鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

超茶番な大統領選挙

2024-03-21 19:23:15 | 日記

3日間をかけて行われたロシアの大統領選挙が終わり、予想通り現役のプーチンが5選を果たした。

投票率は77%で、プーチン票は何と87%だったという。

この結果を素直に信じる識者はいないだろう。自分を批判したり、ウクライナ侵攻を止めようとする候補者は最初から選挙に出られないようにしたのだから当然だ。

怖ろしいのは「政敵」への迫害だ。特にナワリヌイ氏の殺害は恐怖政治の始まり、いや継続?。

演説会場ではプーチンを泥棒呼ばわりしていたのだから、消される条件は整い過ぎていた。

ナワリヌイ氏の仲間で彼を応援していた人も、亡命先で何者かに襲撃されたという。これもプーチンの触手だろう。

プーチン政権というと聞こえはいいが、完全な独裁者になった。プーチン王朝と言っていいかもしれない。

報道によると5選目の途中でソ連時代の独裁者スターリンの統治期間を抜くという。

これから先、ウクライナ戦争は長引くことになる。ますます多くの自由諸国がロシアの敵になるに違いない。

だが、いつまでもロシア国民がプーチン好みの「統制経済」「戦時体制」に従順に従うとは思えない。

プーチンのウクライナ戦争遂行の理念の核をなすのは「西側のネオナチ体質への怨念」だが、これはプーチンが消えるまで続くのだろうか。

核には絶対に手を出さないでくれ、プーチン。


肝付氏初代系譜への疑問(2)

2024-03-18 10:14:10 | 鹿児島古代史の謎

肝付氏の名号が始まったとされる肝付氏初代兼俊とその父である伴兼貞との間に大きな年代差がみられるのはどうしてか、という問題に関して前回の(1)では大隅史談会の重鎮であった二人の会員の説を紹介した。

ひとりの竹之井敏先生の説は、その間、つまり兼貞の時代(1036年頃)から息子の兼俊の時代(1160年頃)までの間、伴氏は高山に入っておらず、櫛間院(宮崎県串間市)に院司として入っていた伴氏が高山を兼領していたのだろう――と結論された。

しかしこの説だと、当然、櫛間院系の文書に記載がなければならず、そのような文書がない以上無理な推論だと思われる。

またもう一人の当時副会長であった隈元信一氏の説は、伴兼貞のあとに3代から4代不明の後継者があり、その後に伴兼俊が肝付郡に弁済使として入部した。

その年代は兼俊の兄弟とされる梅北氏の祖兼高が、梅北の西生寺山王社の棟札に仁安2(1167)年の「大施主旦那・散位・伴朝臣兼高」とあることから、兄である兼俊の高山入部の時期は1160年代と特定される。

また兼俊の3代あとの第4代兼員が所領を譲られたのが文永11(1274)年であり、第5代兼石が所領を譲られたのが弘安6(1283)年であるという古文書が残されていることから、兼俊の高山入部が1160年代と考えて矛盾はない――こう結論付けた。

わたしも隈元説を採り、肝付氏系図上の初代肝付兼俊は1160年代になって肝付郡に弁済使職として入部し土着して肝付氏を名乗ったと考える。

したがって父とされる伴兼貞が平季基の拓いた都城の梅北を中心とする荘園の管理権を譲り受けた長元9(1036)とは約130年の開きがあり、この兼貞と兼俊の間に何代か存在したのだが、何らかの理由で抹消したのだろうと考えている。

【伴兼貞と肝付兼俊の間は平姓か】

鹿児島市の伊敷にあった神食村の「伴掾館(ばんじょうやかた)」に伴兼行が薩摩国総追捕使兼薩摩掾として居住したのは安和元年(968年)であった。

その孫の兼貞が(伝説めくが)宮崎の日南にある鵜戸神宮を参詣に訪れた時、途中で通過しようとした都城梅北で平季基に出会い、その娘を嫁にしたのがのちに兼俊が大隅に根付く最初の縁である。

平季基が史料の上で現れる最初は万寿3(1026)年に宇治関白藤原頼通に寄進したことである。当時の官位は太宰大監で中国と言われる薩摩国の国司相当の地位であった。

この平季基と薩摩掾の伴兼貞とでは官位に大きな差があり、兼貞はおそらく伴姓を捨てて平姓になったと私は考える。しかも平姓は桓武平氏と言われるように皇室の分流であったから、歴史は古いとはいえ家来筋の伴姓(起源は大伴氏であり、大伴氏の祖先は道臣命(みちのおみのみこと))より格も上であった。

この兼貞は長元9(1036)年に肝付郡弁済使に任用されたという(おそらく平兼貞としてであろう)が、肝付郡より先に、梅北をはじめとする日向の諸県郡の弁済使になっていなければなるまい。諸県郡は大変に広く、都城の大半はもとより、南に位置する志布志(救仁院)までその領域であった。

志布志町誌によると、志布志(救仁院)には同時代に伊佐平次(平氏)貞時の一党が入っていた。関白頼通に梅北庄を寄進した平季基はこの貞時の孫に当たり、伯父の宗行は太宰小弐という高官を歴任していた。

そしてまた平季基には弟の良宗があり、この人は高山の隣りに「姶良(吾平)庄」を拓いて正八幡宮(のちの鹿児島神宮)に寄進していた。

その年代を特定する資料が姶良八幡社(現在は田中八幡神社)に奉納した銅鏡の銘文に「長久元年(1040年)平判官良宗」とあることから、平季基が同時代に存在していたことは明らかである。

よって伴兼貞が平季基の娘と縁組したのは長元9年(1036年)で間違いなく、肝付氏初代とされる兼俊の高山入りは上述のように1160年代であるから、兼貞と兼俊は親子ではない。およそ130年の時間差があるので、兼貞と兼俊の間は仮に直系であれば4代ほどの世代があったと考えられる。

わたしはその4代(兼貞を含めれば5代)は伴姓を捨てて平姓であったと見る。平姓の方が伴姓より格が上であるし、何よりも都城の梅北を中心とする「主なき荒野を拓いて関白家に寄進し広大な荘園を安堵された」のが平季基であれば、平姓を使用するのに躊躇はなかったはずである。

先に引用した志布志町誌によると、平季基ぼ本家筋に当たる伊佐平次貞時の系譜の4代目に成任(なりとう)がいるが、彼は「安楽寺平次」とあり、その子の成助から「安楽氏」を名乗るようになった。

志布志の現在地名にある安楽は古代寺「安楽寺」から採られたと見るのが順当で、その前は当然この地区全体の「救仁院(くにいん)」を平次(平氏)に冠していた。こちらの方が正統な名乗りであったから、肝付氏の分流の「安楽氏」は伴姓とは言えず、正統は「平姓」だったと思われる。

同様に肝付氏本家も兼行の孫である兼貞からは平姓となったが、義父の平季基が長元2(1029)年、大隅国府の焼き討ち事件を引き起こしたりして平姓を名乗るのをためらったに違いない。

またその後も平氏と源氏の対立離反などが数多く発生し、最終的には平家の滅亡という最悪の事態に至り、志布志(救仁院)を支配していた平姓安楽氏は、伴姓に復帰した肝付氏初代兼俊の兄弟のひとりとして系譜に載せた時点で今度は平姓を捨てて伴姓を名乗るようになったのではないか。

ただ安楽氏にしろ肝付氏にしろ伴兼貞の後裔である以上、1030年代の伴兼貞時代以降4代から5代(130年)ほど続いた平氏時代の当主の名は抹消されたと思われ、不明とする他ない。

 

 

 


鬼ノ城が「最強の城」に

2024-03-16 09:19:00 | 古代史逍遥

昨夜のNHK「最強の城スペシャル」では4つ挙げられた名城のうち、ゲスト4人の話し合いの結果、岡山県総社市にある「鬼ノ城」が選ばれた。

この番組の司会者は鹿児島県出身の恵俊彰で、ゲスト出演者のひとり高橋英樹は芸能界では知る人ぞ知る城マニアだ。また今回は出ていなかったが、落語家の春風亭昇太も同様で、いつも番組では城巡りの蘊蓄を語っている。

今回取り上げられたのは、千葉県にある大多喜城、赤穂浪士の故城・赤穂城、鹿児島島津氏の鶴丸城、そしてこの鬼ノ城だった。

大多喜城は現在地元の高校の敷地に掛かっており、その分価値が減るように思われるが、いすみ鉄道路線との相性がよく、インスタ映えのする人気の城である。

赤穂城は水城と言ってよく、掘割にそそり立つ石垣の屈曲が見事で、私などはこの城を第一に挙げた。

鹿児島市の黎明館に藩主館のあった鶴丸城はもともと天守閣がない城として有名で、後背に聳える城山と一体化して防御が考えられており、近世の城というよりも中世の山城を彷彿とさせている。

そして今回ゲスト4名から「最強の城」の栄冠を勝ち得た岡山県総社市の「鬼ノ城」。

これを地元では「きのじょう」と呼ぶらしいが、鬼城(きじょう)山という標高約400mの頂上一帯が城の敷地で、その周りを土塁が延々と囲っている(ゲストの上方に映し出されているのは鬼ノ城の西門)。

土塁の幅は7m、高さも7mほどあり、土を突き固めた版築工法で造られている。その距離は2.8キロというから半端ではない。そこにこれほどの土をどうやって運び上げ、崩さないように土壁に仕上げたのかがよく分からないようだ。

また築造について、日本書紀などの古史料には記載がないため、そもそも何の目的で誰が築いたのかが不明である。

大方の推測は次のようである。

あの白村江の海戦で倭の水軍が壊滅し、救援に行ったはずの百済は完全に滅び、その王族はじめ多くの百済人が日本列島に渡って来た。

彼らの中には石を多用した山城(いわゆる朝鮮式山城)を築く技術に習熟した者が多く、倭王権(大和朝廷)は敵対した唐と新羅の連合軍がいつか攻めて来るのを予想し、百済人亡命者を使って防御用の堅固な城を築かせた。

対馬の金田城、九州の太宰府にある水城、長門の城(城の名は不明)、四国屋島城、畿内の高安城などが主な朝鮮式山城だが、この岡山県総社市の鬼ノ城もその一つではないかと考えられているようだ。

たしかに土塁とはいえ、こんな高い山頂部(麓からの比高は300m近くある)に高さ7mもの壁を周囲2.8キロにわたって築き上げる技術は、魏志倭人伝(韓伝)時代の3世紀以降、国家間(三韓・高句麗・大陸王朝間)の争いが絶え間なかった半島人の獲得したものだろう。

番組ではこの城跡からの眺めの内に、総社市はもとより岡山平野から遠く瀬戸内海までが視野の内に入っているとして、半島からの進攻への監視所的な城でもあるような捉え方をしていた。

ところで上の番組内で映された「西門」をよく見ると、その上部にあたかも居酒屋のメニューのような楯状の板があり、そこに書かれたデザインがあるものにそっくりなことに気付かされた。

全部で15枚の板があるが、真ん中から左右対称に掲げられた中で、それぞれ片側には一つ置きにクエスチョンマークに似た「鉤(かぎ)型」が見える。しかもその上下には三角形のギザギザがあるではないか。

これは俗に言う「隼人の盾」そっくりなのだ。

一体これはどうしたことだろうか?

番組ではそんな指摘はなかったので、インターネットで総社市の観光案内を調べてみたが、やはり言及はない。

鬼ノ城が日本100名城であり、最強の城であることに異論はないが、ひとつ謎が増えてしまった。

 

(追記)

隼人の楯について>

昭和38年(1963)に奈良の平城京跡地の井戸底から出土した「隼人の楯」。長さ5尺(約150㎝)、幅1尺8寸(約54㎝)、厚さ1寸(約3㎝)を測る。

延喜式の隼人の楯に関する記述通りの寸法のまま発掘された。ただし、鮮やかな色は復元されたもの。

隼人の司に従い、元日式や即位式、また国外からの使者に対する儀礼の場に居並び、魔除け的な役割を担った隼人たちが所持していた。

真ん中に描かれているのは「鉤(かぎ)型」と呼ばれ、赤・白・黒三色でうず巻き文様が上下対称に描かれている。たての上と下に見える三角形の波文様とともに「魔除け」の意味を持つとされている。

鬼ノ城の西門の上に掲げられた10数枚の板状の物のうち特にこの隼人の楯に似た板は、実は「楯」をモデルにした「魔除け」で、門からの敵の侵入を防ぐためのものだったのかもしれない。

 


肝付氏初代系譜への疑問(1)

2024-03-15 13:55:52 | 鹿児島古代史の謎

 【肝付氏の没落】

肝付氏は肝属郡高山を本拠地とした戦国大名で、15世紀以降、薩摩半島の大半を占めた島津氏と、時に争い、時に婚姻を結びながら16世紀の末近くになってついに彼の軍門に下り、大隅半島から阿多に移封されて途絶した豪族である。

没落の最終局面は史料にはっきりと残っている。

天正元年(1573)に同じ大隅半島の豪族禰寝氏が島津氏に下った翌年、島津氏に降伏し、6年後の天正8年(1580)になって当主の肝付氏18代兼護(かねもり)一党は薩摩半島の阿多に400石の采地を与えられて移封され、高山に根付いていた肝付氏はついに滅びた。

その後、高山には島津氏方の地頭が派遣されて島津氏の直轄下に入るのだが、肝付氏旧来の家臣たちの行先は多岐にわたり、本家の肝付兼護について阿多に移った者は言わば「譜代」の上級家臣で、そのまま高山に残った者も多かった。

1か月前の2月10日、11日に志布志の「安楽山宮神社」の祭礼を見に行った時に出会った名古屋在住の安楽さんという人の祖先「安楽氏」は肝付氏の中でも家老クラスの重臣で、肝付氏が島津氏に降伏した年に垂水の牛根城を死守していた「安楽兼寛」はその一人である。

 【肝付氏の高山入部(移住)についての疑問】

肝付氏の本家が高山を離れて阿多へ移封された年、つまり肝付氏没落の年は1580年(天正8年)と明確に分かっているのだが、実は肝付氏初代がいつ高山に入ったかについてははっきりしていない。

この疑問については長らく大隅史談会に所属し、今年の3月に98歳で逝去された高山町の郷土史家・竹之井敏先生(女性)が、大隅史談会の会誌「大隅56号」(平成25年3月発行)に書いておられる。それを要旨で引用すると、

<史談会役員の間で「肝付氏の初代兼俊が肝属郡の高山に土着した年代が史料には見えず、また高山での事績が一向に分からない」という疑問が出されていた。>

ということで、竹之井先生がそれを聞いたのは昭和60年の頃かららしい。もう30年以上前のことである。

その疑問がずうっと脳裏に引っ掛かっており、「大隅56号」でようやく自論を発表したのであった。

竹之井先生の説によれば、宮崎県串間市にあった「櫛間(くしま)院」の院司(弁済使)に歴代「伴姓」の者が多く、そうであれば肝付郡は櫛間院の院司によって兼領されていた可能性が高い。したがって肝付郡には現地の院司はいなかったがゆえに肝付氏なる豪族も存在しなかった――という結論に達したようである。

また同じ「大隅56号」に当時副会長だった隈元信一氏の論考があり、やはり肝付氏初代兼俊とその父である伴兼貞の関係について見解を出している。

隈元氏が史料として取り上げる「伴姓梅北氏」の正統系図によると、梅北氏の初代は兼高といい、都城市梅北の西生寺山王社に見える古い棟札に「仁安2(1167)年丁亥3月2日大施主旦那散位伴朝臣兼高」とあるので、梅北氏の初代兼高の年代が判明している。

また兼高の兄に当たる長兄の兼俊が肝付郡九城院(串良院)と諸県郡救仁院(現志布志市)の弁済使職を兼ねたのが長寛2(1164)年であり、1160年代の史料に弟の兼高とともに現れていることから、5人いたとされる兼貞の子の世代は1150年頃のことになり、父兼貞が長元9(1036)年に存在していたとする系譜は考えられない――という。

 

竹之井先生の見解では、肝付氏正統系図にあるように初代兼俊の肝付郡への入部(移住)は長元9(1036)年である。しかし兼俊と二代目の兼経との間の空白は150年ほどもあり、その間は宮崎の串間に所在した「櫛間院」こそが伴氏の本領であり、そこから肝付郡も兼領支配していた――とする。

隈元信一氏の見解では、肝付氏初代兼俊の生存時代は1150年頃であり、父とされる伴兼貞は長元9(1036)に舅であり都城の梅北地方を開拓して藤原氏に寄進した平季基(すえもと)に現地の管理を任されたことが分かっており、その親子の間には130年ほどの空白があるが、その間の世代3代から4代が抜けている――とする。

 

わたしも世代が抜けていると考えるのだが、その理由については続きで論じたい。

 

 

 


〇〇女史も絶句?

2024-03-13 14:21:39 | 母性

高名なフェミニズム推進派の学者たちは大いに困惑していることだろう。

アイルランドでは「女性の家庭における義務」が記載されたアイルランド憲法の当該条項を改正するかどうかに関して国民投票が行われたが、反対が約74%に達し、結局、改正は否決されたそうだ。

アイルランドはイギリス(ブリテン島)の西に海を隔てて位置する人口約500万の小国で、面積とともに日本の北海道に類似している。

1922年にイギリス植民地でありながらアイルランド自由国となり、その後1937年に宗主国イギリスを離れ、1949年に自由選挙が行われて大統領共和制国家として完全独立を果たした。

改正論議の対象となった「家庭における女性の地位条項」は多分その当時に制定されたものと思われるが、それによると「女性の家庭内での生活が国を支えており、公共の利益に欠かせない」及び「国は、家庭での義務を果たすべき母親が経済的必要性によって就労を強いられることのないように努める」だそうである。

当今のダイバーシティ(多様性)主義から見たら、何という保守性だろうと呆れられるような条項だが、自分などはとくに後者の「就労を強いられることのいないように」という点に関しては満腔の賛意を表したい。

共稼ぎで育った経験のある人なら大方理解できることで、母親がそばにいない子どもの寂しさ、物足りなさは、それが是正されないと子どもの内面に大きなしこりを残す。

いまNHKの朝のテレビ小説「東京ブギウギ」で、福来スズ子(笠置シズ子)の子のアイ子(本名えい子)が、母親にたいしてめっぽう楯突くという小学2年生の姿を演じているが、彼女の尋常ではないスズ子への反発は母親が忙し過ぎてまともに自分に向き合わってくれない子どもの自然な対応だ。

これを無視し、子どもに自分の置かれたスター歌手という「強いられた就労」による不快感不満感を与え続けるのは、アイルランド憲法だったら「違憲」となるに違いない。

結構な憲法である。母親と家庭、母親と子どもの関係性をこれほど重視した憲法があったとは寡聞にして知らなかった。

ひどい母親不足を味わった私などは諸手を挙げて賛成である。日本国憲法にも欲しいくらいだ。

フェミニズム推進の旗頭に立っている某女史などはこの報道をどう評価するのだろうか。

「バカバカしくて話にならない。こんな国があるから困るんだ」と呆れるのか、それとも無視を決め込むのか・・・。

NO MOTHER、NO LIFE!(母親がいなくちゃ、生命も人生も始まらない!)がモットーの自分には、有難き一服の清涼剤、いやカンフル剤となった記事であった。