国分市(現霧島市)国分ハウジングシビックセンターで、上野原縄文の森主催の『人と遺跡のものがたり~かごしまの考古学研究史~』というタイトルの企画展講演会――というのがあり、聴講に行って来た。
鹿児島の考古学発展にいかに先人たち(市井の研究者)が活躍していたかを、その人物像とともに取り上げた講演会である。
鹿児島の考古学的発掘に尽力した人物は河口貞徳という人で、高校の教師をしながら各地で発掘を推進している。他にも寺師見国、池水寛治、瀬戸口望、山崎五十麿などという人たちがいるが、とにかく河口氏をおいて他にはいない。
さて講演は現在の鹿児島県文化財審議会会長の本田道輝氏と、文化庁の主任文化財調査官の近江俊秀氏2名による講演であったが、前者の本田氏が鹿屋で発掘された「王子遺跡」の現地保存に奔走した話は興味深かった。
氏によると王子遺跡の現地保存のために上京して議員、特に鹿児島県選出の国会議員に陳情したのだが、中でも当時の有力者だったN階堂議員は賛成しなかったそうで、そのため結局のところ発掘の記録後は埋め戻され、その代わりに「王子遺跡資料館」というささやかな施設が 建てられた。
憤懣やるかたない本田氏は、王子遺跡資料館が建てられた後、一切資料館には行っていないそうである。
また後者の文化庁の近江氏は、戦後の文化財保護意識の高まりの契機になったのがあの「今太閤」こと列島改造論を唱えた田中角栄元首相だったことをさりげなく伝えていた。
(※面白いことにN階堂氏は田中角栄の盟友というべき人で、そうであれば遺跡保存より開発を優先したのもむべなるかなだろう。)
王子遺跡は2000年前の弥生時代中期の遺跡で、昭和国道220号線鹿屋バイパス工事の最中に見つかった遺跡。
竪穴住居が27軒、高床式建物(棟持ち柱式)が14軒も見つかっているが、棟持ち柱という現物が初めて見つかった貴重な遺跡である(調査は昭和56年~58年)。
このほかにも鉄製の「やりがんな」や「鉄滓(てっさい=鉄の加工くず)」という鉄の使用・加工がなされていたことが証明され、また遠く瀬戸内式土器も発見され、当時の交流の多様性が垣間見られる遺跡でもある。
王子遺跡の発掘範囲をもっと広ければ、まだ多数の住居跡や土器や鉄製品などが見つかったに相違なく、残念なことである。
王子遺跡は肝属川を眼下に見下ろす高台の遺跡だが、ここから直線距離で南東に7キロほどの鹿屋市吾平町下名の大姶良川と姶良川とに挟まれた台地で発見された名主原(みょうずばる)遺跡では王子遺跡より若干狭い範囲に54軒の住居跡が見つかっており、最近になって県内最古かもという弥生時代の円形墓も発掘されている。
ここも道路建設にかかる発掘調査であり、現地保存は難しい。
本田氏の説明では、今日の考古学的発掘のきっかけは道路工事などの事前調査が93%を占め、純粋に学術的な発掘はわずか7%に過ぎないという。
しかし土木工事前の発掘は手荒く、また時間の制約があるにせよ、何もなされずに埋もれたままよりかは役に立つのではないかと思う。
講演会は12時に終り、帰りは垂水の海岸通りを通って来たのだが、途中の「道の駅・ゆったり館」の温泉に入った。
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ここの足湯は有名で、足湯につかりながら眼前に桜島を眺めることができる。
水曜日からの寒波で桜島は雪をかぶっていた。こんな景色は一年で数回しかない貴重なものだ。
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