京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

岩村城・本丸

2011-02-15 15:29:49 | 石垣のある風景(大原以外の!)
今まで、数回にわたって投稿してきた
岐阜県・恵那の岩村城の石垣・・・

前回までの投稿   ①復元太鼓櫓~登城口
(努力の結晶です) ②登城口~一の門~土岐門
              ③土岐門~畳橋・大手門
              ④大手門~二の丸

なぜ、こんなに、しつこくしつこく?投稿するかと言いますと
それは、一言では言い尽くせないほどの石垣の量だからです。

↓というわけで
段々ややこしくなってきましたので
イラストマップを見ながら、説明していきます



本日の投稿は、
マップの右上部分の道から始めます。

マップとは、若干方向が違うので、見にくいのですが
二の丸の菱櫓(右側)



その奥に、本丸の雄姿が見えてまいります。

岩村城を象徴する風景のひとつ
本丸・六段の石垣


(本丸北東面)

段々畑のようになっているので
ひな壇状であるとも、犬走りとも表現されています。

ご覧のとおり、成形された石が整然と積まれている姿からして
それほど、歴史は深くない・・・

「実は、先行して築かれた最上段の石垣が一気に立ち上げられ
 その後前面に低い石垣を五段にわたって積み上げていた」
のだそうです。
 (↑ 恵那市発行のパンフレット参照 ↓)

つまり、最初に作られた高石垣に崩落の恐れが出てきたため
それを補強するために、ひな壇状の石垣が築かれた、わけなのだそうです。

「ひな壇状に築かれた石垣は長方形の石材を交互に組み合わせた落し積み技法で、
 江戸時代後半に築かれたもの」と考えられています。




本丸には、六段の石垣の横の階段を上がって行きますが
ジグザグのつづら折、さらには、直角に曲がる虎口を越えたり・・・
だんだん、方向感覚がおかしくなってきて
本丸内の配置の把握に苦労しました。
(後から写真を見ても、あれと思う点が多く
 だから余計に投稿に時間がかかったんですよ



階段の反対側には、東曲輪という広い敷地もありました。


(東曲輪から見た、本丸への登城道)



ちょっと分かりにくいけど
↑ 写真の中央に、埋め門の土台の石垣2本が見えています。

本丸東側の長局(一段下の帯曲輪)に入るための埋め門でした。

そして
その埋め門を過ぎたら
長局から本丸に入る虎口になっていました。



しつこいほどのジグザグ
安土桃山時代の城郭建築の特徴であったようです。

さて
この虎口を過ぎたら
本丸の敷地が広がっているのですが
だだ広い広場になっているだけでしたので
これといった写真がありません
(一応載せといたら良かったんですがね・・・)

もともと
本丸には、周りの石垣部分に櫓が構えてあるだけで
内部には、これといった施設は置かれていなかったようです。

(山麓の、大手門3重櫓が天守的な役割を果たしていたようです。)

↓ 本丸南西部に突き出す形の出丸



本丸を守るための重要な曲輪だったそうです。



マップを眺めても
出丸が重要な役割を果たしたことが
なんとなくわかります。

さて
先ほどの ↑ 出丸の写真は、本丸の西端から撮ったもの

写真の足元部分・・・
この右側延長部分(本丸の西側)には、圧巻の高石垣があったのですが
知識不足で見逃してしまって・・・(たぶん見たけど、覚えてない)
不覚でした

*いつもそうなのですが
 お城の石垣って、登城道表口よりも、反対側の石垣の方が立派です。
 (直に狙われる部分だから、当たり前と言えば当たり前ですが)
 ただ、人もあまり行かないから、寂しい感じのする場所だし
 つい見逃してしまいます

本丸の大きな見どころの一つですから
見逃したのは、かな~りショックでしたが

もう一つの大きな見どころ
石垣ファンにはたまらない所がこちらでした


本丸裏口の埋門



搦手門と言うそうですが
なるほど手が絡まりそうなほど?(そういう意味違う?
複雑な構造の門になっていました。



手前右側の石垣には二重の納戸櫓が建っていて
そこから、左側の石垣にまたがって、埋め門が建てられていたようです。

さらには、奥にまたがる長い多門があって、2重3重の監視になっていました。


(右側・納戸櫓が建っていました)



岩村城で一、二を争う、美しい扇の勾配

切り込みハギという石積み法
享保3年(1718年)の地震の後に補修されたものと言われています。



そして
埋め門、左側の石垣・・・



こちらは、粗野な印象ですが

野面積みという、比較的初期の石積み法・・・
土岐坂の石垣に次いで古い遺構だそうです。


(埋め門左側の延長部分・二の丸に接していました)



なんとなく気が付いたんですが
この左側の石垣、手前の角に比べて
右側奥の角は、整った積み方がされていて
補修の後がうかがえます。


(中央・埋め門奥の多門の土台?)

こちらが、打ち込みハギ(自然石を石垣の外側だけ平らにする)の石積み法なのかな?
(切り込みハギとの区別がよく分からないのですが)

この埋め門は、一度に三つの石積み法を見ることのできる
貴重な建築物で
時代の変遷を如実に見ることができます。


(埋め門・後ろから見たところ)



緩やかな階段が続いています。

階段を上がったところは、まだ本丸の一段低い部分で
そこから、さらに階段を上って、本丸に上がります。


(写真を撮ってる場所が、埋め門を上がった部分:本丸の一段下)

この石垣の上が本丸です。



岩村城本丸の石垣は、複雑・巧妙・多量極まっており
たくさん写真を撮ったつもりでしたが
撮りきれない部分も多く
後から、内部構造の把握をしようと思っても
確認作業に難攻極まり
大変でした~~~
(だから、投稿に半年もかかってしまったのです

岩村城の堅固さは、天下に名だたるもので
武田軍・織田軍が攻め込んできた際も、
完璧な防御機能を果たしていたと言います。

では、何故、信長の叔母である女城主が戦いに敗れてしまったかと言えば・・・

籠城戦における基本的戦力の弱さ
同盟国からの援助が受けられなかったこと

結局は、遠山氏が
巨大勢力の狭間のなかで翻弄されてしまった・・・

中国地方で同じような状況におかれていた毛利氏が
毛利元就の台頭で大大名にのし上がったように、
遠山氏のなかで、有力な武将が出現するチャンスに恵まれなかったことが
何よりの敗因であったのかもしれません。



戦国時代、周囲の新旧勢力のめまぐるしい動きに
対応を迫られた遠山氏
武田氏とも旧来からの関係を保ちつつも、
遠山景任のもとに、
経済的つながりのあった織田信長の叔母である女性(おつやの方)が嫁ぎました。
景任は病弱であり、当主としては微力、
織田との姻戚関係を保つことが、対外的に重要なことでした。

そんな中、武田信玄と織田氏との同盟が破られ、
(武田と結んだ比叡山・足利義昭・浅井など、織田に攻め込まれましたね)
岩村城も、秋山虎繁を総大将とする武田勢に攻め込まれました。
当主景任が早世したのちは、おつやの方が女城主として、籠城戦にもつれ込みました。

兵糧・矢玉がじわじわ減っていく中で、頼みにしていた織田軍は
西日本での反乱をかかえていた為、援助が得られませんでした。

頑丈な岩村城も、武田勢の粘り強いゲリラ戦?に手を焼き、徐々に兵力を失っていきます。

どういった経緯であったかはわかりませんが
結局は、おつやの方を敵陣総大将の秋山氏の室とすることを条件に
無血開城したと伝えられています。

その後、ことの経緯を聞いた信長は激怒
(景任の養子に送り込んだ、信長の五男御坊丸を武田の人質に取られたため)
長篠の合戦で武田が大敗した後
ただちに、嫡男信忠を総大将とした大軍を送って、岩村城を包囲しました。

半年の籠城戦ののち、圧倒的戦力の差に岩村城は倒れてしまいました。
城主の秋山虎繁と夫人(おつやの方)は処刑
信長の憎しみは深く、最も過酷な刑である逆さ磔で処されたと言います。



何とも言えない叙情感ただよう岩村城ですが
江戸以降は、知藩としての存在感をアピールしていきました。

昌平坂学問所の佐藤一斎や、大学頭の林述斎(父は岩村藩主)
悪名名高いところでいえば
蛮社の獄の遠因を作った鳥居耀蔵(述斎の息子)
鳥居と敵対した、遠山の金さん(景元)は明知遠山氏の出身です。

日本の近代化に、少なからず関わってきた岩村藩
大人しめだけど、なんかやってそうな感じが
結構好きです。

岩村藩には、知新館という勉学所があり、学問が奨励されていましたが
これまでの歴史と関わりが少なからずあったのか否か・・・

御禁制の世の中では語られることはなかっただろうけど
謎めいていて、もっと知りたいような
奥深さがあります。

岩村には、何回も通いたいなと思っています。