毎年11月の第1日曜日、鹿屋市吾平町では合併前の旧町時代から文化祭が行われていて本年で46回目、今年も「美(うまし)里うたごえ同好会」の一員として参加した。
去年からは、毎年10月の最終日曜日に開催されていた敬老会がこの文化祭と合同で行われるようになった。
吾平町単独での敬老会は今年で何と115回を数えるそうだ。単純に引き算すると最初の開催は1909年、明治32年ということになる。途中、戦時中で開催不可能の年もあったろうから、もう少し前から行われていたに違いない。
とにかく古い。明治の30年というと吾平町がまだ姶良村だった時代だ。
もしかしたら敬老会はまだ現在の吾平町域全体で催されていたのではなかったかもしれない。今の大字で言うと麓、上名、下名・・・という小村単位だったのではないか。
その小村単位が合併して「姶良村」になり、「敬老こそが村是」という指導者の下、各大字単位で行われていた敬老会が合同で催されることになった。それも明治の「大合併」の余波だったのだろう。
敬老の理念がこれほど長く自治体で続いた例は寡聞にして知らないが、戦後になって、たしか兵庫県の某町で長く続く「老人の日」が毎年9月15日に行われていたのを参考に政府が採用して「敬老の日」が制定されたと聞くが、その某町の敬老会はいつから始まっていたのだろうか。
おそらく明治からではあるまい。吾平町(姶良村)こそが先駆者だったと思われる。
その穿鑿は置くとして、吾平町がなぜ姶良町ではないのか。吾平町を流れる母なる川は「姶良川」であり、明治20年代はまだ姶良郷であり、確実に江戸時代から続いている地名である。
(※もっと古いことを言えば、「あいら」を「姶﨟郷(姶羅郡)」と書いているのが『倭名類聚抄』の郡郷一覧中の大隅国の地名に登場する。この類聚抄が著されたのは平安時代前半で、約1100年前のこと。)
それを「吾平町」に改めたのは戦後の昭和22年のことだった。
というのも現在の姶良市の前身が「姶良郡姶良町」だったからである。向こうにも「姶良」こっちも「姶良」では紛らわしいとのことで、こちらには同じ「あいら」でも日本書紀に「吾平津媛」という女性の故事があり、「吾平」を名乗ることにしたのである。
37年前の昭和62年(1987年)に廃線になった国鉄大隅線の駅に「姶良駅」があったのだが、この駅名も同じ理由で「吾平駅」に変更されている。
幾多の郷村、市町村の合併等の変遷を経ても、吾平町の旧村時代に開始された敬老会が115年以上も続いているというのは奇跡に近い。
大ホールでは午前9時から10時までが「敬老会式典」で、そのあと吾平の小中学校生徒の合唱や吹奏楽演奏があり、引き続いて各サークルによる文化祭の舞台発表が行われた(会場を半分に仕切った片方は作品展示)。
発表するサークルではとにかく舞踊が多い。その参加者はほとんどが女性である。長生きする理由の一つがここにある。
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