鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

お葬式

2020-01-05 14:16:15 | おおすみの風景
新年早々、二度のお葬式があった。

家内の叔父と隣家の主婦の二つである。

通夜も本葬も全く同じ日取りなので、家内の叔父の方は家内が、隣家のお葬式の方は自分が参列した。近隣12戸の町内会の班の班長をしているので、こういう場合、近所づきあいを優先せざるを得なかった。

隣家の主婦はまだ45歳で子供が4人、長男が19歳、次男17歳、三男14歳、長女12歳という子達である。

今時、4人の子持ちは珍しい部類に属する。我が家の長男も、長女もそれぞれ3人で、長男の方の嫁は4人目はいらないと言っている。

我が家は近隣12軒のうちでは一番早く建てたのだが、隣家はたしか4番目くらいに建った。挨拶に来た時、まだ一番下の娘は生まれていなかった。

上の3人が男の子だったから、やっと女の子が生まれて大いに喜んだようだ。

3人の年子に近い男の子の子育てに相当苦労したことは察しがつく。よくしかりまくる声が聞こえたものだ(あら、またかよ――という感じだった)。

4人とも学校では校内の部活に参加しており、それぞれの試合などでは送り迎えをよくしていた。鹿児島市内まで送りに行った時は道が分からずに困ったなどと話を聞いたことがある。それでもにこやかに・・・。

この春、長男は県立の工業高校から某電力会社に就職したのだが、最初に採用に臨んだ別の電力会社では不採用だったそうで、相当に気をやきもきしていた。

それがちょうど一年くらい前で、女房がなんとなく胃が痛むなどと言っている――と旦那から聞かされていたが、検査で胃潰瘍らしいということだった。

どうもその時点で軽度の癌になっていたのではないだろうか。そのことが油断を招いたのか、6月には入院して胃のほとんどを切除する羽目になっていた。

そのことは奥さんの希望でだれにも知らされなかった。退院後は元気になっていて、もう子供を叱咤する声は聞こえなかったが、相変わらず、学校へ出かける子供への声掛けは毎朝聞こえていた。

12月に入ってその声が途切れていたが、お通夜の時に12月3日に再入院した――と聞かされた。それからちょうど一か月後の1月3日に昇天。4日がお通夜、翌5日(今日)が告別式となった。

お葬式は隣町の葬儀場であった。近ごろは田舎ほど高齢化社会とあってあちこちに葬儀場が作られている。今度の葬儀場のほんの200メートル離れた道路沿いにも葬儀場がある。

冷暖房完備の葬儀場は明るく(?)、悲しみを誘うような作りではない。受付の横には家族全体やや若い頃の写真が飾られ、往時をしのぶことができる。何人目かわからないが、生まれて間もない子を抱えた主婦の姿などがテレビモニター画面に映し出されていた。

子供3人が小中高に在籍し、それぞれ部活に属しているので、クラスメートのみならず同じ部員や顧問の先生方、正月休みとあって帰省中の長男の同窓生などの参列が引きも切らず、再会に喜び泣く少年少女もあって悲しみの中にもある種の賑わいも感じられる葬儀となった。

黄泉路の主婦も目を丸くしているかもしれない。当然、思い残したことは多々あるに違いないが、多くの学友に支えられた我が子を眺めて、少しは安心したのではないだろうか。

しかしまだ母の道は長く続いたであろうに、やりたいことは沢山あったろうに、子供の行く末を見守っていてやりたかったろうに。

だが、母の道を尽くしてきた主婦の生前の姿は子供たちの心の中で強く活かされていくに違いない。

モニター画面で眺めるしかなかったのだが、棺を覆うときに末娘が母に縋りつくように泣いているのを目にした自分はついに涙を抑えることができなかった。