史話の会の8月例会は東地区学習センターで、8月16日(日)の午後1時半から開催された。テーマは「邪馬台国問題」で、今回が第2回であった。
先月の第1回でも触れたように、邪馬台国の所在地はどこか、及び邪馬台国のその後が「大和王権」につながるのかどうか、100年以上の論争があり、邪馬台国研究というより「問題」とした方がその状況をとらえていると思われる。
さて、今月からは私の著書である『邪馬台国真論』(2003年刊)をベースに「問題」を解明していく。
まずこの本の「はじめに」に記した「どうしても書いておかなくてはならない」という執筆の理由をを三つ説明した。「はじめに」の中にその三つを掲げたが、要点だけ抜き出すと次のようである。
1、魏志倭人伝に記載されている「朝鮮半島中部の帯方郡から倭の女王国、すなわち邪馬台国までの行程(距離と方角)記事」について、研究者の余りにも恣意的な解釈を正しておきたいこと。
特にどう考えても不可解なのが「伊都国=糸島」説で、末盧国の唐津市からは東北なのに倭人伝記載の「東南陸行」を無理やり当てはめてしまい、「著者の陳寿は倭国の地理に疎いから、東北を東南と勘違いした」という論法で押し切った。
これを援用すると伊都国からの行程記事で「南」とあるのはすべて「東」と読み替えられるので、東へ東へと瀬戸内海を通って畿内大和に到り、邪馬台国畿内説が唱えられるようになった。
しかし「伊都国=糸島」説なら、壱岐国から直接「水行(航海)」して到着すればよく、何もわざわざ唐津で船を捨て、魏の皇帝からの大事な下賜品(銅鏡100枚などかなり膨大であった)を唐津から糸島への海沿いの危険な崖道を歩く必要はないのだ。
畿内説は「南=東」説でしか成り立たないので論外だが、九州説の研究者もほとんどは同じ「伊都国=糸島」説なのである。しかし途中で「南はやはり南だ」と元に戻しているのは一貫性がなく解釈に整合性が得られていないゆえに、邪馬台国の所在地が狭い九州の中で20~30か所もあるという活況(?)を呈しており、畿内説者からは苦笑を頂戴するありさまである。
もっとも畿内説は、方角から言っても距離から見ても、邪馬台国は九州島内にしか求められないので考えるに値しないのであるが・・・。
(※「伊都国」について私見では「イツ国」と読み、「武力に秀でた国」と解釈する。唐津の末盧国からは素直に東南への道を取らせ、佐賀県厳木町から多久市・小城市を候補地としている。)
2、「魏志韓伝」も倭人伝同様に解釈(解読)しておきたかったこと。初めて魏志韓伝を読んだ時、半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)に「入れ墨をした者が多くいる」という点に注目し、これを海人系(航海系)の倭人ではないかと思い至り、朝鮮半島南部(の倭人)と九州島の倭人との濃厚な関係を解明したかったこと。
3、邪馬台国はその南の狗奴国(おおむね今日の熊本県域に所在)によって併呑されて滅び、大和王権とは繋がらないこと、及び南九州(古日向)には「投馬国」があり、神武東征とは記紀で神武の皇子とされている「投馬国王タギシミミ」の東征に他ならないこと。また100年ほど遅れて北部九州からの東征があり、その主体は崇神天皇(ミマキイリヒコイソニヱ)だったこと。
以上の3点について、この本のそれぞれ「第1部」「第2部」「第3部」に分けて詳細に論じている。
今日の第2回の前半では、この3点について板書しながら略説した。
後半はいよいよ「魏志倭人伝」本文の解読に入った。
拙著では魏志倭人伝本文を読み下しではなく、漢文のまま載せてあるが、返り点はついているので皆は何とか読めそうである。
この本では69行にわたっているのだが、今日は12行を読解した。以下に読み下し文を書くが、旧漢字は新字に改め、数字は算用数字にしてある。また、適宜に改行した。
【三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝「倭人」】
〈倭人は帯方の東南大海中に在り。山島によりて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時に朝見せし者あり。今、使訳の通ずる所、三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、南し、東しながら、その北岸・狗邪韓国に到る。(その道程は)7000余里なり。
はじめて一海を渡ること1000余里、対馬国に到る。その大官を卑狗(ひこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)という。居る所は絶島にして、方(面積)400余里。土地は山険しく、深林多し。道路は禽鹿の径の如し。1000余戸あり。良田は無く、海の物を食べて自活す。船に乗って南北に市糴(シテキ)す。
また南へ一海を渡ること1000余里、(この海を)名付けて「瀚海(カンカイ=広い海)」という。一大(壱岐)国に至る。官は卑狗、副は卑奴母離という。方は300余里。竹木叢林多し。3000ばかりの家あり。差(やや)田地あり。田を耕すもなお食するに足らず、また南北に市糴(シテキ)す。
また一海を渡ること1000余里、末盧国に至る。4000余戸あり。山海に濱して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕る。(海・川の)水の深浅となく、皆沈没して之を取る。
東南へ陸行500里にして伊都国に到る。官は爾支(ぬし)、副は泄謨觚(せぼこ)・柄渠觚(ひここ)という。1000余戸あり。世に王あり。皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐(とど)まる所なり。
東南、奴国に至る、100里。官は兕馬觚(しまこ)、副は卑奴母離。2万余戸あり。
東行、不彌国に至る、100里。官は多模(たも)、副は卑奴母離。2000余家あり。
南至る投馬国、水行20日。官は彌彌(みみ)、副は彌彌那利(みみなり)。5万余戸なるべし。
南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月。〉
以上までが第2回の解読部分であった。
現在のソウルの西海岸に所在した帯方郡に属する港から水行(航海)して、海岸を左手に見ながらの「沿岸航法」で南下して行くと朝鮮海峡に到り、それを東へ東へと走って「狗邪韓国」に到達する。
狗邪韓国はれっきとした倭人の国で、今日の金海市(金官伽耶)だろうとされる。ここから朝鮮海峡を南へ渡る。1000里で対馬国に到達する。
さらに一海を渡り、今度は壱岐国(一大国は一支国の誤り)に着く。ここは対馬国より人口が多く、田んぼも作っているがすべてには行き渡らず、海産物を食し、対馬人同様、船で南北に交易するという。
今もそうだが対馬も壱岐も米の自給は不可能な土地柄であり、海産物や観光で生活を立てている。
さてまた一海(玄界灘)を渡ると末盧国。現在の唐津市である。意外にも壱岐国と同じ4000戸程度だが、当時の唐津には松浦川河口の三角州は発達しておらず、今のような市街地は存在しなかった。それで海沿いの傾斜地に点々と居住するほかなかったのだろう。しかも道路は「行くに前人を見ず」というように照葉樹林の深い森のうっそうと茂る中を通るしかなかった。
問題の「伊都国」はここ末盧国から「東南陸行500里」にある。
伊都国を糸島市としたい研究者はこの「東南」を「東北」に読み替える(あるいは東南を無視する)。しかし糸島市なら壱岐から船で直行すればよいのである。なぜ壱岐から同じくらいの距離にある唐津にわざわざ水行してそこで船を捨て、「行くに前人を見ず」というような難路を糸島まで歩かなければならないのだろうか。
私はこれまでこの部分の合理的な説明を聞いたことがない。伊都国が糸島市でないことは明らかだろう。糸島を伊都国と比定したことで畿内説が「南は東の誤りだ」として大手を振ってしまったことは、倭人伝解釈上の最大の誤謬(災厄)であった。
唐津から東南に行く道が無いのならまだしも、松浦川沿いの道があるではないか。この道を郡使たちは歩いたのである。「行くに前人を見ず」というのは谷川沿いの道が細く険しい上に、木々がうっそうと茂った中を曲がりくねりながら歩いた様をよく描写している。
松浦川沿いの山中にある厳木(きうらぎ)町が伊都国(イツ国)の可能性が高い、と今はそう考えている。「厳木」は「イツキ」とも読める。「伊都(イツ)の城(キ)」ではないか。戸数が1000戸と少ないのも当てはまる。
伊都国から東南に100里で、奴国。ここは戸数2万戸とけた違いに多いが、遠浅の海となだらかな山に恵まれた多久市と小城市あたりなら可能だろう。
さらに東へ100里行った所が不彌国で、今の大和町界隈だろうか。佐賀市はまだ海中か海岸すれすれの居住不能な土地だったと思われる。
次は「南へ至る、投馬国、水行20日」とあるので、投馬国は不彌国の南で、不彌国から船で20日の行程にある、と考えられそうだが、私はこの「南へ」は「帯方郡から南へ」と考えるのである。
この解釈は次の「南へ至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」の「南へ」と同じと考えているので、先に「南へ至る、邪馬台国・・・」の方を解読しておく。
今回の倭人伝読解には間に合わなかったのだが、実は帯方郡から邪馬台国への行程がもう一箇所記されていた。それはこの「南へ至る、邪馬台国・・・」の記事よりまだ7行先の次の記事である。
〈郡より女王国に至る、万二千余里。〉
この一文は、郡使が邪馬台国に到達してから、邪馬台国の官制を紹介し、さらに女王国に属する30の国々を羅列し、最後に女王国と敵対する狗奴国を取り上げた段落の一番最後に挿入されているのだが、まさしく帯方郡から女王国までの距離は12000里(余は省略する。以下同様)だと言っているのである。
そこで帯方郡からの行程に登場した二地域間の距離表記を加算してみると、帯方郡・狗邪韓国間(A)が7000里、狗邪韓国・対馬間(B)が1000里、対馬・壱岐間(C)が1000里、壱岐・末盧国(唐津)間が1000里なので合計は10000里となる。そうすると12000里-10000里=2000里が末盧国と女王国間の距離ということになり、ここからも畿内説は成り立たないことが分かる。
この12000里だが、ちゃんとした正確な距離ではないことは、いま指摘した狗邪韓国から末盧国までの三地点間をすべて1000里で表記していることから判明する。まず海の上では距離は測れないことで「里」という距離表記はそもそもおかしい。そして何よりも各地点間の実際の距離は同じ1000里で表すには違いが大きすぎる。(A):(B):(C)は9:6:4くらいの差があり、特に(A):(C)などは2倍以上の差である。これらを同じ距離表記で表す理由は何であろうか。
この海峡を渡る三地点間が同じ1000里表記なのは、要する日数が同じということを意味しているのだ。ではこの1000里は何日を要するのか。それは一日である。海峡を渡る途中で寝るわけにはいかないのだ。したがって水行1000里というのは「一日行程」と解ける。
これを当てはめると、狗邪韓国から末盧国までに要する日数は3日となる。さらに帯方郡から狗邪韓国までの水行は7000里であったから要する日数は7日。この7日と3日で10日。
一方、先に見たように「南へ至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」であったが、この中の「水行10日」が、まさに「帯方郡から狗邪韓国を経由して末盧国までの水行10000里」すなわち「必要日数の10日」に該当する。
よって、「南へ至る、邪馬台国・・・」の「南へ」は「帯方郡から南へ」ということと同値だと分かる。したがって帯方郡から末盧国までの水行10日を除く「陸行1月」が末盧国から邪馬台国までの必要日数ということになる。つまり末盧国に上陸したら、あとは歩いて行き着く所に邪馬台国があるということである。
これで二重に畿内説は成り立たないことが言えるわけで、邪馬台国は九州島の内部に求める他ないのである。(※私見では九州説のうち「八女市」説であるが、これについては次の回の時に詳述する。)
後回しになったが、投馬国はどこか。
これにも今の「帯方郡から南へ水行20日」を採用し、末盧国までが水行10日であったから、さらに末盧国から水行10日のところが投馬国に比定される。唐津から東回りでも西回りでもさらに水行10日というと、西回りなら薩摩半島あたり、東回りなら日向から大隅半島が該当しよう。
宮崎県の西都市の一部に妻という地名があるので、このあたり一帯を投馬国に比定する人が多いが、投馬国は5万戸という稀に見る大国で、そのあたりだけでは到底入りきらない。南九州全体を投馬国と考えないと無理である。
よって私見では投馬国は南九州(古日向)全域に比定する。
(邪馬台国問題 第2回 終わり)
先月の第1回でも触れたように、邪馬台国の所在地はどこか、及び邪馬台国のその後が「大和王権」につながるのかどうか、100年以上の論争があり、邪馬台国研究というより「問題」とした方がその状況をとらえていると思われる。
さて、今月からは私の著書である『邪馬台国真論』(2003年刊)をベースに「問題」を解明していく。
まずこの本の「はじめに」に記した「どうしても書いておかなくてはならない」という執筆の理由をを三つ説明した。「はじめに」の中にその三つを掲げたが、要点だけ抜き出すと次のようである。
1、魏志倭人伝に記載されている「朝鮮半島中部の帯方郡から倭の女王国、すなわち邪馬台国までの行程(距離と方角)記事」について、研究者の余りにも恣意的な解釈を正しておきたいこと。
特にどう考えても不可解なのが「伊都国=糸島」説で、末盧国の唐津市からは東北なのに倭人伝記載の「東南陸行」を無理やり当てはめてしまい、「著者の陳寿は倭国の地理に疎いから、東北を東南と勘違いした」という論法で押し切った。
これを援用すると伊都国からの行程記事で「南」とあるのはすべて「東」と読み替えられるので、東へ東へと瀬戸内海を通って畿内大和に到り、邪馬台国畿内説が唱えられるようになった。
しかし「伊都国=糸島」説なら、壱岐国から直接「水行(航海)」して到着すればよく、何もわざわざ唐津で船を捨て、魏の皇帝からの大事な下賜品(銅鏡100枚などかなり膨大であった)を唐津から糸島への海沿いの危険な崖道を歩く必要はないのだ。
畿内説は「南=東」説でしか成り立たないので論外だが、九州説の研究者もほとんどは同じ「伊都国=糸島」説なのである。しかし途中で「南はやはり南だ」と元に戻しているのは一貫性がなく解釈に整合性が得られていないゆえに、邪馬台国の所在地が狭い九州の中で20~30か所もあるという活況(?)を呈しており、畿内説者からは苦笑を頂戴するありさまである。
もっとも畿内説は、方角から言っても距離から見ても、邪馬台国は九州島内にしか求められないので考えるに値しないのであるが・・・。
(※「伊都国」について私見では「イツ国」と読み、「武力に秀でた国」と解釈する。唐津の末盧国からは素直に東南への道を取らせ、佐賀県厳木町から多久市・小城市を候補地としている。)
2、「魏志韓伝」も倭人伝同様に解釈(解読)しておきたかったこと。初めて魏志韓伝を読んだ時、半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)に「入れ墨をした者が多くいる」という点に注目し、これを海人系(航海系)の倭人ではないかと思い至り、朝鮮半島南部(の倭人)と九州島の倭人との濃厚な関係を解明したかったこと。
3、邪馬台国はその南の狗奴国(おおむね今日の熊本県域に所在)によって併呑されて滅び、大和王権とは繋がらないこと、及び南九州(古日向)には「投馬国」があり、神武東征とは記紀で神武の皇子とされている「投馬国王タギシミミ」の東征に他ならないこと。また100年ほど遅れて北部九州からの東征があり、その主体は崇神天皇(ミマキイリヒコイソニヱ)だったこと。
以上の3点について、この本のそれぞれ「第1部」「第2部」「第3部」に分けて詳細に論じている。
今日の第2回の前半では、この3点について板書しながら略説した。
後半はいよいよ「魏志倭人伝」本文の解読に入った。
拙著では魏志倭人伝本文を読み下しではなく、漢文のまま載せてあるが、返り点はついているので皆は何とか読めそうである。
この本では69行にわたっているのだが、今日は12行を読解した。以下に読み下し文を書くが、旧漢字は新字に改め、数字は算用数字にしてある。また、適宜に改行した。
【三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝「倭人」】
〈倭人は帯方の東南大海中に在り。山島によりて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時に朝見せし者あり。今、使訳の通ずる所、三十国。
郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、南し、東しながら、その北岸・狗邪韓国に到る。(その道程は)7000余里なり。
はじめて一海を渡ること1000余里、対馬国に到る。その大官を卑狗(ひこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)という。居る所は絶島にして、方(面積)400余里。土地は山険しく、深林多し。道路は禽鹿の径の如し。1000余戸あり。良田は無く、海の物を食べて自活す。船に乗って南北に市糴(シテキ)す。
また南へ一海を渡ること1000余里、(この海を)名付けて「瀚海(カンカイ=広い海)」という。一大(壱岐)国に至る。官は卑狗、副は卑奴母離という。方は300余里。竹木叢林多し。3000ばかりの家あり。差(やや)田地あり。田を耕すもなお食するに足らず、また南北に市糴(シテキ)す。
また一海を渡ること1000余里、末盧国に至る。4000余戸あり。山海に濱して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕る。(海・川の)水の深浅となく、皆沈没して之を取る。
東南へ陸行500里にして伊都国に到る。官は爾支(ぬし)、副は泄謨觚(せぼこ)・柄渠觚(ひここ)という。1000余戸あり。世に王あり。皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐(とど)まる所なり。
東南、奴国に至る、100里。官は兕馬觚(しまこ)、副は卑奴母離。2万余戸あり。
東行、不彌国に至る、100里。官は多模(たも)、副は卑奴母離。2000余家あり。
南至る投馬国、水行20日。官は彌彌(みみ)、副は彌彌那利(みみなり)。5万余戸なるべし。
南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月。〉
以上までが第2回の解読部分であった。
現在のソウルの西海岸に所在した帯方郡に属する港から水行(航海)して、海岸を左手に見ながらの「沿岸航法」で南下して行くと朝鮮海峡に到り、それを東へ東へと走って「狗邪韓国」に到達する。
狗邪韓国はれっきとした倭人の国で、今日の金海市(金官伽耶)だろうとされる。ここから朝鮮海峡を南へ渡る。1000里で対馬国に到達する。
さらに一海を渡り、今度は壱岐国(一大国は一支国の誤り)に着く。ここは対馬国より人口が多く、田んぼも作っているがすべてには行き渡らず、海産物を食し、対馬人同様、船で南北に交易するという。
今もそうだが対馬も壱岐も米の自給は不可能な土地柄であり、海産物や観光で生活を立てている。
さてまた一海(玄界灘)を渡ると末盧国。現在の唐津市である。意外にも壱岐国と同じ4000戸程度だが、当時の唐津には松浦川河口の三角州は発達しておらず、今のような市街地は存在しなかった。それで海沿いの傾斜地に点々と居住するほかなかったのだろう。しかも道路は「行くに前人を見ず」というように照葉樹林の深い森のうっそうと茂る中を通るしかなかった。
問題の「伊都国」はここ末盧国から「東南陸行500里」にある。
伊都国を糸島市としたい研究者はこの「東南」を「東北」に読み替える(あるいは東南を無視する)。しかし糸島市なら壱岐から船で直行すればよいのである。なぜ壱岐から同じくらいの距離にある唐津にわざわざ水行してそこで船を捨て、「行くに前人を見ず」というような難路を糸島まで歩かなければならないのだろうか。
私はこれまでこの部分の合理的な説明を聞いたことがない。伊都国が糸島市でないことは明らかだろう。糸島を伊都国と比定したことで畿内説が「南は東の誤りだ」として大手を振ってしまったことは、倭人伝解釈上の最大の誤謬(災厄)であった。
唐津から東南に行く道が無いのならまだしも、松浦川沿いの道があるではないか。この道を郡使たちは歩いたのである。「行くに前人を見ず」というのは谷川沿いの道が細く険しい上に、木々がうっそうと茂った中を曲がりくねりながら歩いた様をよく描写している。
松浦川沿いの山中にある厳木(きうらぎ)町が伊都国(イツ国)の可能性が高い、と今はそう考えている。「厳木」は「イツキ」とも読める。「伊都(イツ)の城(キ)」ではないか。戸数が1000戸と少ないのも当てはまる。
伊都国から東南に100里で、奴国。ここは戸数2万戸とけた違いに多いが、遠浅の海となだらかな山に恵まれた多久市と小城市あたりなら可能だろう。
さらに東へ100里行った所が不彌国で、今の大和町界隈だろうか。佐賀市はまだ海中か海岸すれすれの居住不能な土地だったと思われる。
次は「南へ至る、投馬国、水行20日」とあるので、投馬国は不彌国の南で、不彌国から船で20日の行程にある、と考えられそうだが、私はこの「南へ」は「帯方郡から南へ」と考えるのである。
この解釈は次の「南へ至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」の「南へ」と同じと考えているので、先に「南へ至る、邪馬台国・・・」の方を解読しておく。
今回の倭人伝読解には間に合わなかったのだが、実は帯方郡から邪馬台国への行程がもう一箇所記されていた。それはこの「南へ至る、邪馬台国・・・」の記事よりまだ7行先の次の記事である。
〈郡より女王国に至る、万二千余里。〉
この一文は、郡使が邪馬台国に到達してから、邪馬台国の官制を紹介し、さらに女王国に属する30の国々を羅列し、最後に女王国と敵対する狗奴国を取り上げた段落の一番最後に挿入されているのだが、まさしく帯方郡から女王国までの距離は12000里(余は省略する。以下同様)だと言っているのである。
そこで帯方郡からの行程に登場した二地域間の距離表記を加算してみると、帯方郡・狗邪韓国間(A)が7000里、狗邪韓国・対馬間(B)が1000里、対馬・壱岐間(C)が1000里、壱岐・末盧国(唐津)間が1000里なので合計は10000里となる。そうすると12000里-10000里=2000里が末盧国と女王国間の距離ということになり、ここからも畿内説は成り立たないことが分かる。
この12000里だが、ちゃんとした正確な距離ではないことは、いま指摘した狗邪韓国から末盧国までの三地点間をすべて1000里で表記していることから判明する。まず海の上では距離は測れないことで「里」という距離表記はそもそもおかしい。そして何よりも各地点間の実際の距離は同じ1000里で表すには違いが大きすぎる。(A):(B):(C)は9:6:4くらいの差があり、特に(A):(C)などは2倍以上の差である。これらを同じ距離表記で表す理由は何であろうか。
この海峡を渡る三地点間が同じ1000里表記なのは、要する日数が同じということを意味しているのだ。ではこの1000里は何日を要するのか。それは一日である。海峡を渡る途中で寝るわけにはいかないのだ。したがって水行1000里というのは「一日行程」と解ける。
これを当てはめると、狗邪韓国から末盧国までに要する日数は3日となる。さらに帯方郡から狗邪韓国までの水行は7000里であったから要する日数は7日。この7日と3日で10日。
一方、先に見たように「南へ至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」であったが、この中の「水行10日」が、まさに「帯方郡から狗邪韓国を経由して末盧国までの水行10000里」すなわち「必要日数の10日」に該当する。
よって、「南へ至る、邪馬台国・・・」の「南へ」は「帯方郡から南へ」ということと同値だと分かる。したがって帯方郡から末盧国までの水行10日を除く「陸行1月」が末盧国から邪馬台国までの必要日数ということになる。つまり末盧国に上陸したら、あとは歩いて行き着く所に邪馬台国があるということである。
これで二重に畿内説は成り立たないことが言えるわけで、邪馬台国は九州島の内部に求める他ないのである。(※私見では九州説のうち「八女市」説であるが、これについては次の回の時に詳述する。)
後回しになったが、投馬国はどこか。
これにも今の「帯方郡から南へ水行20日」を採用し、末盧国までが水行10日であったから、さらに末盧国から水行10日のところが投馬国に比定される。唐津から東回りでも西回りでもさらに水行10日というと、西回りなら薩摩半島あたり、東回りなら日向から大隅半島が該当しよう。
宮崎県の西都市の一部に妻という地名があるので、このあたり一帯を投馬国に比定する人が多いが、投馬国は5万戸という稀に見る大国で、そのあたりだけでは到底入りきらない。南九州全体を投馬国と考えないと無理である。
よって私見では投馬国は南九州(古日向)全域に比定する。
(邪馬台国問題 第2回 終わり)