鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

鮮明になった反中国共産党

2020-01-15 10:53:54 | 専守防衛力を有する永世中立国
台湾総統選挙で元民進党出身総統だった蔡英文氏が返り咲いた。それも国民党候補を圧勝して。1986年から行われるようになった国民の直接選挙で最多の得票を得たという。香港での反中国運動の影響が大きく出たに違いない。

「総統」という名称には懐かしい趣があり、我々年代では「蒋介石総統」が頭に浮かぶだろう。蒋介石は台湾における国民党政府の最初の総統で、実は1949年に中国大陸で中国共産党軍と戦い敗れて台湾に落ち延びた国民党政府の主席でもあった。

この国民党政府の前身は1920年代に活躍した孫文の中国革命党だが、「革命党」だからと言って共産革命ではなく、古来中国の「革命思想」に基くもの。清王朝打倒の「辛亥革命」がまさにそうだった。

孫文も一時は「大総統」になったのだが、袁世凱等の軍閥抗争に乗り切れず、不本意のままに亡くなってしまったが、国民党はそのあとを継ぐものとして期待されていた。しかし太平洋戦争当時の英米に取り込まれ、完全に反日に路線を切り替えてしまった(カイロ宣言)。

戦後は再び大陸の雄として勢力を維持したが、日本の敗北によって大陸から日本軍が撤収されると待ってましたと共産党軍が攻勢を強めて勢力を拡大していった。対米英従属路線(反日路線)が裏目に出、また規律正しい日本軍に倣った(真似をした・学んだ)共産党軍により追い詰められ、ついに国民党政府は大陸を放棄せざるを得なくなった。

英米のうち米国は朝鮮半島における共産色を強めた抗日ゲリラ部隊だったという金日成軍の動向に縛られていたが、英国は何とカイロ宣言をうっちゃり、中国共産党政府の樹立(1949年10月1日)の翌年2月には共産党政府を承認するという離れ業をやってのけたのである。自己中もここに極まれりだ(蒋介石が英米に内戦への肩入れを頼んでもノーだったそうだが、これもひどい話である)。

その後の英米特に米国との関わりでは、ソ連の「鉄のカーテン」に次ぐ「竹のカーテン」だったのが、1972年のニクソン訪中によってカーテンが開けられ、日本とも平和友好条約が結ばれ、次第に中国共産党政府も国際化の流れに乗り始め、軽工業から重工業まで世界の資本を受け入れることによって経済的「開国」を果たし、今の中国がある。

しかしながら政治的には共産党一党独裁のままである。

今回の台湾の民主主義のもっとも強い表現である国民の直接投票によって反中国共産党政権の蔡英文氏が再選された選挙を見て、中国共産党政府にも民主化への動きを期待したいところだが、「他山の石」となるのか、「馬耳東風」となるのか、香港の動静を含めて注目に値する。

新春のステージ

2020-01-11 10:50:23 | おおすみの風景
昨日10日夜は行き付けのカラオケスタジオで男性歌手のライブがあった。

午後7時にその歌手・寺本圭祐(てらもとけいすけ)が現れ、実直な挨拶とトークを含めちょうど1時間のステージをこなした。

正直言って寺本圭祐という歌手の歌を聴くのは初めてで、まず名前からして知らなかった(紹介によると奈良県出身の43歳で、デビューしてすぐの芸名は「東大寺何とか」だったが、師匠の小田純平から世界遺産の名をとったのでは名前負けするから、と現在の芸名になったそうだ)。

自らのトークによると、新発売の「ひとりにしない」は今やCD売り上げを基にしたオリコンチャートで氷川きよしの「大丈夫」(これは大晦日の紅白で歌っていた)を抜いて現在1位だそうである。

トークの中で彼は鹿児島出身のシンガーソングライター小田純平門下生で、33歳(9年前)で歌手デビューして以来唄の提供や歌唱の指導を仰いでいるという。

小田純平(62歳)は鹿児島県財部町の出身で、低音部から高音部まで歌謡曲というよりは歌劇に似合いそうな個性的な音色の持ち主で、カラオケ店で調べてみると作曲し自身歌っているものと他の歌手への提供も含めると100曲ほどもある。

私もそのうちの5~6曲を持ち歌にしているが、音色的にはとてもはまりやすい。

トークで、師匠提供の唄はどちらかというと暗めの内容(失恋・失意・別れ)の唄が多く、明るいものをと頼んだところ今回の前向きな唄「ひとりにしない」が提供され、発売後すでに3万枚のCD売り上げにつながったという。

歌唱の伸びと声量があって何の唄でもこなせるタイプ(あの伊藤ひさおの「イヨマンテ」をサービスで熱唱した)だから、苦節約10年のねばりをステップにしてこれからも地道な地方回りを継続して頑張ってもらいたいものだ。

ユーチューブによる視聴は「寺本圭祐ひとりにしない」と検索すればよい。

お葬式

2020-01-05 14:16:15 | おおすみの風景
新年早々、二度のお葬式があった。

家内の叔父と隣家の主婦の二つである。

通夜も本葬も全く同じ日取りなので、家内の叔父の方は家内が、隣家のお葬式の方は自分が参列した。近隣12戸の町内会の班の班長をしているので、こういう場合、近所づきあいを優先せざるを得なかった。

隣家の主婦はまだ45歳で子供が4人、長男が19歳、次男17歳、三男14歳、長女12歳という子達である。

今時、4人の子持ちは珍しい部類に属する。我が家の長男も、長女もそれぞれ3人で、長男の方の嫁は4人目はいらないと言っている。

我が家は近隣12軒のうちでは一番早く建てたのだが、隣家はたしか4番目くらいに建った。挨拶に来た時、まだ一番下の娘は生まれていなかった。

上の3人が男の子だったから、やっと女の子が生まれて大いに喜んだようだ。

3人の年子に近い男の子の子育てに相当苦労したことは察しがつく。よくしかりまくる声が聞こえたものだ(あら、またかよ――という感じだった)。

4人とも学校では校内の部活に参加しており、それぞれの試合などでは送り迎えをよくしていた。鹿児島市内まで送りに行った時は道が分からずに困ったなどと話を聞いたことがある。それでもにこやかに・・・。

この春、長男は県立の工業高校から某電力会社に就職したのだが、最初に採用に臨んだ別の電力会社では不採用だったそうで、相当に気をやきもきしていた。

それがちょうど一年くらい前で、女房がなんとなく胃が痛むなどと言っている――と旦那から聞かされていたが、検査で胃潰瘍らしいということだった。

どうもその時点で軽度の癌になっていたのではないだろうか。そのことが油断を招いたのか、6月には入院して胃のほとんどを切除する羽目になっていた。

そのことは奥さんの希望でだれにも知らされなかった。退院後は元気になっていて、もう子供を叱咤する声は聞こえなかったが、相変わらず、学校へ出かける子供への声掛けは毎朝聞こえていた。

12月に入ってその声が途切れていたが、お通夜の時に12月3日に再入院した――と聞かされた。それからちょうど一か月後の1月3日に昇天。4日がお通夜、翌5日(今日)が告別式となった。

お葬式は隣町の葬儀場であった。近ごろは田舎ほど高齢化社会とあってあちこちに葬儀場が作られている。今度の葬儀場のほんの200メートル離れた道路沿いにも葬儀場がある。

冷暖房完備の葬儀場は明るく(?)、悲しみを誘うような作りではない。受付の横には家族全体やや若い頃の写真が飾られ、往時をしのぶことができる。何人目かわからないが、生まれて間もない子を抱えた主婦の姿などがテレビモニター画面に映し出されていた。

子供3人が小中高に在籍し、それぞれ部活に属しているので、クラスメートのみならず同じ部員や顧問の先生方、正月休みとあって帰省中の長男の同窓生などの参列が引きも切らず、再会に喜び泣く少年少女もあって悲しみの中にもある種の賑わいも感じられる葬儀となった。

黄泉路の主婦も目を丸くしているかもしれない。当然、思い残したことは多々あるに違いないが、多くの学友に支えられた我が子を眺めて、少しは安心したのではないだろうか。

しかしまだ母の道は長く続いたであろうに、やりたいことは沢山あったろうに、子供の行く末を見守っていてやりたかったろうに。

だが、母の道を尽くしてきた主婦の生前の姿は子供たちの心の中で強く活かされていくに違いない。

モニター画面で眺めるしかなかったのだが、棺を覆うときに末娘が母に縋りつくように泣いているのを目にした自分はついに涙を抑えることができなかった。

謹賀新年(2020年1月1日)

2020-01-01 15:26:49 | おおすみの風景
明けましておめでとうございます。

令和も二年目となりました。今年もどうぞよろしく。

全くの無風快晴の実に穏やかな元旦。庭から日の出が拝めますが、向こうに肝属山地が屏風のように連なっているので大隅地方での日の出時間より10分ほど遅れます(7時38分頃)。

夕べから無風だったので冷え込みが強く、7時過ぎでマイナス1℃、霜が降りています。去年の12月は5回降霜があり、うち一回は氷が張りました。今朝も久しぶりに張りました。

初詣はNHKの紅白歌合戦のあと、ゆく年くる年を見ながら出かける準備をし、12時ちょうどに我が家から5キロほど東に行った吾平町の鵜戸神社に向かいました。
夜中の初詣は初めてで、入り口の鳥居がライトアップされているのには驚きました。

境内は建物以外は焚火がある程度で暗く、それでも20人くらいの参拝客はありました。


鵜戸神社の祭神はウガヤフキアエズノミコト(合殿に妃のタマヨリヒメ)で、神武天皇の父。当地で崩御され、御廟が吾平山上陵。

鵜戸神社はもともとは吾平山上陵の向かい側にあったのが、明治維新後の国家神道勃興による皇室の先祖顕彰のため山中から参拝に便利な里宮としてこの地に移転している。

ウガヤフキアエズノミコトを祭る神社としては宮崎県の日南市にある鵜戸神宮が全国的に有名になっているが、あの鵜戸神宮の地は「渚に生まれたというウガヤの皇子の伝承」には適っているようだが、あそこではとてもじゃないがその後の子育ては不可能。

売られている「お乳飴」では赤ん坊がすぐに「糖尿病」を患うに違いない。その点吾平の「飴屋敷」は周辺が田んぼ地帯で米がとれるので、麹によって発酵させてアルコール化する前のもろみの状態なら栄養豊富だから、母乳代わりになる。

海からやって来たウガヤ皇子が健康に養われるとすれば、吾平の田園はまさにうってつけである。成人後はここを中心に大隅一円までを治めていたが、おそらく天変地異によって安寧に暮らすことが不可能になったがゆえに、次代の神武天皇は安全を求めて「神武東征」を敢行した(「東征」というよりは移住だろう)。

ウガヤフキアエズノミコトはその天変地異によって命を落としたのではないか。そこで天変地異に強い洞窟に葬られた(貴人が亡くなると「お隠れになった」というがまさしく洞窟にお隠れになった)。いつか御霊が甦ることを期待されながら・・・。

こんなストーリーが世にもまれな「洞窟陵」に隠されていないだろうか。

新春妄想かもしれないがーー。