今日は曇りですが、午後から雨と。また黄砂も降ってちょっと蒸し暑い日です。だからでしょうか、何となく体がだるくて、今一つ体調がよくありません。何がどうだということではないんですけれど、物憂くて心が沈みがち…
春ならこういうのを〝春愁〟とでもいうのでしょうが、この風薫る良き気候の初夏にはそんなメランコリーな季語はありませんね。もし今日のこの気持ちをしいて詠むとしたら…〈不毛なる心に夏の黄砂降る〉なんちゃって…でもこれちょっと言いすぎかしら。
さて、昨日の5月21日は「小満」でした。歳時記の説明では、二十四節気の一つで、陰暦四月の中。万物しだいに長じて満つるという意味だと。
小満や根づきし色の大棚田 古市枯声
上掲の句はまさに〈根づきし色〉が〝小満〟を物語っていますね。でもやや即きすぎかな。このような時候の…特に二十四節気や七十二候などの季語を使って詠むというのは非常に難しいです。単純にその日がそうだからとして使うと、その必然性を問われますもの。忌日の季語を使うのと同じなんです。ただその日だからというのでは絶対にいけませんからね。気をつけましょう。
季語というものは単にその時期や季節などを伝えるだけのものではないのですよ。その季語が持っているあらゆる情報を理解して、その上で自分が句に描こうとする世界を更に深めたり広げたりしてくれるような季語を選ぶのです。よく言う〝季語が利いている〟とか〝季語と響き合っている〟とか言われるようなものを選択して下さいね。
例えば、歳時記の例句にある〈小満やどの田も水を湛へをり 小島雷法子〉とか〈小満の人影ふゆる田に畑に 太田嗟〉などの句は、確かにお上手なんですが、僭越ながら言わせて貰えるならちょっと即きすぎではと…、私は思うのです。エラそうに…ゴメンナサイ!
ではどのような句がいいのかというと…〈小満のみるみる涙湧く子かな 山西雅子〉という句。これは一元俳句ですが〈小満〉と〈みるみる涙湧く子〉には何ら繋がりが見えません。この子には今きっと何か悲しいことか悔しいこと…要するに何か涙が出てくるような出来事があったのでしょう。それも〈みるみる〉という措辞で、今まさにこの子の目から涙があふれ出る瞬間を言い止めています。そして、それがたまたま小満の日だったということ。
しかし、この涙するような経験からこの子はきっと何かを学び、心の豊かな人に成長していくに違いない…と、作者はそんな思いでこの子を見つめたのではないでしょうか。そこには子の成長を温かく見守る心…いうなら万物を育てる自然の心をもうけとめたように感じられます。このように〝小満〟だから…という因果的なものを全く感じさせずに、子の描写だけで季語の本意を伝えられているというところがサスガなんです。
だからこのような幅の狭い季語(この日だけというように限られるもの)には、できればこの句のように大きな深い視野へと繋がることによって、いうならば生きるということへの真(まこと)を見つけての人生を詠んでいけたらいいなと、私は考えているのです。
もちろん何でも〝言うは易く行うは難し〟ですからね。(笑) ああ、私ももっともっと勉強しなくっちゃ…、はい、分かっています。それじゃあ、またガンバロウっと!
写真は〝定家葛(ていかかずら)の花〟で、仲夏の季語です。ラジオ体操に行く途中の家の垣根になっていました。
虚空より定家葛の花かをる 長谷川櫂