鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

急性記憶障害

2024-05-08 20:46:52 | 災害

今日の午後、トイレの黒ずみがひどいので家内がトイレ用洗浄剤を使い、加えて紙やすりで黒ずみを落としていたのだが、1時間ほどした頃、もう3時になっていたので休憩の時間と思い呼んだところ、家内は「何時になったの」と言いつつ、再び今度はもう一か所の黒ずみ落としに取り掛かった。

10分もした頃、また休憩しないかと呼んだが、こっちに顔を向けて「何時になったの」と同じ返事をする。こんな時は「まだ黒ずみが落ち切っていないから、もう少ししたら休憩する」という返事が普通だろう。

ところが、さらに10分後に「いい加減休憩したら」と語気を強めて言ったところ、返事は同じ「何時になったの」だ。

こうも同じ頓珍漢な返事をされて、不審に思ったのだが、4時過ぎにようやく終了した時にトイレを覗いたらすっかり黒ずみが落ちていたのでほっとしたのだが、そのあとの家内の言動がまたおかしいのだ。

トイレは綺麗になったか、と、道具の片付けの忘れ物はないわね、と繰り返して言う。

おかしいな――と思いつつ、綺麗になったし、片付けてもあるよと返答する。

しかしそれでも家内は同じことを繰り返して言う。

そのうちにトイレの掃除をしたことも記憶にないと言うではないか。

おお!これはどうしたことか!とうろたえつつも、家内自身も今日何をしたのか忘れてしまったことを不審に思い始めた。

何かをしたのはこちらから言えば薄っすら覚えているのだが、その内容についてはほとんど記憶から抜けていたのだった。

繰り返し「トイレ掃除をしていたのだよ」と言っているうちに、「もしかしたら記憶が無いのは毒ガスが発生したのかも」と言う。つまりこのような黒ずみを落とす際には塩素系の物と併用してはいけない、併用すると毒ガスが発生する、そのガスを吸ったので頭の中に記憶が残らなかった――と理性的な判断を口にした。

ようやくホッとした。自分が今日の出来事をすっかり忘れていたことに気付いたから、いわゆるボケ(認知症)ではないと確信したのである。

それにしても何が家内の今日の記憶を奪ったのだろうか。

トイレの黒ずみ落としに使った洗剤はフマキラーのトイレ用洗剤で成分は「塩酸」が9.5%、それに界面活性剤の「ポリオキシアルキレンアルキルエーテル」を配合していた。

この成分のうちがまず引っ掛かるのは塩酸9.5%だ。だがしかしもしこの塩酸から塩素ガスが発生したとしたら、トイレ掃除にこの洗浄液を使って10分もしないうちにせき込むか気分が悪くなり掃除など続けられないはずだ。

それよりも犯人は「ポリオキシアルキレンアルキルエーテル」ではないか。この化合物自体に毒性は少ないとしても、長時間下を向いてトイレの便器の陶器を紙やすりでこすり落としていたのだから、揮発性の成分ではないにしろ蒸発した成分を吸い込んでいた可能性が高い。

いくら好きな香りのする香水でも同じ香りを1時間も嗅いでいたら、頭がくらくらするのではないか。くらくら位いですめばよいが、吸い込んだ何らかの成分が脳に達して記憶障害を起こしたと考えたい。

何事も「過ぎたるは及ばざるに如かず」で、過度の取り組みは弊害を生む。


「アタッチメント」が流行

2024-05-06 14:36:03 | 日記

昨日夜のNHKでは「アタッチメント~生きづらさに悩むあなたへ~」という番組があり、興味を持って視聴した。

アタッチメント(attachmennt)学説とは、もともと行動心理学で提起された人間感情を対象にしたもので、恐怖や不安を感じた時に何かに縋(すが)り付きたくなる感情についての仮説で、いまアメリカの若者たちの間で流行しているそうだ。

(※アタッチメントというと、付属物・付加装置という意味の方が身近だったが、この項では心理学上のアタッチメントである。)

不安や恐怖を感じた時、何かに縋りつきたくなるのは誰しも経験済みだが、通常の人間であればまずその対象は生みの親だろう。

番組の中でちょっとした実験が行われていた。まだ歩き始めて間もない幼児と親との関係で、親が突然そこから姿を消したらどうなるかという実験だった。

幼児の心拍数を聞き取れる装置を装着した幼児の反応は、当然予期された反応で、親の姿が急に見えなくなると幼児にはそぞろ不安感が生まれて心拍数は急上昇し、ついには泣き叫んで親の姿を求めるというものだ。

ところが親が現れると幼児は親の許に駆け寄り、抱っこされるとしばらくして心拍数は落ち着いてきて心拍数ももとのように平常に戻るのだが、このあたりはとくに計測しなくてもおおむね予想の付く結果だ。

幼児は保護者の庇護に安心すると、どんどん行動半径を広げて行く。もし行く先で不安や恐怖を感じたら保護者のもとに帰り、心理的にリカバリーされる。このような経験を繰り返すことにより、青年期になっていわゆる「巣離れ」が始まり、社会に飛び出して行く。

問題はこの幼児の不安が解消(リカバリー)されない時である。つまり幼児が不安や恐怖を感じたりした時に駆け寄り抱っこしてくれる親など身近な者がいない(アタッチメントが無い)時だ。

そんな時不安感は長く続き、このような経験がしばしば起きると、幼児には「自分は保護されない存在だ」というような心理的な不安感情が醸成され、心の底に沈殿する。

そしてこの状況が解消されないままでいると子どもは社会に出て行くことに不安を感じてしまう。さらには人減関係にも支障をきたすようになり、ついには引きこもるようにもなる。

自分の経験だが、両親は共稼ぎで日中はお手伝いさんに任せて暮らしていたので「母親というアタッチメント」(よくPTA の研修などで耳にしたのが「心の基地はお母さん」だった)が身近に居なかった。

たしかに不安や恐怖を感じた時に母親という安心感を与えてくれる存在(アタッチメント)がいないと、不安感は解消されず、といって職場にまで行って母親に泣きつくわけにもいかず、結局、いわゆる「泣き寝入り」であった。子どもらしい感情を押し殺すほかなかった。

4人兄弟の末子である弟は良くできた子どもで、母親の期待を背負っていたのだが、やはり困った時に甘えられるアタッチメントがそばにいないので、子供らしい感情を押し殺すことが多かったに違いなく、中学2年生の初めに不登校になった。

両親が教員なのにおかしな話だが、職業が何であろうと、こんな事態が起きたらアタッチメントの出番だろう。弟に寄り添う存在が必要だったのだ。

ところが我が家の両親は仕事を、つまり収入の方を優先してしまった。愚かなことである。

神道でいう「中今(なかいま)」要するに「今に中る(あたる)」ことを全くしなかった。今一番大事な事は何か、最優先すべきは何かを考えなかったのだ。

結果、母は弟に寄り添うことはなく、弟は中学校をやっと卒業したあと、高校中退を2校繰り返し、挙句は定時制高校に通って何とか卒業したが、もうその頃は精神科のお世話になっていて、妄想的な言動を発するようになっていた。

母親が小学校の常勤から「足を洗い」、ようやく家庭に入ったのは弟が不登校になってから5年が経っていた。事態は取り返しのつかない局面に達していたのである。

16歳から精神科の常連となった弟の生きづらさを思うと実に悔やまれる。

兄の私も、もう一人の兄も、また姉も、似たような生きづらさを抱えて生きて来たようだ。こんな感情を死ぬまで抱え込んでいたくはないが、生い立ちの不備は心の奥底にこびりついて離れないものだ。

 

 

 

 

 


憲法記念日(2024.05.03)

2024-05-04 19:46:04 | 専守防衛力を有する永世中立国

5月3日、憲法記念日。

1947年の5月3日に日本国憲法が施行された。6か月前の1946年11月3日に公布された日本国憲法が、実質的に日本の憲法として発動した日だ。

この憲法の目玉となる命題は「絶対平和」で、第9条がそれを具体的に示している。

 【日本国憲法第9条】

<第1項 日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し(注1)、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段として(注2)は永久にこれを放棄する。>

<第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない(注3)。国の交戦権はこれを認めない。>

この条文の解釈では、第2項の「戦力(戦闘能力)は永久に保持しない」という条文による短絡的な見解が学説的にもマスコミ的にも支配的であったことは論を俟たない。

この解釈は第2項のみの解釈であり、実は第2項は第1項があって初めて成り立つ項目だということを忘れている。

第2項の「前項(第1項)の目的を達するため」という条文を忘れてはならない。つまり何のための戦力の不保持なのかという点である。

この条文は「国際紛争を解決する手段としての戦争及び武力の行使の放棄」なのであり、あくまでも外国に出向いて国際紛争を解決するための武力の行使は永久に放棄し、そのための戦力は持たないということなのだ。

では国外に出て行ってまで行う武力行使(戦闘)でなければ、何があるのかという点だが、まず「内乱」が挙げられる。

内乱の初期の段階では警察権力による抑止が行われるが、それで防止し切れなければ軍隊の出動となる。もちろん進駐軍による占領期には進駐軍による抑止が行われるのだが、占領が終了したあとの国内の治安に関しては警察予備隊から保安隊、そして自衛隊の設置が必要になった(昭和29年)。

この自衛隊は戦力ではないのか、と言えば立派な戦力である。しかし内戦に供える必要があったので設置されたのであって、この自衛隊の軍備は諸外国との戦いを想定したものではなかった。

もう一つが外国の軍事的な侵攻に備える必要があったのだ。1949年10月に中国共産党政府が独立を果たしたことが大きな契機になった。

そして朝鮮動乱(1950年6月勃発)ではまかり間違えば北朝鮮の全半島支配という結果になり、その勢いを駆りて日本の九州まで進攻があった可能性もあった。(※もちろん当時まだ占領期であったから、そうなったら進駐軍が対応しただろう。)

自衛隊が設置されたのはサンフランシスコ平和条約締結(1951年9月8日)後の昭和29(1954)年6月8日だったが、その年の暮れに政府見解として「自衛隊の保有は合憲」という見解が出されている。

これに対して当時は囂囂たる非難が巻き起こったのだが、冷静に考えればおよそ独立国家においては「個別的自衛権」を持つのは当然で、他国から侵害されたらそれを排除するための専守防衛力の保持および行使は当然のことである。

以上から日本国憲法第9条は他国との交戦(国際紛争を解決する手段としての武力行使)は放棄しつつも、いざ侵害を受けたら排除するための武力(個別的自衛権の行使)を否定したものではなく、またそのための戦力は決して否定されていないと解釈できる。

ただ問題は日米安保だ。日本とアメリカ間の個別的防衛同盟は実は国連憲章には違反している。国連憲章では国際紛争はあくまでも「集団的自衛」が基本だとしており、日米安保のような二国間の軍事同盟は本来想定していないのだ。

トランプが大統領に就任したあと日米同盟に関して「アメリカは日本が侵害されたら助けるのに、アメリカが侵害されても日本は助けに来ないのは不公平だ」と言ったことがあるが、この発言は1961年に旧日米安保が結ばれたその理由を理解していない妄言だが、「こんな安保なら見限るぞ」と言って欲しかったくらいだ。

日米安保が無くても、日本という国には「個別的自衛権」があるのだから、堂々とかつ粛々と専守防衛力の増強に努めればよいだけの話である。

ただし、アメリカのお先棒を担ぐような武力の行使は決してあってはならないことは言うまでもない。

 


ウガヤフキアエズノミコトと草壁皇子

2024-05-02 16:42:18 | 記紀点描

飛鳥奈良時代に女性天皇が輩出したことは先日のブログ<女性天皇のハードルは低い>で書いたが、この女性天皇群の中の持統天皇に焦点を当ててみると思いがけない相似性が浮かび上がる。

その相似性とは、日向神話における天孫第3代ウガヤフキアエズノミコトの事績(神話的内容)と持統天皇の皇子・草壁皇子との関係である。

ウガヤ皇子は父がホホデミノミコト、母は海神の娘トヨタマヒメであるが、トヨタマヒメが鴨着く島に「上陸して」子のウガヤ皇子を産んだあと、すぐに海神の宮(竜宮)に帰ってしまい、その代わりに妹のタマヨリヒメを鴨着く島に送り、子のウガヤ皇子の養育を頼んだという。

そしてウガヤ皇子が青年になると皇子にとっては母の妹つまり叔母であるタマヨリヒメを娶ったのだが、実は草壁皇子も母である持統天皇の妹の元明天皇と結婚し、のちの文武天皇と元正天皇を生んでいる。

言うなれば、持統天皇がトヨタマヒメで妹の元明天皇はタマヨリヒメ、持統天皇の皇子の草壁皇子はウガヤフキアエズノミコトに相当する。

この相似性が生まれた意味については二つの仮説が考えられる。

ひとつは持統天皇をトヨタマヒメ、妹の元明天皇をタマヨリヒメ、そして生まれた草壁皇子をウガヤフキアエズノミコトに当ててウガヤフキアエズに関わる神話を創造したとする考え方。

もう一つは話は簡単で「偶然の一致に過ぎない」とする考え方。

持統天皇は夫の天武天皇とともに奈良時代に確立する律令制度に基づく国家統治への基礎を推進した女帝で、日本の成り立ちに関しては「日本は日本列島に自生した国であり、はるか遠い<神話時代>から天孫が統治していた」というテーゼを掲げていた。

したがってウガヤフキアエズの神話は持統天皇と妹の元明天皇、そして元明天皇の皇子である草壁皇子の関係を神話時代にさかのぼらせてウガヤ神話を創造した――と考えるのが順当だろう。

ところで実はもう一件、ウガヤフキアエズ皇子との相似性のある婚姻関係があった。

それは聖武天皇である。

聖武天皇は奈良時代を象徴する天皇として知られるが、その生い立ちは祖父に当たる草壁皇子とそっくりなのだ。

聖武天皇の父は文武天皇で、母は藤原不比等の娘である宮子なのだが、この聖武天皇は母宮子の妹の光明子であった。つまり祖父の草壁皇子が母の持統天皇の妹元明天皇と結婚したのと同じ、甥と叔母の婚姻なのである。

聖武天皇は天平勝宝8年(756年)に56歳で崩御されているから、生まれ年は700年ちょうどである。すると日本書紀編纂の中ごろには誕生していたことになり、この聖武天皇をウガヤフキアエズになぞらえてウガヤ皇子の誕生神話を創作した可能性も考えられる。

要するに、ウガヤ皇子神話が創作された背景に二つの相似性のある婚姻関係があったということになる。

 


豚の飼育はいつから?

2024-05-01 10:20:05 | おおすみの風景

このところ雨続きで、先月(4月)は月の半分以上が雨模様だった。

家庭菜園の作物も植え付けの初めこそ雨が欲しいのだが、こうも日照時間が少ないとせっかく植えても病気にやられないかと心配だ。

現に、湿度に弱いホウレンソウは葉に何とかという病原菌が付いたのか、葉っぱの一部を灰色にしている(灰色カビ病か?)。それでも収穫して灰色の部分をカットし、湯がいて食べているが――。

ただし朝の気温がさほど下がらないので、温度的には夏野菜の生育に良いかもしれない。

夏野菜の定番のナス・ピーマン・ニガウリはそこそこに伸びてきている。

昨日の午前11時半頃だったが、庭で作業をしていると、見通しの良い南西の方角で何やら黒っぽい煙が上がり始めたのに気付いた。

我が家はやや高台なので、その黒煙は南を流れる大姶良川の解析した田んぼ地帯の低地から上がっているように見えた。

「枯草を焼いている煙とは違うな」――もし野焼きであれば、枯草や枯れ木が燃えた時に上がる煙は水蒸気を含んでいるため白っぽいはずだ。

そんなことを考えてなおも眺めていると、黒煙の量はますます増えて行き、風向きで我が家の上空の方まで達する勢いだ。

とうとう火事だと気付き、庭からベランダに上がり、家にいた家内に大声で「119番に電話したほうがいい」と叫んだ。

消防の方にはすでにいくつか連絡が入っていたらしく、しばらく待たされたようで、「獅子目(ししめ)が現場だ」と言われたようだ。

獅子目とは大姶良地区の字名で、我が家のある台地からは大姶良川を挟んだ向こう側の台地である。

昼食後の1時過ぎには鎮火したようで、消防の放水による水蒸気のような薄い白っぽい煙に変わった。

夕方のニュースでは養豚場からの出火だったそうで、豚舎7棟と飼育中の豚500頭が焼け出されたという。

出火原因はまだ特定されていないが、当時豚舎で溶接作業が行われていたそうだからそれに原因が求められるかもしれない。

何にしてもけが人も死者も出ていないのが不幸中の幸いだった。

鹿児島は豚の飼育が盛んで、特に鹿児島黒豚(六白豚)はブランドになっている。今度出火した飼育場は飼育からソーセージの加工まで行っている所で、鹿屋市の地方納税の返礼品になっているほど知る人ぞ知る養豚場だ。

同じ黒でも「黒毛和牛」も鹿児島和牛のブランドになっているが、この黒毛和牛のルーツは兵庫県の在来種「但馬牛」にあることは以前ブログでも書いたことがあるが、豚の飼育も実は同じ今日の兵庫県だったようだ。

今日の兵庫県は奈良時代以前には「播磨国」であったが、この播磨国のことを記録した地誌である『播磨風土記』には「賀毛郡」(かものこおり=今日の加東郡)の記述の中に、次のような一節がある。

< 山田里 猪養野(いかいの)

右、猪飼(いかい)と名づくるは、難波高津宮御宇天皇(=仁徳天皇)の世に、日向の肥人、朝戸君、天照大神の坐しませる舟に、猪を持ち参り来て進(たてまつ)り、飼うべき所を求め申しき。よって此の所を賜りて、猪を放ち飼はしめき。故に猪飼野といふ。>

――仁徳天皇の時代(?~427年)に、日向の朝戸君(あさとのきみ)という人物が「天照大神」のいらっしゃる船に猪を乗せて来て「ここらで猪を飼いたいが、場所がありますか」と言って来た。

そこで飼う許可を与えたところ、猪を放して飼い始めた。それで猪養野という地名になった――。

おそらくこの記述が豚を飼い始めた最初の記事だろう。

兵庫県は牛飼いも豚飼いも本邦発祥の地ということになろうか。

ただ日向(当時は鹿児島県と宮崎県を併せた領域)の朝戸君がイノシシを飼う場所をなぜ播磨に求めたかについては書いてないのが気になる所だ。

もう一つ不思議な表現がある。

南九州(古日向)出身の朝戸君がやって来た時の舟には「天照大神が坐します(いらっしゃる)」という表現である。

この説話の時代は仁徳天皇代だから時代は5世紀前後のことで、天照大神が地上に顕現したのは垂仁天皇の時代であるから時系列的には有り得るのだが、船に天照大神を乗せる(祀る)という表現が不可解なのだ。

船には「船魂(ふなだま)」を祀るというのは聞くが、至高神である天照大神を船魂としたというのは聞いたことがない。単に最上の神を祀れば航海安全と考えたからなのか、その他の理由なのかは思いつかないでいる。