鴨着く島

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非時香実(トキジクノカグノミ)は橘か?

2023-03-07 15:38:33 | 記紀点描
この冬も多種多様なミカン類には随分と楽しませてもらった。

まだ青さの残る温州ミカンから、ポンカン、タンカン、サワーポメロ、デコポン、伊予カンなどそれぞれに由来のあるミカン類、それに貴重な伝統的なミカンである「辺塚ダイダイ」、ゆず、スダチなどきりがないほどだ。

おおむねそのまま食するが、小さ目で硬いタイプのは果汁を絞って焼酎に入れる。昨今は「サワー」と称して炭酸割が流行しており、自分も晩酌に取り入れた。特に辺塚ダイダイ入りのサワー焼酎は、香りがきりっとしていて湯上りにはもってこいだった。

このミカンだが、我が国への招来が伝説として記紀に記されている。

日本書紀によると第11代の垂仁天皇の時、天皇が臣下のタジマモリ(田道間守)に命じて常世の国に行かせ、そこから「非時香実」(トキジクノカグノミ=季節によらず輝くように実っている果実)を招来しようとしたのである。それは実に垂仁天皇90年のことであった。

<90年の春2月の1日、天皇は田道間守に命じ、常世国に遣わして、非時香実(トキジクノカグノミ)を求めしむ。いま、橘といふは是なり。>

しかし同99年7月に垂仁天皇は「纏向(まきむく)宮」で崩御する。時に140歳であったという。

(※この日本書紀に記された統治期間99年といい、崩御の歳が140歳という長期間・長寿はもちろん有り得ず、それぞれ引き延ばしされている。99年の統治期間の内、実に77年は何の事績も記されていないので、実際には99年から77年を引いた22年が統治期間であったとする見方を私は採用している。それによれば垂仁天皇の寿命は140-77で63歳ほどになる。リーズナブルだと思う。)

さて、タジマモリは垂仁天皇の崩御を知らずに10年かかって帰ってきたが、天皇の死を嘆き、持参したトキジクノカグノミを天皇の御陵にお供えしたあと自死したという(古事記では半分を皇后に捧げ、残り半分を天皇陵に供えたとある)。

後世タジマモリの高潔を慕った人々が、タジマモリを「菓子の神」として祭ることになったが、タジマモリは但馬国の出身であったため、現在の兵庫県豊岡市に「中嶋神社」という社名の神社があり、タジマモリを主祭神として祭っている。例祭には菓子工業会を始め菓子作りの業者の参拝が盛大だという(菓子の菓は本来は果物の意味で、ミカン類は今日の菓子=スイーツに匹敵した)。

タジマモリは、実は豊岡市の歴史的な地名である出石地方に垂仁天皇の父第10代崇神天皇の時に半島の新羅から渡来して来た「天日槍(アメノヒホコ)」の5世孫であった。

アメノヒホコと言えば和牛の原点である但馬牛の導入に関与していたらしいので、5世孫のタジマモリが菓子の原点であるミカンを導入したとなれば、但馬は今日においても食の最高峰とも言える和牛と柑橘類の両方のルーツとしての栄誉が与えられてよい。

ところが話はここでは終わらない。

和牛の方はさて置き、ミカンである。一般にはタジマモリが常世の国(神仙の国とされる。おそらく聖王母の住むという西域ではないか)から持参したトキジクノカグノミを「橘(たちばな)」に比定するのだが、実は橘は魏志倭人伝に登場しているのである。

倭人伝では、初めの方に九州内の邪馬台女王国に至る行程と倭人の国々のあらましを述べたあと、倭人国内の地理や風習・風物の描写に入るのだが、その中に次のように記されている(書き下し文にしてある)。

<真珠・青玉を出す。其の山には肉(動物=鹿・猪など)あり。その木には(クヌギなど9種類を挙げている)あり。その竹には篠竹などあり。薑(はじかみ)・橘・椒・蘘荷あり。以て滋味と為すを知らず。>

倭人国の特産や産物・植物を描いた中の下線で示した部分に「橘」があるのだ。しかも「滋味としていない」つまり食していないとも書いている。

橘がミカンの一種であることは間違いないから、トキジクノカグノミがもしミカンであれば倭人の国(倭人伝では九州)には橘が自生していたわけで、わざわざ10年もかけて常世の国まで行かなくてもよかったことになるだろう。

したがって通説の「トキジクノカグノミ=橘」説は揺らぐしかない。

橘ではないとすると、トキジクノカグノミ(非時香実)とは何を指すのか?

そもそも「常世の国」とはどこなのか。何なのか。

その点については次回の論考になる。