>「御霊代」(みたましろ)と言っても何のことかわからないと思うが、この御霊代は天皇家にかかわるもので、それが「還御」(お戻り)になったというのである。
話を時系列で言うと、図書館から借りてきた『高松宮日記』全8巻(1997年 中央公論社発行)の第8巻中に記されていたのを、見つけて「ほう」と思ったのである。
この第8巻目の日記のカバーする年代は昭和20年・21年・22年だが、皇族である高松宮が終戦前後にどんな暮らしをしていたか、何を考えていたか、庶民とは違う立場ではあるが、それなりに時代相を表しているのではーーと思い読んでみた。
その中で終戦の日、つまり8月15日、皇族として宮の感慨はどうであったかに大変興味があった。
ところが、その日の記載は
「8月15日(水) 晴れ 御殿場へ、5時20分出発、8時40分着。14時発、17時20分宮内省に寄って帰る。」
(日記は旧仮名遣いかつカタカナだが読みにくいので新仮名遣いひらがなにした。以下同様)
という短いものであった。
短いというだけならまだしも、大事な日なはずなのになぜ御殿場へ行ったんだろう、終戦の玉音放送に関する感想などなかったのかしらんーーと怪訝に思った。
御殿場と言えば富士山ろくの高原地帯で、今は陸上自衛隊の富士演習場などで知られているが、はて何の目的で?と首を傾げた。
その前後をよく読んでみると、まず8月18日にこうあった。
>「8月18日(土) 晴れ 御霊殿に霊代還御を行う。」
皇室で御霊代と言えば、「八咫鏡」つまり伊勢神宮に祭られているのと同じ鏡のことだが、そうか、「疎開」させていたのを終戦と同時に皇居に戻したのだなーーそう落着した。
東京大空襲があった3月10日以降は、散発的に皇居や皇族の近辺にも爆撃があり、危険を感じてもっとも大切な「八咫鏡」を移動したのだろう。
しかし、いつ出御し、いったいどこに「疎開」させていたのかが疑問だった。
そこで8月15日から前の日付をさかのぼって読んでいくと、あった。ちょうどひと月前の7月15日にこう書かれていた。
>「7月15日(日) 晴れ 10時30分、松平秘書官長。12時、大宮御所。15時20分帰る。17時07分品川出発、御殿場へ。8時(まゝ)頃着。秩父様の自動車故障ゆえ重砲兵学校のを借りてきていた。半年ぶりにて、その間に例の自然気胸の騒ぎありて却ってよくおなりにて、お元気なり。」
これによると午前中に松平秘書官長が「大宮御所」に出かけて15時頃に戻り、その後17時07分品川駅発の東海道線で御殿場に「8時」とあるのは午後8時(20時)のことだろうと思われるが、御殿場駅には「秩父宮」の自動車が迎えに来るはずだったのだが、故障中とのことで陸軍の重砲兵学校の車が来ており、それに乗って行ったーーということである。
この日記から読み取れるのは「霊代=八咫鏡」は当時賢所から「大宮御所」(大正天皇の皇后であった貞明皇太后のお住まい)に皇居内で移されており、そこも危ないということで7月15日に御殿場へ移動したことと、その御殿場には高松宮の兄で結核を患っていた秩父宮の養生のための別邸があったらしいことである。
この秩父宮の御殿場別邸なら爆撃を受けることはあるまいとの判断で、終戦の日のちょうどひと月前に高松宮が「御霊代疎開」の重命を担って出かけたことになる。
結果は無傷で終戦の日迎え、その当日に早速御殿場まで迎えに行き、「還御」の段取りとなったわけで、どれほど安堵したかは日記からは窺い知れないが、さぞやと思われる。
※8月30日の日記によると、「賢所・皇霊殿・神殿」の三殿へそれぞれの御霊代の「奉遷ノ儀」が行われ、昭和天皇・皇后両陛下の「賢所三殿御親祭」があり、すべて元通りになった様子が分かる。
そのほか興味ある記録が多々あるが、次にまわしたい。font color="black">
話を時系列で言うと、図書館から借りてきた『高松宮日記』全8巻(1997年 中央公論社発行)の第8巻中に記されていたのを、見つけて「ほう」と思ったのである。
この第8巻目の日記のカバーする年代は昭和20年・21年・22年だが、皇族である高松宮が終戦前後にどんな暮らしをしていたか、何を考えていたか、庶民とは違う立場ではあるが、それなりに時代相を表しているのではーーと思い読んでみた。
その中で終戦の日、つまり8月15日、皇族として宮の感慨はどうであったかに大変興味があった。
ところが、その日の記載は
「8月15日(水) 晴れ 御殿場へ、5時20分出発、8時40分着。14時発、17時20分宮内省に寄って帰る。」
(日記は旧仮名遣いかつカタカナだが読みにくいので新仮名遣いひらがなにした。以下同様)
という短いものであった。
短いというだけならまだしも、大事な日なはずなのになぜ御殿場へ行ったんだろう、終戦の玉音放送に関する感想などなかったのかしらんーーと怪訝に思った。
御殿場と言えば富士山ろくの高原地帯で、今は陸上自衛隊の富士演習場などで知られているが、はて何の目的で?と首を傾げた。
その前後をよく読んでみると、まず8月18日にこうあった。
>「8月18日(土) 晴れ 御霊殿に霊代還御を行う。」
皇室で御霊代と言えば、「八咫鏡」つまり伊勢神宮に祭られているのと同じ鏡のことだが、そうか、「疎開」させていたのを終戦と同時に皇居に戻したのだなーーそう落着した。
東京大空襲があった3月10日以降は、散発的に皇居や皇族の近辺にも爆撃があり、危険を感じてもっとも大切な「八咫鏡」を移動したのだろう。
しかし、いつ出御し、いったいどこに「疎開」させていたのかが疑問だった。
そこで8月15日から前の日付をさかのぼって読んでいくと、あった。ちょうどひと月前の7月15日にこう書かれていた。
>「7月15日(日) 晴れ 10時30分、松平秘書官長。12時、大宮御所。15時20分帰る。17時07分品川出発、御殿場へ。8時(まゝ)頃着。秩父様の自動車故障ゆえ重砲兵学校のを借りてきていた。半年ぶりにて、その間に例の自然気胸の騒ぎありて却ってよくおなりにて、お元気なり。」
これによると午前中に松平秘書官長が「大宮御所」に出かけて15時頃に戻り、その後17時07分品川駅発の東海道線で御殿場に「8時」とあるのは午後8時(20時)のことだろうと思われるが、御殿場駅には「秩父宮」の自動車が迎えに来るはずだったのだが、故障中とのことで陸軍の重砲兵学校の車が来ており、それに乗って行ったーーということである。
この日記から読み取れるのは「霊代=八咫鏡」は当時賢所から「大宮御所」(大正天皇の皇后であった貞明皇太后のお住まい)に皇居内で移されており、そこも危ないということで7月15日に御殿場へ移動したことと、その御殿場には高松宮の兄で結核を患っていた秩父宮の養生のための別邸があったらしいことである。
この秩父宮の御殿場別邸なら爆撃を受けることはあるまいとの判断で、終戦の日のちょうどひと月前に高松宮が「御霊代疎開」の重命を担って出かけたことになる。
結果は無傷で終戦の日迎え、その当日に早速御殿場まで迎えに行き、「還御」の段取りとなったわけで、どれほど安堵したかは日記からは窺い知れないが、さぞやと思われる。
※8月30日の日記によると、「賢所・皇霊殿・神殿」の三殿へそれぞれの御霊代の「奉遷ノ儀」が行われ、昭和天皇・皇后両陛下の「賢所三殿御親祭」があり、すべて元通りになった様子が分かる。
そのほか興味ある記録が多々あるが、次にまわしたい。font color="black">
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます