鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分の鏝絵

2017年02月20日 00時00分01秒 | 旅行

 鏝絵は左官職人が手掛けた漆喰で形作るレリーフのことであり、古くから行われていたようであるが、一般的に広まったのは江戸時代の終わりと伝えられている。民家の壁や戸袋、農家の母屋や土蔵の妻壁に竜、虎、恵比寿、大国等の七福神等をモチーフとしている。大分では入江長八(1815~1889年)の流れを汲んでいるようで、この職人は、江戸日本橋茅場町の薬師堂建立にあたり、柱に漆喰で竜を彫刻したことによって、全国に広まったようである。

 

 長八はその後、様々な技法を編み出し、江戸の商家等に、彩色を使った鏝絵を制作した。現在各県にあるようだが、大分には日出町、山香町、院内町、耶馬渓町、中津市、日田市、玖珠町、安心院町等に分布している。大分に伝わったのは、江戸時代に日出(ひじ)の出身で左官の修行に江戸へ行き、入江長八に出会った青柳鯉市という職人が地元に帰ってから日出町等県内の各所で広めたようである。

 

 鏝絵にはおめでたいモチーフが多いが、見栄え、流行、芸術性ばかりではなく、子孫繁栄や、商売繫盛、家内安全等を願って家屋の主だった場所に作られている。鏝絵といっても、鏝だけの施工ではなく、竹、銅線、流木等の様々な材料が使われている。

 

 漆喰は牡蠣殻を粉砕し焼成したものに、石灰と海藻海苔を加えて水を入れ、練ったもので、彩色は漆喰に色付け用の顔料である岩絵の具を使っている。赤色には酸化鉄、朱色は丹、藍色はキンベル、浅黄色は藍色に牡蠣灰と鉱滓を加える。黄色は黄土等である。

 

 鏝絵の保存は外壁等に施工されている場合が多く、家屋自体の老朽化とともに、崩れてしまう場合もあるが、、保存は難しいとされている。新たに家屋に鏝絵を作ることは現在ではほとんど行われていない。その意味では、修復や、新たに造形することも困難になりつつあり、今後どのような保存を行っていくのかは喫緊の課題であると言える。職人の養成が何より困難であろう。

 

 今回、別府で宿泊した温泉旅館であるが、白菊であった。別府駅より近い場所で、団体客は見なかったが、受付で案内を行っていた初老の方が、紹介してくれたのが鏝絵であった。玄関ホールには鏝絵が芸術作品として飾られていた。説明書きを見ないと鏝絵であることすらわからない石膏で型取りされたものと見間違うほどのものであった。風神雷神図のレリーフ版である。鏝絵の作家がいることを頼もしく思った次第である。


暘谷城(日出城)

2017年02月19日 00時00分01秒 | 旅行

 暘谷城(ようこく城)は日豊線日出駅より暘谷駅に近い。関ケ原の合戦後の慶長6年(1601年)三万石を与えられて城主となった木下延俊の城である。豊臣秀吉の側室寧々の甥にあたる。さほど大きな城ではなく、3万石といえば加賀の殿様が100万石なので比較にならない大きさである。天守は三重の層塔型であった。城は豊後の国一、二といわれる良港、日出港に臨む崖上の要地に位置していて、台地の南端に本丸を設け、その東・北・西に二の丸、その東側に三の丸が配置され、港に面している。山城ではなく、別府湾に面する海城である。現在は小学校と中学校が城跡に建てられている。建物は取り壊されていて、昔の面影はないが、最近、櫓(やぐら)の再建が行われている。

 

 本丸の取り壊しは明治政府が命令を出して取り壊したのであるが、一部競売に出された櫓があったようで、民間人が落札したものを町が買い取ったようで、移築されている。それなりの類似性はあるが、建てたばかりのようで、自分には興味半減であった。

 観光用の資料等の展示が行われていたが、むしろ、城を囲む旧家の武家屋敷跡などは、そこそこであり、近くの的山荘ぐらいが良いかもしれない。ここの和風庭園は素晴らしいもので、別府湾を借景に見立てた3500坪の庭園である。馬上金山で財を成した成清氏の別邸であったところで、現在もその末裔が日本料理屋を開いている。現在は、庭園の方の手入れは町の方で手掛けている。自分が大分に赴任しているときには何度か利用したことがあるが、その時は、日本庭園は一般に開放されていなかった。今から7~8年前に一般への無料での開放がされたと従業員から聞いた。

 

 この場所は、海水と湧き出す水との吃水にあたり、「城下カレイ」が生息している。それがこの地の名物料理となっていて、専門の料理屋も数軒が点在している。味が淡白で、魚臭さがないためか、刺身、てんぷら、焼き物、煮物、吸い物、等のフルコースともなれば万円札が飛んでしまう。以前は的山という名の清酒がふるまわれていたが、現在は作っていないとのことであった。残念である。

 

 暘谷城は滝廉太郎とも関係が深いようで、廉太郎が学生時代帰省で何度か父親が住んでいた日出城武家屋敷内で暮らしていたようで、竹田市にある岡城で作曲したとされている「荒城の月」も暘谷城の石垣のイメージと重なっていたようで、定かではないが、日出町も関係性を言うようになっている。どちらにせよ、そのような元祖まがいの話はあまりためにならないし、興味も湧かない。


大神回天訓練基地訪問

2017年02月18日 00時00分01秒 | 旅行

 短期間であったが、女房の実家へ帰省した。いくつかこの機会を利用して行ったことがある。その一つに以前ブログで紹介した日豊線大神駅から車で10分ぐらいに位置する大神訓練基地である。現在は回天記念公園が整備され、そこに人間魚雷回天の実物大模型が展示されている。基地全体は牧ノ内、深江という海岸に面した地区にあり、100ヘクタール以上の広大な面積を有していた。昭和16年から17年にかけて建築予算が成立し、大型戦艦や空母の建造可能な大神海軍工廠の建設予定地であった。昭和18年9月1日山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島に、大津島回天基地が開設され、以降、光回天基地、平生回天基地が開設された。

 

 大神海軍工廠建築予定地の一部が、回天特攻の基地として転用され、17年秋から牧ノ内一体を中心に基地建設が着手された。昭和20年4月25日、突撃隊指令、山田盛重大佐以下、兵員2000名の構成による大神回天基地が開設された。基地内施設は舎屋51棟、本部、神社、魚雷調整場、変電所、浄水場施設、酸素圧縮ポンプ室、魚雷調整プール 燃料格納壕 回天格納壕等が整備された。また、トロッコ軌道もあったようである。

 

 では、どうして人間が操縦する魚雷が誕生したかは正確の資料をみたわけではないが、真珠湾攻撃で米国との直接対戦に発展した太平洋大戦の劣勢を回復しようとした黒木中尉と仁科少尉の提案で、九三式魚雷を改造し、自らが操縦する肉弾戦は軍部により一度は却下されたようであるが、採用され、伊号型潜水艦の甲板に搭載される方式であった。トラブルも多く、帰還者も多い。終戦までに28回出撃し、回天作戦の戦没者は104名、回天整備員、搭載潜水艦の乗組員合計1073名であり、平均年齢は20.8歳であった。残念ながら回天作戦による成果の確認はできていない。

 

 回天の性能は、全長14.75m、直径1m、全重量8,300kg、速力30ノット、航続距離23km、10ノットで70km、頭部炸薬1,550kg、燃料酸素・白灯油、搭乗員1名、エンジンの出力は550馬力である。

 

 船体は頭部、胴体、九三式魚雷三型で構成。回天の安全潜航深度は80mで、搭載潜水艦が100mであったが、改良されていなかった。大神基地に配備された回天は下部ハッチがなく、陸上からの発進が想定されていた。大神基地での訓練は、別府湾で行われ、着底した海鷹(元あるぜんちな丸)という小型空母)をターゲットに使用していたといわれている。訓練用回天は16基あったようである。訓練時点の搭乗員は2名一組で行われていた。幸いなことに大神訓練基地からの戦没者は自殺者1名をのぞき、一人もいなかった状態で終戦を迎えたことである。

 

 


和紙の用途

2017年02月12日 00時00分01秒 | 紹介

 時代錯誤かもしれないが、我が国の伝統産業である和紙作りは、いたるところで利用され、高度の技能が繰り広げる和紙の奥義ばかりではなく、洋紙に比べ、比較にならないほど寿命は長い。化学繊維とさほど製造に違いがあるとは思えないが、和紙は数千年の歴史を持ち、洋紙は数百年で、一桁異なっている。手すき和紙は、障子紙、お札、習字用半紙に至るまでその用途は幅広い。自分の専門分野から言うと。美濃紙や吉野紙である。どちらも塗料を濾すためや、下地の補強に使っている。

 

 今回のテーマは四国の和紙製造からのヒントである。四国には一千年を超す紙づくりの歴史があるそうで、手すき和紙である。伝統産業として、よく見る光景に、四角い桶の中に、和紙の原料となる楮やミツマタの皮をはがし、繊維だけを取り出し、海藻のり等を入れてよくかき混ぜ、漉いて紙にする方法である。それを天日で乾かし、それぞれの用途に出荷される。このこと自体は珍しいことではない。

 

 最新のパルプを原料としたいわゆる洋紙であっても原理は同じであり、パルプから得られた木質繊維を絡ませ、紙とする。古くはエジプトのパピルスが有名であり、paperの語源にもなっている。我が国が手掛けている古代エジプトの貴重なパピルスが酸化や、劣化によって、その修復を我が国の和紙を裏打ちして修復しているという。

 

 古い我が国の絵画、多くの執筆された古文書等についても、和紙が大いに役立っているという。修復技術もさることながら、素材に和紙や膠が使われていることのメリットは他の素材では永続性に問題があるのであろう。

 

 一方、ペーパーレスとして登場した情報の電子化は、複写できるコピーマシンの登場(電子化された文字データがコピーマシンで限りなく複写できる機能)と一致していて、ペーパーレスの必要性が広く叫ばれたのであったが、世の中はそうは動かなかった。むしろ複写機による紙の使用量が膨大化を続けているのである。このことは、いち早くコピー機メーカーが手掛け、その増益を見れば分かる。情報の電子化それ自身は良いことであっても、印字されなければ逆に利用価値が落ちるという不思議な現象となってきた。このコピー紙は、特段保存期間が長いものではない。明示できれば良いのであって、その意味では高価な和紙を使う必要がないのである。

 

 薄い和紙で書かれている古い戸籍謄本などを見ることができるが、数十年たっていても、文字が読めなくなったということはない。それなりに機能してきたのである。ほとんどは手書きであり、カーボン紙による複写もあるが、50年以上経過しても健在であることは和紙の優れた特徴であろう。いずれ和紙の用途が広がることを期待している。


小雪が舞う関東

2017年02月11日 00時00分01秒 | 緑陰随想

  冬将軍到来とこのところの空模様は変化が激しい。三寒四温の前触れか、大寒が過ぎ、本格的な厳冬になるのか、はたまた、地球温暖化で春の到来が早まるのか、天気予報もめまぐるしく変わるために、予報官の苦しい説明に少々、当惑気味である。昨日はみぞれとなったが、降雪には至らず、安堵していた。今朝は昨日の発表では晴天となるも、午後からの天候の変化は雪雲に覆われ、粉雪が舞う気温が低い状態が続いた。南岸低気圧が近づいているようである。

 

 ここ数日は注意するよう、気を付けてはいるが、週末にかけて九州の女房の実家へ行くことにしている。都内の大雪には交通手段を替えれば飛行場までは問題なく行けるが、心配事は九州の降雪状況である。九州も年に何度かは降雪があるが、レンタカーは恐らくスタッドレスタイヤを履いていないであろうし、チェーンを準備してもらうようお願いするつもりでいる。雪道となると除雪もままならない。現在、九州地元の知人に連絡を取り、降雪状況や道路状況等を聞いているところである。

 

 実家の近辺の道路は整備されているが、雪道の運転に誰しも慣れているとはいいがたい。スタッドレスタイヤを装着している車は少ないし、ほとんどは夏タイヤにチェーンである。高齢ドライバーも多く、チェーンをつけて走る車も少ない。夏タイヤのまま走る車が予想され、雪道で立ち往生が起これば、渋滞が発生するし、交通マヒにつながる。降雪がないことを祈るだけである。

 

 関東でも降雪が首都圏に及べば、高速走路は閉鎖されるし、物流が途絶えるため、生活に必要な食料等が供給されなければ、パニックとなる。その意味では、降雪経験がない地域であれば、いたるところに流通が途絶える。その危険性を持っているということであり、地震や火災などと同様に、降雪も被害を引き起こす原因となりうる。日頃の生活の便利さは、当たり前であり、今回は異常として、自然現象を割り切ることができない。万が一に備える備蓄も必要なのである。

 

 雪国で生活した経験があれば、その対応や対策は予測もでき、準備もできるが、経験がないと何から手をつければよいのかさえも分からない。避けなければならないのは、自分には関係ないこととして、関与しないように立ち振る舞い、逃げることである。そうあってはならないとわかっているが、他の理屈をつけて正当化する。次の答えがわかっていて、つまり、自分には自然現象に対する対応能力はなく、自らが当事者であることもわかっていることなのである。