では今日は一日遅れですけど、お約束しました通り12月の月例吟行会の報告をしますね。
12月6日の金曜日、先ず最初の吟行地は山口市鋳銭司にある両足(りょうそく)寺です。ここは臨済宗の寺で、秋には紅葉が美しく、春には〝五色八重散り椿〟の大きな木がありますので、私は何度か来たことがあります。しかし、初めての人が多くて、こんな所にこんな寺があるなんてと感激していました。
本来はもう少し早くに紅葉するのですが、今年は異常気象で、見ごろが遅くなっていました。今月の幹事・N子さんが、先週下見に来た時はまだ緑の葉が残っていたけど、今週はきっと最高ですよと言っていましたが、本当にその通り。京都の紅葉に負けぬ見事な紅葉でした。おまけに石蕗や杜鵑の花などもしっかりと咲き残っていて、それはそれは美しい!目を奪われるような〝錦織りなす〟というのはまさにこの紅葉のことかも。
ではしばしこれらの写真で目の保養をして下さいね。少々ボケ写真もありますが、ご容赦を…
この寺の近くに千体仏の地蔵堂があるというので、次はそれを見学に。見てビックリ!何と小さな仏様がびっしりと…後からパンフレットを見ると、10センチほどの木彫の地蔵が千体並んでいるのだと。かつては彩色されていたというのが微かに見えて、中世の頃の俤を残しています。
この鋳銭司というのは、飛鳥・奈良・平安時代に、国家の銭貨を造っていた役所で、ここ周防には平安時代の天長2年(825)から約200年間鋳銭司が置かれ、銭貨を鋳造していました。この遺跡から鋳銭に使用した道具などが多く出土し、工場跡もはっきりわかるので、国指定の史跡となっています。それらは鋳銭司郷土館へ行けば見られますが、今日は時間がなく見学はせず、大村益次郎の墓所と大村神社を見るだけにしました。
明治維新の功労者の一人、大村益次郎は、文政8年(1825)にこの鋳銭司の地に生れ、洋学・医学を学び、兵学をもって長州藩に仕えました。四境戦争や戊辰の戦いには参謀として参加し、明治新政府樹立のために尽しましたが、明治2年(1869)9月、京都で旧思想の武士達に斬られて重傷を負い、それがもとで11月5日に死去しました。益次郎の横には、妻のお琴さんのお墓が同じように並んでありました。
嘗てはこの墓の裏に大村神社が建っていたとか。回りには黄葉した大きな木が何本もあって、アメリカ楓かと思ったのですが、グーグルレンズで調べてみると、〝ユリノキ〟だと。こんなにたくさんあるのなら、今度花の咲く頃にもう一度来て、本当か確かめてみたいもの。
この林の中の大本に、〝ムササビ〟の穴?のような洞のある幹があり、皆に教えるとこれが格好の句材になりましたよ。もし違っていても、そう思って見れば…(笑)句は詠めますからね。
最後に行った大村神社は、大村益次郎が祭神で、最初明治5年(1872)にお墓の傍に建てられましたが、昭和21年(1946)にこちらに移ったようです。
この後昼食を済ませて、鋳銭司地域交流センターの部屋をお借りし、句会。無事に17時までに終って、宇部まで帰りました。ちなみにこの辺りは大村益次郎の生家があったところで、そのため鋳銭司地域交流センターの前庭には大村益次郎の銅像が建っています。帰り際に撮ろうとしたのですが暗すぎてダメでしたので、この写真はお借りしました。スミマセン!
地球儀の傍らに立ち、手には「蘭語通 ABCD」と言うタイトルの本を持って蘭学の講義をする益次郎さんの像です。これを見て、これは等身大なのかしら? だとすると五頭身?などと、みんなでワイワイガヤガヤと…はい、これでオシマイ!どなた様もお疲れ様でした。