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長女フィーダが語るモロ元首相誘拐暗殺事件 

2024-08-26 12:23:31 | 社会
イタリア映画「夜の外側」を見たでしょうか?6時間という長編映画です。6章からなる映画ではたくさんの登場人物が出てきてそれぞれの事件と解決への関わりを描いています。結局この映画を見ても私には未だに全体を理解することが出来ないでいるが、事件の渦中でモロ元首相の家族が直面していた問題を知ることができる記事を見つけたので以下翻訳してみた。少なくともひとつの重要な側面、新たな側面が見えてくると思った。

Panorama 20/03/2012

Maria Fida Moro: «Le divisioni in casa non aiutarono mio padre»
A 34 anni dal sequestro delle Br, la figlia del leader Dc accusa: il movimento Febbraio 74 seminò zizzania in famiglia.
マリア・フィダ・モロ:「家庭内の分裂は父の助けにはならなかった」
赤い旅団誘拐事件から34年。DC指導者の娘は、<<74年2月運動>>が家族に不和の種を蒔いたと告発した。

「母は死ぬ前に、あのときに自分が犯した間違った決断を告白するためにあの手紙を書きました。これは私的な文書ではなく、歴史的・政治的証言です。なぜなら、それはモロ事件の闇の側面、つまり誘拐から55日間の家族内の葛藤に触れているからです。今、それが記録に残され、公の歴史の一部となるのは正しいことです。」 ファニ通り虐殺(=1978.3.16.モロ誘拐虐殺事件)からちょうど34年が経った今も、その傷の多くはまだ癒えていない。マリア・フィダはもっとも苦しんだ女性の一人。事件発生当初からDC党首の家族である自分の家族を引き裂いた人物でもある。

モロ家で何かがうまくいっていないのは明らかだった。しかし今回、ベールを脱ぐのはアルドモーロ夫妻の長女、マリア・フィーダだ。母親が2006年に書いたものの、他の2人の兄弟であるアニェーゼとジョバンニの反対により公表されなかった手紙についてコメントした。手紙の一部の抜粋は、しばらく前にラ・スタンパのウェブサイトに掲載されたものの、その後削除された。 34 年間で 26 個の腫瘍を患い、過去 2 か月で 3 回の梗塞を患い、この一家の悲劇を象徴するようなマリア・フィーダさんは、現在療養中だ。そして、パノラマ誌とのこのインタビューで、彼女は<<74年2月運動>>のこと、55日間のモロ家における代理人たちの存在のこと、そして家族の決定に影響を与えた<<外部からの干渉>>について語っている。

母親のエレオノーラさんは手紙の中で、<<74年2月運動>>について言及しています。何故ですか?

最初から話しましょう。誘拐の最初の数日間、有名週刊誌の記者、たしかヨーロッパ誌のディナ・ルーチェだったと思いますが、家族と一緒にモロ事件を調べるために家に来てほしいと頼まれました。私は「はい」と答えましたが、他の家族は反対しました。その日から問題が始まりました。

なぜほかの家族は反対したんですか?

彼らは新たな証言者を望んでいなかったのです。家族の中で何が起こっているのかを外の世界に知られたくなかったんだと思います。

しかし、ジャーナリストのディナ・ルースは、モロ家にとって当惑するようななにかを言うことがあったのでしょうか?

非常にデリケートなポイントですね。誘拐から数日後、兄弟たちは私が護衛隊員の葬儀に出席することを望みませんでした。理由? 息子のルカにとっては危険だったからかもしれません…。でも私はとにかく行ったのですが、教会の入り口でブロックされてしまいました。幸いにも警察官が私に気づき、中に入れてくれました。そのエピソードは私に対する家族の戦争の始まりであり、モロ事件全体のターニングポイントの1つになりました。家族間の緊張があまりにも強くなり、ある日とうとう母が涙を流しながら私に家を出て行くことを懇願したのです。

なぜあなたは家にいてはならなかったのでしょうか?

核心はすべてここにあります。私は父が<<人民刑務所>>から私たちに求めたことを正確に実行するために戦いたかったのです。父は家族全てが動いて、そこから救い出されるために何かをしてほしいと望んでいました。そして私はお母さんも説得したかったのです。しかし、たぶんそれを懸念する人もいたのです。

でも、失礼ですが、モロ氏の解放は本当に家族の目標ではなかったのですか?

もちろん家族が求めていたのは父の解放でした。しかし事実から判断すると、私のほかの家族に入れ知恵していた本当に悪いアドバイザーがいたのです。誘拐の日以来、外部のグループが私たちの家を「占拠」していました。外部のグループとは、弁護士のジャンカルロ・クアランタが指揮し、兄のジョバンニも参加していた<<74年2月運動>>のグループです。

それで、あなたが家の中にいては迷惑だったと?

とても。

しかし、なぜ?

私たちは、その運動の指導者たちがどのように論理的に考えたのか、彼らがどこへ行こうとしたのか、そして彼らが他の誰かからアドバイスを受けたのかどうかを理解する必要があります。確かなことは、彼らが家族の態度を<<管理>>すると主張していたことです。とらわれの身の父でも、自由の身の母でもなく、ましてや家から追い出された長女マリア・フィーダでもなく、彼らだったのです。父は自身の状況にもかかわらず、それに気づいていました。

どうしてそう確信できるのでしょうか?

父は母親に送った2通の手紙の中で、誰のアドバイスも聞かず、ましてや見知らぬ人のアドバイスには耳を傾けず、テレビに出て交渉を呼びかけるようにと伝えていました。父は誰も信用していなかったのです。つまり捕われの身の父は、自宅にいる私たち家族が直接この状況に対処することを望んでいたのです。

あなたのお父さんは<< 74年2 月運動>>を知っていましたか?

もちろん父は知っていました。そしてそれを嫌悪していました。父の仲間が私に語ったところでは、1976年の選挙時、<< 74年2 月運動>>はキリスト教民主党はすべて泥棒であると非難するマニフェストを掲げてDCに反対する運動をしており、私の弟のジョバンニも最初の署名者の一人だったとのことでした。それで父はとても気分を害し、そのときから弟と話したがらなくなったと母は言ってました。父は母を通してしか弟と連絡を取らなかったとのことです。

<<74 年 2 月運動>>はどのようなアドバイスをしたのですか?

私の意見では、このグループは母と兄弟たちに、決して前向きな結果につながるはずのない方向へ仕向けました。閉鎖的な態度、あらゆるもの、すべての人に対する憎悪。彼らは家族をDCに敵対させることにさえ成功した。私たちは完全に孤立されたのです。

家族の中にモロ氏の解放を望まないかのように振る舞う人々がいた、とコッシーガが述べたときのことを言ってますか?

逆説のように思えるかもしれませんが、コッシーガがまさにこれについて言及していたと信じる理由があります。当時家の周りをうろうろしていた人々の中には、多くの親しい友人に加えて、もっぱら私たち家族を分断するために侵入したと思われる人々もいました。私は常にそのことを確信してきました。もし私たちが団結を保って父のアドバイスに従っていたら、世論に直接訴えて父を救うためにあらゆる手を尽くしたでしょう。父は私たちに、国会議員100人の署名があれば国に交渉を強制するのに十分だと言いました。しかし、その代わりに私たちは分裂し、孤立し、あまりにも弱すぎました。このような結末になるのは必然だったのです。

しかし、なぜあなたの母親はそのような状況をそのままにいていたのでしょう?彼女はそれに気付いていなかった?

気付かないふりをすることで少なくとも一家を維持しながら被害を抑えることができると母は自分自身に言い聞かせていたでしょう。母は、私が今後も母の決定を尊重するだろうと思っていたのです。私は母の決定に同意できなかったし、そのグループについて父が何を言っていたか知っていたにもかかわらずです。 3月16日以来、グループのリーダーたちはあたかも私たちの家が自分たちの家であるかのように振る舞い、物事を動かす権利があるとさえ感じていたことを考えてください。

あなたの兄弟たちも気づかなかったのか?

彼らはそのグループと緊密な関係にありました。私は母にそのことを理解してもらおうと努めました。しかし、無駄でした。もし私が家に留まっていたら、終わりのない戦争になっていたでしょう。だから母は私に家から去るように言ったのです。

その後、お母さんとそのことについて話す機会はありましたか?

はい、そして彼女は涙ながらに自分が<<大失敗>>したことを認めました。外部からの人間たちによって引き起こされた、家族の外部からの孤立と内部分裂は、誘拐の悲劇的なエピローグを決定する一因となったのです。

お父様が亡くなった後、家に戻ることができましたか。

はい。でも随分経ってからです。その間、私はモロ家とDCとの最悪の関係の結果、ガゼッタ・デル・メッツォジョルノ紙のジャーナリストとしての仕事を失いました。その後、国会議員に選出されたことで、再び立ち上がることができました。家族が私を必要としていたので、私は家に帰りました。私の国会議員の手当は、母親が年金を受け取るまで収入のないまま残された家族の借金を支払うために全額使われました。母と兄弟を助けるために、結婚祝いと自分の家を売らなければなりませんでした。酷い人生です。感情としても、経済的にも、肉体的にも。それは何よりも、父が私たちに求めたことを果たせなかったという、ひどく耐え難い罪悪感のためでした。もし父親自身が危険とみなした部外者が家族の一挙手一投足を監視していなかったなら、私たち全員が一緒にやるべきだったし、一緒にできたはずだ。今でもどうしてこんなことになったのかわからないのです。


(本文)
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