵜戸神宮が創建されたのがいつかは不明だそうだが、江戸時代になって飫肥藩を治めていた伊東氏の崇敬により、今日見るような壮麗な神社になったという。

その功績は大で、もしその崇敬がこのような形を成していなかったら、ここは単に地学(地球物理学)の研究対象か、好ポイントを求めてやまない釣りマニアの絶好の雨宿り用の洞窟になっていただけかもしれない。

もう一つ鵜戸神宮で忘れてはならないのが、主祭神であるウガヤフキアエズ尊の御陵と言われる「吾平山上陵参考地」があることで、今日はその御陵があるとされる神宮の裏山に当たる「吾平山」に登ることにした。

楼門を過ぎた少し先、左手に鵜戸稲荷神社に向かう鳥居の列があり、それをくぐって稲荷神社の境内に入ると、右手に登山口がある。

入り口の看板に山上陵まで375mとあったので楽勝と思ったが、石段の歩幅と落差が結構大きく、また途中でうねうねと見事に露出した木の根のために階段が崩れていたりして、なかなかの道中だった。

ちょうど15分で山頂と思しき石の柵で仕切られたマウンドが見えた。陵墓参考地のため宮内庁の職員は詰めていないが、看板は立っていた。三段の階段の上には石の柵と鉄条網が巡らされ、立ち入りはできないが見た目は丸い円墳である。

だが、鵜戸神宮のところで見た説明では、山頂の「前方後円墳」とあるから、向こう側に「前方部」が伸びているのだろう。

この吾平山は人の手が入っていないため樹木の伐採がほとんどなく、眺望は全く得られないが、墓を築いたころは海を眺めるに適した地点だったと思われる。

このような海を望める場所に造られた古墳としては、志布志市の夏井にあるダグリ岬の上にもあった。そこは国民宿舎建設のために跡形もなく消えてしまったが、全長は80mくらいあったそうだ。※出土品の一部は志布志市文化財センターに収蔵されている。

また宮崎県では南郷町の市木という所にもある。3年前に行った岡山県の下津井半島も眺望の良い尾根の上に数基の古墳群が確認されており、海洋族の族長(豪族)の墓だというのが定説である。

さて、吾平山上陵参考地の墓がウガヤフキアエズの御陵とすれば時代的には新しすぎる。なぜなら前方後円墳は4世紀以降の形態だからだ。

ウガヤフキアエズの数代か数十代かあとの子孫で、海洋に生業を持った豪族の墓であるとすれば、つじつまが合うだろう。

自分のように古日向(ここ宮崎も古日向の一部であった)は魏志倭人伝で言う「投馬国」(国王はタギシミミ)であったとすれば、航海系の種族の突出した地域であるから、このような海を望む墳墓を築いてなんらおかしくない。

鵜戸神宮参拝のあと、日南市北郷にある花立公園の桜を見て昼食、そして同じく北郷にある「潮嶽神社」(主祭神は隼人の祖と言われるホスセリノミコト)を参拝し、宮司さん(佐師氏)のお話を聞いてから帰路に就いた。