鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国南九州説について(下)

2024-05-17 15:01:42 | 邪馬台国関連
邪馬台国南九州説について(上)」では、倭人伝に記載の帯方郡から水行して九州島北部の末盧国(現在の唐津市)に上陸したあと、東南へ500里歩いたところにある伊都国までの行程を解説した。

この伊都国を「いとこく」と読み、そこを福岡県糸島市に比定する説が誤りであることを述べた。

その誤謬の原因は2つあり、一つは糸島なら壱岐国から直接船を着ければよいことと、唐津から徒歩で糸島に行くのは東北であり、決して東南ではないことである。

この点を無視して伊都国を糸島に比定したがために、以後の方角の解釈では90度北寄りに変え、南とあるのはすべて東とし、奴国を春日市、不彌国を宇美町と誤認した。

さらに不彌国から投馬国を「東に水行20日」と変え、さらに邪馬台国を投馬国から「東に水行10日、陸行1月」と変えて瀬戸内海経由で畿内に至ったと解釈した。もちろんこれは「南」を「東」と改変した誤認である。

畿内説が成り立たないのは、(上)の最後で述べたように、そもそも帯方郡から邪馬台国までの総距離は「万2000余里」としてあり、九州島北部の唐津までの水行の距離が10000里なのだから、残りは2000里でしかなく、しかも上陸してから徒歩で500里歩いて「伊都国」に着き、このあと東南へ奴国まで100里、さらに東へ不彌国まで100里、都合700里を歩き、あと邪馬台国まではわずか1300里なのである。

このたった1300里をどうやって「水行20日」したら投馬国に着き、またそのあとどうやって「水行10日、陸行1月」したら邪馬台国に着くのだろうか?

常識外れも甚だしいというべきだ。畿内説の成り立つ余地は120%無いのである。

邪馬台国南九州説も実はこの点で畿内説と同じ誤りを犯している。

邪馬台国南九州説は畿内説と同じように、投馬国を不彌国から「南へ水行20日」にあるとしている。ただし、畿内説が「東へ」とする所を原文通り「南へ」とし、

投馬国は九州北部から水行20日で至る南九州宮崎県の「都万(つま)」という大字名を持つ西都市域に比定している。

そして邪馬台国を投馬国から「南へ水行10日、陸行1月」に当たる鹿児島県域、中でも大隅半島部に比定している。

(上)で紹介しておいた『大隅邪馬台国』という本では、この解釈において「陸行1月」を「陸行1日」の誤記としている。大隅半島部は陸地も海に近く「陸行1月」つまり一か月も歩いたら半島を突き抜けてしまうので1日の誤記と
したのだ。

ご都合的解釈としか言いようがない。誤りである。

もう一つ最近面白い解釈に出会った。

邪馬台国は宮崎県、投馬国は鹿児島県だというものだ。

この説では「不彌国から南へ20日の投馬国、その南水行10日陸行1月の邪馬台国」というのを、佐賀県にあった「郡からの使者が滞在する伊都国」からだとするものである。

つまり佐賀平野部にあった「郡使の滞在する伊都国」を中心に放射状に行程を考える必要があり、伊都国から奴国へ、伊都国から不彌国へ、伊都国から投馬国へ、伊都国から邪馬台国へというように、伊都国から各国への行程が書かれていると解釈したものである。

倭人伝でその部分は次のようである。
※(上)で唐津に上陸したあと伊都国までの東南陸行500里は省いてある。

<東南至る奴国、100里。官をシマコといい、副官をヒナモリという。2万余戸あり。東行至る不彌国、100里。官をタマといい、副官をヒナモリという。千余家あり。(※)南至る投馬国、水行20日。官をミミといい、副官をミミナリという。5万余戸なるべし。(※)南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月。官にイキマ、ミマショウ、ミマワキ、ナカテあり。7万余戸なるべし。>

上の説では、佐賀県の有明海に面した場所にある伊都国から陸上では奴国や不彌国に行き、船を使っては有明海を南下して投馬国なり邪馬台国なりに行ったとする。

しかしこの説でもやはり帯方郡から邪馬台国までの総距離「万2000余里」から末盧国(唐津)までの10000里を差し引いた残り2000里以内に邪馬台国があるというのを無視している。

(上)で解明したように「水行1000里」というのは「1日の行程」に他ならなかった(海峡渡海一日行程説)が、そうなると水行20日というのは帯方郡から唐津までの水行10000里つまり「10日の行程」の2倍に当たることになる。

佐賀平野から帯方郡と唐津市間の距離の2倍となると南九州はおろか奄美大島くらいまで行ってしまうだろう。そんなところに投馬国があるはずもない。

また邪馬台国を佐賀平野部の伊都国から「南へ水行10日してから陸行1月」を「熊本県八代に上陸して球磨川を遡ってえびのに抜け、宮崎に至る」とし、そこに邪馬台国があったとしている。

しかしまず水行10日とは距離表記では1万里で、これは帯方郡から唐津市の距離であり、約800キロはある。したがってわずか100キロ程度の佐賀平野から八代までの距離とは全く整合しない。誤謬とする他ない。

そもそも論になるが、倭人伝の上掲の書き下し文をよく見て欲しいのだが、(※)の付いた2か所の条文は、本来なら改行すべき所で、前の文に続けて読むべきではないのだ。

「南至る投馬国」とは「帯方郡の南至る投馬国」であり、「南至る邪馬台国」とは「帯方郡の南至る邪馬台国」なのである。

この2つの行程についてのみ日数表記なのはその意味である。そう取らないと、最後の最後になって<郡より女王国に至る、万2千余里>と記載されている理由が分からなくなるではないか。

漢文では段落による改行は無いのが当り前で、試しに原書を読んでみればよい。例えば家に漢詩などを書いた書画・掛け軸などがあればそのことが確認できる。

我が家の例だが、孟浩然の著名な『江南の春』という七言絶句を書いた掛け軸があるが、七言ごとに改行しているわけではない。読み易く句点を付けると

<千里鶯啼緑映紅。水邨山郭酒旗風。南朝四百八十寺。多少楼台煙雨中>

となる漢詩だが、掛軸の三行を使って書かれており、実際には

千里鶯啼緑映紅。水邨山
 郭酒旗風。南朝四百八十寺。多
 少楼台煙雨中  ○○筆>

と、七言ごとのまとまりなど全く無視されている。

これは卑近な例だが、漢文である倭人伝も改行によって意味を採りやすくするなどという「読み手ファースト」的な面は無い。

それまでの距離表記からいきなり続けて日数表記になるという「読み手泣かせ」に気付き、さらに最後の距離表記「郡より女王国に至るには万2000余里」に注目すべきだったのである。

要するに「(郡より)南至る邪馬台国、水行10日陸行1月」とは「郡より女王国に至るには万2000余里」の日数表記であり、同じことを別言したに過ぎないということである。

※邪馬台国は末盧国に上陸したあとは歩いて一か月の所にある。私見でそこは八女市郡域である。
 また投馬国は帯方郡からの水行10日で行き着く末盧国からさらに水行10日南下した所にある。戸数5万戸という大国であり、広く古日向国が該当する。

※いずれにしても南九州邪馬台国説は誤認である。ただし南九州が投馬国であるというのならそれは正しい。








邪馬台国南九州説について(上)

2024-05-16 13:25:08 | 邪馬台国関連

今朝8時過ぎだったが、東京のN氏から電話があった。

この人は80歳は過ぎていながら研究熱心な方で、日本人の成り立ちに絡めて「日本人はこうあるべきだ」などという見解を披歴しておられる。

邪馬台国に関連してはもう5年ほど前になるか、広島県の高校の先生が著した『大隅邪馬台国』という本を大いに評価し、氏の出身地の地元の温泉や書店に置いてもらうのを進めていたことがあった。

私も購入して読んではいたが、結論として「邪馬台国は投馬国からさらに南へ船で10日行き、歩いて1日の大隅半島の志布志湾に面する東串良町から肝付町にあり、卑弥呼の墓は東串良町の唐仁大塚古墳である」というのだ。

この見解についての反論はあとで詳しく書くことにして、件のN氏は今回は『大隅邪馬台国』を取り上げはしなかったが、「倭人伝に書かれた邪馬台国への行程を追っていくと、やはりどうしても邪馬台国が大隅にあるとしか考えられない」と言われる。

「あなたはどこでしたっけ?」と聞かれたので、「私は筑後の八女ですよ」と答えたが、納得できないようですぐに電話が切れてしまった。

南九州に邪馬台国があったという説には絶対の自信(?)を持っており、それに対する反論は聞きたくないようであった。

かく言う自分も、邪馬台国八女説及び投馬国古日向説(南九州の鹿児島と宮崎を併せたのが古日向)に対する反論がもしなされたら、そういう人に対しては「分からない人(ヤツ)だな」とうんざりしてしまうのだから、人のことは言えない。

そこで改めて南九州邪馬台国説に対して冷静な反論を掲げておきたい。

ここでは上記N氏のように、魏の役人が帯方郡から邪馬台国を訪ねて来てその見聞から記録したいわゆる「行程説」についてのみ論じることにする。

行程とはもちろん出発点がありそこから特定の地点までの方角と距離、および所要日数の記録であるが、邪馬台国は日本列島にあるので、さらに「陸行」か「水行」かの区別が書かれている。

 

【倭人伝の記述による帯方郡から邪馬台国までの行程】

①帯方郡治は今日の韓国の漢江の北岸地域であり、まず魏使はそこから船出をして韓半島の西海岸を手漕ぎ船による「沿岸航法」(陸地を目視しながらつかず離れず走る航法)によって南下して行く。

そしてあの修学旅行の高校生が多数犠牲になった「セオウル号」が沈んだ海域から、今度は東に向きを変え韓半島最後の寄港地「狗邪韓国」に至る。

以上、帯方郡から狗邪韓国まで、行程は水行であり、方角は南から東へ、距離は7000里(余里の余は省く以下同様)。

②狗邪韓国からは南へ日韓間の朝鮮海峡を渡る。まずは狗邪韓国から対馬国へ。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

③対馬国からさらに南へ海峡を渡り、一大国へ。一大国は「壱岐国」のことで間違いはない。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

④壱岐国からさらに南へ海峡を渡り、末盧国へ。末盧国は今日の唐津で間違いはない。

当然水行であり、方角は南へ、距離は1000里。

※以上で帯方郡から末盧国までは水行であり、末盧国で九州島に上陸する(船を捨て、以後徒歩になる)。

方角はおおむね南であり、その水行の総距離は10000里。

実はこの「水行10000里」が曲者なのだ。どういうことか?

水上の距離がどうして測れるのだろうかという疑問を呈上しなければなるまい。当然だが測れないのである。

陸上での距離は歩数と歩幅で決まる(といっても測る人間の歩幅に違いがあるので、何人もの経験値を採って平均化すればよい)のだが、水上はそうは行かないのだ。

では一体水行の距離はどうして記録されたのだろうか。

結論から言うと、水行の1000里は「一日行程」ということである。と言うのは、朝鮮海峡を船で渡ることを考えてみればよい。

海峡の一地点から向かい側の一地点への渡海は一日のうちになされなければならないのである。もし海峡を渡り切れないで漕ぐのをやめて寝てしまったら、船はどんどん日本海の方に流されてしまうのだ。

だから狗邪韓国~対馬、対馬~壱岐、壱岐~唐津の間のそれぞれの距離は大きく全く違うにもかかわらず、押しなべて同じ「1000里」なのである。

したがって水行の「1000里」とは実質上は「一日行程」のことなのだ。そう考えると狗邪韓国から朝鮮海峡を渡り、九州北部の唐津までの水行3000里とは「3日の行程」であり、帯方郡から狗邪韓国までの水行7000里は「7日の行程」と同値になる。

よって帯方郡から狗邪韓国を経て唐津までの水行10000里は「10日の行程」に他ならない(ただし正味日数である。海が荒れた際の船日和待ちの日数はカウントしない)・・・(A)

⑤末盧国から伊都国へは徒歩(陸行)となり、方角は東南、距離は500里。

さあ、ここでの解釈が邪馬台国論における無限ループの入り口である。

「伊都国」を「いとこく」と読み、福岡県糸島市に比定するのが定説だが、糸島市なら壱岐から唐津に行かずとも直接船を回せばいいはずで、何で唐津で船を捨てる必要があろうか。

また糸島市なら唐津市から方角は東南ではなく東北である。

この2点もの引っ掛かりがありながら、伊都国を糸島市に比定したことが、その後の地点間の方角が南を東に変えることでしか得られない邪馬台国「畿内説」の優勢を招いてしまった元凶なのだ。

(※糸島は崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にあるように元来「五十(イソ)国」であり、半島南部の意呂(オロ)山に天下った先祖を持つ五十途手はその後裔である。)

※畿内説が成り立たないのは、方角の誤認以上に倭人伝に次の記述があるからである。

<郡より女王国に至る、万2000余里。>

女王国の連盟国家群21か国を列挙したあと、女王国の南に所在する狗奴国のことを取り上げているが、そのあとにこのように記録している。

帯方郡から邪馬台女王国まで、1万2000里余りだ――と言っているのだ。

帯方郡から九州島北部の末盧国(唐津)までの距離表記は合計10000里であった(①~④)。

さらに唐津から東南に500里陸行した伊都国までを入れると1万500里。12000里から引くと1500里しか残らない。これでは到底畿内は無理、九州説でも南部はほぼ無理ということになる。

(以下、下に続く)

 

 


急性記憶障害その後

2024-05-13 20:49:56 | 日記

家内がトイレの便器を洗浄剤と紙やすりでこすり落とした際に陥った「急性記憶障害」の顛末。

心配なので念のために脳神経外科を受診し、脳のCTスキャンをしてもらったが、脳自体に異常は認められなかった。

受診後に下された家内の突然の記憶障害についての病名は「一過性全健忘症」(いっかせい・ぜん・けんぼうしょう)ということだった。

「一過性」と「健忘症」は分かるが「全」が付いている。

その意味は数時間の間の記憶がすっぽり、つまり全部が抜け落ちているということだそうだ。

たしかに家内がトイレ掃除をしている間はおろかトイレ掃除に着手したことさえ忘れていたのだから、トイレ掃除に関わる全行動がすっかり記憶から抜け落ちていたのだ。

おぼろげに、例えば「紙やすり」を何枚使ったかとか、洗浄剤の量はどのくらいだったかなどを覚えていればまだしも、それらのことは全く覚えていないのだから不思議である。

まして私が「休憩したらどうだ」と言ったことも覚えていない。こちらの呼びかけに「何時になったの」という頓珍漢な返事をしているのだが、そのことも記憶から抜けている。

まるで夢遊病者だが、ちゃんとトイレ掃除を継続しているのだから単なる夢遊病ではないだろう。

いわゆる漂白系と塩素系の混合使用による塩素ガス中毒ではないので、原因は不明とされたそうだが、やはり揮発性は高くないにしても何らかのガスを吸い込み、それが血中に溶け込んで意識障害を起こしたのではないかと思う。

本人は当日の午前中、庭掃除をしていて「熱中症」に罹っていたのではというようなことを言っているが、そこまで気温が高かったわけではないし、もしそうだとしたらトイレ掃除に取り掛かることはできなかったはずだ。

いずれにしても現在は何ら不審を感じさせない元通りの意識と行動に戻っているので一安心である。


モモの専用トイレが完成

2024-05-11 19:53:55 | 日記

我が家の猫モモが庭に出て用足しをする際に、せっかく菜園を耕して畝を作り、種を蒔いたり苗を植えたりするかしないかの内に、「あたしのトイレだ」と誤認してちょいちょいとほじくり返すので困っている。

そうはさせないために、ニガウリやキュウリなどのつる植物用の太目のグリーンネットを整地した畝全体に覆ったりするのだが、それでもネットの間の12センチ角という隙間に手を入れて、うまい具合に用を足してしまう。

敵ながらあっぱれだが、もう何年もこんな具合で、綺麗に耕したのを掻き乱されるとかっとする場面もしばしばだ。

そこでモモ専用のトイレを菜園の片隅に設置することにした。

菜園の東側に乙女椿が4本生えているのだが、その真ん中の2本の間に直径20セントほどの木の幹を囲いとして置き、その中に腐葉土をいれて整地した。

幅150㎝、奥行き120㎝、高さ20㎝のモモ専用トイレ。0.36㎥(360リットル)の腐葉土を入れた計算。

建設費は、丸太は我が家の木の幹だから腐葉土の購入代だけ。腐葉土は軽トラック1台で1800円なので、500円位だろう。積んでおいた腐葉土をスコップで苗箱に入れて運んで12、3杯、多少汗はかいたがもちろん労賃は無し。

汗をかいたので昼過ぎに温泉に入りに行き、帰りに焼酎サワーと言うやつを仕入れたのが出費と言えば出費だ。

満14歳の三毛猫モモ。人間なら80歳を過ぎたところだろうか。最近あまり可愛がってやらないのでやや不機嫌である。

この専用のトイレをモモが好んで使い、菜園の畝を荒らさないでくれるといいのだが・・・。


キンギョソウの新品種?

2024-05-10 21:37:11 | 日記

我が家の庭にはキンギョソウの花壇が5か所あり、そのうちで最近咲き始めた花壇のキンギョソウを見て「こんなのは初めてだ」と思う色違いがあった。

キンギョソウは上に伸びて行く長い花穂があり、一般的には下の花も上の花も白なら白、ピンクならピンクというように同じ花の色が咲くのだが、時にはグラデーション風に下の花は濃いピンクだが、上に行くにしたがって薄いピンクから白に近い色になるのがある。

これなどは下の方から順に濃いピンクから薄いピンクそしてほとんど白に近い花穂まで、順序良く同系色で下から上に向かって色が変わっている。

ところが一昨年植え付けてそのまま放置し、種がこぼれて成長していた20株ほどが咲き始めたのだが、今朝よく見るとその中で不思議な花穂を見せている株があった。

基本は黄色なのだが、上に行くにしたがって赤い色が混じっているのだ。

ここ4年ほどキンギョソウにこだわって花壇に植えるようにしたのだが、こんな非グラデーションを見たのは初めてだ。

これはおそらく交配で、ピンク色の濃い花の株と、黄色の花の株とが交配したのだろう。

見ていて飽きない色合いである。

いま現在咲いているキンギョソウの色の種類は、白、濃いピンク、薄いピンク、薄い黄色など5種類くらいで、中には赤系統のグラデーションがあり、その数は多いのだが、黄色と赤系統の混合色は初めてだ。

どう評価していいか分からないが、とにかく目をひく色合いだ。

新品種なら面白い。