ここ宇部でもこのところの気温で一気に桜が満開になったかと思うと、もう散り始めています。まさに〝花の命は短くて…〟で、ちょっと目を離した隙に…あらら!…ですよね。
声よくば歌はうものを桜散る 芭蕉
この句を見て、ヘエッと思いました。歌うのが下手か上手いかは別にして、芭蕉は声はよくなかったんですね。自らが〝声がよければ歌おうと思うのに(悪いから歌えない)〟と詠んでいるのですから。
しかし、芭蕉は一体どんな歌を唄うつもりだったのでしょう。江戸時代に流行った端唄とか?でも、芭蕉には三味線などに合わせて唄うような姿は似合いませんよね。ちょっと疑問に思っていました。
そこで調べてみると、この句は元禄元年春、『笈の小文』の旅の時、吉野にて詠んだ句なんですね。ところが、どの資料を見ても〈歌はう〉が〈謡はう〉という表記になっていました。とすれば、歌とは〝謡(うたい)〟ということになりますから、ナルホドと納得。こんな美しい花吹雪に包まれたら、ここで謡の一曲でも歌いたいものを…ということだったんですね。〝謡〟は、能や狂言などでうたう謡曲ですから風情が違います。でも『角川俳句大歳時記』がこんなミスをするなんて。漢字一字たりとも俳句にとってはとっても大きな働きをしますからね。以前も幾つかおかしなものを発見しましたが、先頃新しくなったというこの大歳時記、ちゃんと修正されているのかしらと気になります。もし分かる方がいれば教えて!
そういえば、江戸中期の俳人・大島蓼太(りょうた)に〈世の中は三日見ぬ間に桜かな〉という句があります。私はつい〈……三日見ぬ間の桜かな〉と覚えていたのですが、それは慣用句として〈三日見ぬ間の桜〉が流布していたからなんです。
広辞苑を見ていたら面白いことに気づきました。その句の解説には〝ほんの三日間見ていなかっただけなのに、気がついたら桜が咲いていた、と季節の動きをよんだもの。のちに「見ぬ間の」と助詞を変えて、世の中は実に転変の激しいものである、の意で流布〟とありました。即ち蓼太の句は〝いつの間にか桜が咲いていた〟というのに対し、「に」が「の」と誤伝されて、〝三日見ない間に散ってしまう〟という桜に喩えられたのです。慣用語というものを何という気もなく使っていましたが…やはり何事もきちんと覚えないといけませんね。ハイ、良い勉強になりました。
ところで、厚生労働省よりの<お知らせ>では、この3月13日よりマスクの着用は個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本になると。ではそれでマスクを着けている人が激減したでしょうか?もうじき1と月になろうとしているのに、ここ宇部ではまだ8割近くはマスクですよ。ラジオ体操に行っても殆どがマスクをしてやっていますし、病院へ行けば相変わらず手の消毒と検温、それにマスクなしでは診てくれませんもの。学校はどうかというと、登下校の子どもたちを見る限りやはりまだ殆どの子どもたちがマスクをしていましたね。
面白い現象です。コロナのことがなかったら、日本人がこんなにマスク好きだったなんて、誰も予想しなかったでしょう。かくいう私もあんなに嫌がっていたマスクが今ではしてないと落ち着きませんもの。ヘンなの!…ですよ。
しかし、以前から見知っている人はマスクをしてもしなくても印象は変らないのですが、コロナ禍の中で出会った人はマスクの顔しか知らない。だから、外した顔を見ると、一瞬〝この人誰?〟と思ってしまうんです。更に言えば、マスクをしていたときの方が美男美女に見えていて、外すと…エエッ!と思うことの方が多い。そういうこともあって外そうとしない人もいるのかも。
そう言えば、マスクじゃないけどお見合い写真の修正が余りにも実物とかけ離れていて…ダメになったという話、よく聞きました。人間って期待が大きければ大きいほどそれに反していた時のショックは倍増しますものね。
コロナの為のマスクがいつの間にか〝下着のようなもの〟になってしまって、外すと外を出歩けないという話もよく耳にします。何だかこれもヘン!特に子どもたちがマスクの下着化に感化されて成長していった時、どんな影響が出るのでしょうか。あまり良い結果は想像できないのですが…。
何だかヘンな話になりましたね。もう昔?(たった3年前なのに)のようには戻れないのでしょうか。まだ見ぬ10年後、20年後の世界がコワイ!…当然私にはもう見ることはできないでしょうけど…。
写真は、道路の隙間に美しく咲く〝菫(すみれ)〟と〝トゲミノキツネノボタン〟。私たちもこの花のように、何事にもめげず明るく逞しく生きていかなくっちゃ!
おはようございます(*^-^*)
只今日本語と格闘中です!
芭蕉の作品、そんな漢字の間違いがあったとは
知りませんでしたΣ(・ω・ノ)ノ!
歌はうと謡はうでは、意味が全然違いますね。
でも、俳聖芭蕉さんでも人間臭いところがあったのだとほっこりしました(*´艸`*)
男子三日会わざれば刮目してみよ
という慣用句もで三日という期間。
三日というのは、大きな変化を促す
貴重な時間なのかもしれませんね(^^)/
コメントありがとうございます。
今夏井いつきさんの〝おウチde俳句くらぶ〟に入って格闘中なんですね。
いつもブログ面白く拝見しています。
私の教室でも、古語や歴史的仮名遣い、中でも古典文法になると全くのお手上げで、みなさん四苦八苦されていますからよく分りますよ。
〝歌はう〟と〝謡はう〟の間違いは恐らく出版社かそれを書いた執筆者のミスだと思います。
原作を見たわけではないのですが、他で例句として挙げてあるものにはみな〝謡はう〟になっているのですから。
要するに歳時記のミス…これが前にも何度かあって書いたことがありますから。
芭蕉のミスは、以前教科書で教えたことがありますが、文法的なことでしたね。表記に関しては写本の時代ですから間違いや誤解などで結構生じています。いわゆる書く人のレベルや理解度によって間違って伝わることもあるのです。
だから古典では原典が非常に貴重なのですが…残念ながらもうないと。すると残されたもので一番信用できる写本をもとにして作成されているのですが…。
翡翠さんはスゴいですね。〝男子三日会わざれば刮目してみよ〟は『三国志』でしたか?
三日というのはある意味面白い言葉ですね。〝三日坊主〟や〝三日天下〟なども。また〝三日先知れば長者〟というのもありますよ。
頑張ってどんどん勉強して、私にも教えて下さいね。(*^ー゜)
漢字・難しいですね。文字をかく機会が、ほとんどなく
漢字は、なんとか読んでも書けないです(;^_^A
エッセーを、新聞に投稿するのも メールで済みますから
ペンで書くことは無いです。俳句については書けなくてごめんなさい。
やはり書くということがいかに脳の働きに影響するかというのは、いろんな学者が証明済みです。
いろんなものが機械化されて便利になればなるほど人間は頭を使わなくて良くなる分だけバカになっているんですよ。せめて字を書きましょう!
覚えるのは大変ですが忘れるのは簡単でしょ!年を取ればとるほど〝維持する〟のが大事ですよ。