ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

厚東地区への吟行…これで最後です!

2021年04月19日 | 俳句

 今日は全国的に晴れの天気予報で、こちらでも朝から雲一つない青空でした。ラジオ体操へ出掛けてもそんなに寒さは感じなかったのに、戻って部屋にいると何だかひんやりです。昼と夜や日向と日蔭の温度差が大きいからなんでしょう。これではいつまでたっても冬物が仕舞えませんね。

 今日は、「厚東地区への吟行」の最終回です。

 浄名寺から東隆寺の次は、「恒石(つねいし)八幡宮」へ行きました。この参道の入口には〝厚東地区史跡案内図〟の立札が…

 この八幡宮は、厚東氏が創建した最古の神社です。「恒石八幡宮の歴史」というパンフレットによると、厚東氏第2代の厚東武基によって、970年頃(平安時代)に創建されたのではないかということ。歴代の厚東氏当主の中では、特に有名なのが第14代の厚東武実(生年不詳-1348年)で、後の17代厚東義武までの四代が長門守護職の地位にあったのですが、その厚東氏が大内氏に攻められて、霜降山にあった城が落城した日が1358年(延文3年/正平13年)の1月2日。ということで、恒石八幡宮では、お正月の2日までは太鼓を叩くことを止め、厚東氏に哀悼の意を表していると記されています。

 厚東氏時代に建てられた神社の中でも中心的な存在で、厚東地方宗廟として、厚東氏だけでなく、大内氏・毛利氏と三代を通じて信奉されていたので、市指定有形文化財「紙本着色恒石八幡宮縁起絵巻(上下2巻)」をはじめ、厚東・大内・毛利氏時代の古文書・御神座等多数の文化財が所蔵されています。

 また、以前参道に石灯籠がズラリと両側に並んだ写真を見たことがあって、一度行ってみたいと思っていましたので、それはどこに?と捜したのですが…ない!するとIさんが、先生こっち、こっち…と言って、北鳥居の参道へ案内してくれました。ああ、これこれ…。私たちは南の鳥居から本殿の方へ来たから分からなかったんですね。そうするとこちらは裏参道になるのかしら。その両脇には沢山の石灯籠が並んでいて、それを囲む神社林の間からまるで後光が差してくるような感じ。そんな神々しい風景を見ると、とっても荘厳な気分になり…心が洗われるようでした。

 この石灯籠の灯袋を見るとどれも黒く煤けていましたので、きっと何かの催しには蝋燭を灯して行われるのかも…もしそんな時があれば、是非来てみたいもの。下の写真の木は?花が一面にぽろぽろと落ちていました。

 さあ、これで句材は有り余るほどあるから…今から作句しなくっちゃと思っていると、今月幹事のSさんが、最後にもう一ヵ所寄って行きたいところがあると…

 それは、「御撫育用水(ごぶいくようすい)」の〝辰ノ口隧道(たつのくちずいどう)〟だという。

 宇部市の厚南地域は、毛利藩政時代から干拓により新田開発が行われてきた所ですが、水利の便が悪く、これを解消するために灌漑用水路を開削しました。この用水路を「御撫育用水」といい、撫育方の工事により、天明8年(1788年)に着工し、寛政4年(1792年)に御撫育用水溝筋明細図絵に描かれている中野開作までが完成、安政6年(1859年)に妻崎新開作まで全面開通しました。

 これは、撫育方の事業として実施されたものですが、撫育方とは、宝暦検地による増収分の貢租を基に、本部会計とは別個に設立された別途会計機関であり、その資金を基にして新田開発、製塩など、いわゆる毛利三白政策の推進の中核をなした財政担当部局なのです。

 そういうわけで、この用水の開通によって水利が飛躍的に良くなり、地元の人々は感謝をこめて「御撫育用水」と呼び、現在までもその名称が残っているのです。今は使われなくなったのですが、宇部市大字広瀬に残る辰ノ口隧道は、文政4年(1821年)に掘られた御撫育用水の一部で、昭和7年(1932年)まで厚南平野に水を供給する役割を果たしていました。

 その隧道の入口がこの厚東にあるということで行きましたが、見つからず。仕方なく辰ノ口隧道の代わりに県営事業で昭和8年に完工したという〝昭和隧道〟の方を見てきました。

 それから午後の句会場厚南会館へ戻り、そこでお弁当。その後句会を3時間バッチリして、16時30分終了、解散でした。皆さま、お疲れ様でした。オシマイ!

コメント
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