鴨着く島

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邪馬台国問題 第5回(「史話の会」11月例会)

2020-11-24 09:29:09 | 邪馬台国関連
今回は私見の邪馬台国問題では5本の指に入る大事な視点を解説した。

5本の指に入る視点とは、一つは勿論「邪馬台国の場所」であり、二番目が「投馬国の位置」、三番目が「伊都国の位置」、四番目が「邪馬台国の官制のトップ・伊支馬(イキマ)」、そして五番目がこれから書いて行く「大倭(タイワ)」である。

この「大倭」を含んだ原文(読み下し)は次の通り。

【国々に市有りて、有る無しを交易す。大倭をして之を監せしむ。
女王国より以北、特に一大率を置きて諸国を検察す。諸国これを畏れ憚る。常に伊都国に治せり。
国中に於いて刺史のごときあり。王の京都・帯方郡・諸韓国に使いを遣るや、及び郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送し、女王に詣らしめて差錯するを得ず。】

最初の行に「大倭」が登場する。このタイワを一般には「倭の大人」と解釈するのだが、それなら「倭大人」と書けばよいのであって二文字が一つ増えて三文字になるくらいなことで、長くなるから一文字を惜しんだとは思えない。

この行の意味は「九州島の倭人の国々には市があって商取引をしている。それを大倭に監督させている」ということであるが、大倭は倭の大人(倭人の中の立派な人)でもなければ、邪馬台国の官制(イキマ・ミマショウ・ミマワキ・ナカテ)のいずれでもない。

商取引の監督に自国の官吏を使っているのであれば、その名称が出て来てもおかしくない。例えば「市長(イチオサ)」などという邪馬台国特有の官名があってよいはずだ。そこを「大倭」としてあるのは、「大倭」という邪馬台国とは別の組織に拠っているのではないかと私は考えたのである。

次の行の「一大率(ダイソツ)」」とは「大きな軍隊」であり、これが女王国以北にある「伊都国」に置かれていて、女王国に属する諸国は大いに恐れている。この様子は「大倭」と同様、邪馬台国とは別の組織から派遣された軍隊であり、それが伊都国に置かれていたことを示唆している。

この「一大率」も結局は「大倭」によるものと考えたのであるが、ではこの「大倭」とはいかなる組織だろうか。

私はこれを「邪馬台女王国連盟」に対して「北部九州倭人連合」と名付けるのだが、こtれは博多(春日市」)奴国を併呑した糸島市の「五十(いそ)王国=崇神天皇(辰韓王)家の九州島での本拠地」を中心とする倭人連合で、これが「大倭」の正体であった。

この北部九州倭人連合が、北部九州から筑紫野を南下して勢力を広げて来た時、戦って敗れたのが今は戸数千戸という極小国に成り果てた「伊都(いつ)国=イツは厳のこと」であり、そこに「大倭」こと北部九州倭人連合が「一大率」を置いたのである。

女王国連盟は伊都国対北部九州倭人連合の戦いに直接加担しなかったものの、北部九州倭人連合(大倭)への加担よりかは伊都国への関与が大きかったため、終戦後は交易を監督され、一大率という「占領軍」の監視下にあったのであろう。官制のトップの「伊支馬(イキマ)=生目」は江戸時代の官制である「大目付」(おおめつけ)と同義の「監視役」で、戦後の連合軍総司令官マッカーサーに喩えられるかもしれない。

この北部九州倭人連合が倭人伝に載らなかったのは、魏王朝が九州の倭人国としては邪馬台国としか「国交」が無かったからである。使い(朝貢)もなければ挨拶(拝謁)にも来ない国は『魏書』という公式文書に載ることはないのだ。

「刺史」というのは文字を読み書きできる文官のことで、当時の九州島の倭人国では国々に刺史に似た文官がいて事務的な処理を行っていたようである。これは倭人というより朝鮮半島を経由して渡来した燕国由来の大陸系文官群がいたのかもしれない。もちろん純粋の倭人でも多少の漢語の読み書き、会話は出来たであろう。

さて、私見の「大倭」が北部九州倭人連合のことだとした論拠は以上だが、『先代旧事本紀』という、公式文書ではなく、記紀や『続日本紀』とは一線を画されている書物に、次のような興味のある個所がある。「大倭国」が二度も登場するのである。

『先代旧事本紀』第十巻「国造本紀(こくぞうほんぎ)」の前文(仮名交じり文=意訳・省略有り)
【天孫ニニギノミコトの孫イワレヒコノミコト、古日向より発して「倭国」に赴かんとす。東征の時「大倭国」に於いて漁夫に会えり。左右に言いて曰く「海中に浮かべる者、何者なるや」。使者が復命して曰く「これ人あるのみ。名はシイネツヒコ。すなわち召し率いて来たれり」。天孫問い給う、「汝は誰ぞ」。答えて曰く「吾はこれ皇祖ホホデミノミコトの孫、シイネツヒコなり。悉く海陸の道を知れり。まさに導き使え奉るのみ」。(省略)来たりて遂に天下を治平したり。既にして初めて橿原に都し、天皇位に就く。(省略)シイネツヒコを以て「大倭(大和)国造」と為す。(後略)】

『東征の時、「大倭国」で漁夫に出会った』とあるが、この「大倭国」が「大和国」でないことは確かだろう。これから東征に行くその目的地がいきなり登場することはない。この「大倭国」を吉川弘文館の国史大系第7巻の頭注では「大倭国、まさに筑紫に作るべし」とあり、「筑紫」の誤記であるとしている。しかし誤記するにも程というものがあって、この誤記はあり得ないだろう。

記紀の東征説話にもシイネツヒコ(サオネツヒコ)は登場するが、古事記では吉備国の先の「速吸門(はやすいのと)」であり、書紀では北部九州の筑紫国に着く手前の「速吸門」である。そうすると「速吸門」を「大倭国」と間違えたことになるが、こっちはもっとあり得ないだろう。

まだ前者の「筑紫国の誤りだ」—―とする方が理に適っている。筑紫と大倭ではえらい違いで、誤記することはまずない。したがってこの記述は「筑紫=大倭」を意味しているとしてよいのではないか。すなわち最初に登場する「大倭国」とは「筑紫国」に他ならないことを表明していると言ってよいだろう。

筑紫とは今日のほぼ福岡県域であり、私見ではその南半分の八女に存在した邪馬台国にたいし、その北半分には北部九州倭人連合すなわち「大倭」があったことを別の視点から証明している文書だと考えるのである。

このことはまた、九州北部の「大倭」が東征して入った先が「大和」になったことをも示唆している。

この北部倭人連合の東征の主導者は糸島(五十)王家の主である崇神天皇であり、それ以前に入っていた南九州投馬国王統の「橿原王家」を駆逐している。その時敗れた橿原王家の主は「タケハニヤス・アタヒメ」の王と王妃であろう。