NHKスペシャル「水爆実験60年目の真実~ ヒロシマが迫る `埋もれた被ばく´ ~」
(2014年8月6日放送)
東西冷戦が激しさを増していた1950年代に、米ソは競って水爆実験を行っていた。
1954年3月1日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行う。
これは広島に投下された原爆の1000倍もの威力があるものだ。
水爆実験は2か月半の間に6回行われた。
アメリカはソ連との核開発競争で優位に立とうと、不利になるものはことごとく排除した。
周辺には数多くの日本漁船が操業していたが、日本政府は被ばくを認めようとしなかった。
大量の死の灰(放射性降下物)を浴びたのは、「第五福竜丸」だけではなかったのだ。
なぜ60年もの間、その事実が封印されてきたのか。そしてそれがどのようにして
判明したのか。
1989年に高校教師だった山下正寿が、ビキニ周辺で操業していた船が
高知県土佐清水の港近くに捨てられているという話を耳にする。
生徒たちと放射線量を測ると、30年以上が経っているにも関わらず、
毎時1・5マイクロシーベルト(自然界の37倍)の値を示した。
ここから山下は、当時の漁船員と被ばくとの関係を調査し始める。
204人の実態調査を行うと、ガンや心臓病などを患い全体の3割にあたる
61人が亡くなっていた。中には40歳で突然亡くなった人もいた。
そして一般には1万3千人に1人の割合で発症する白血病で、
3人もの人が亡くなっていたのだ。
漁船員たちはビキニから帰ってすぐに放射線測定を受け、測定器が激しく
鳴ったのを覚えていた。
しかし国からは何も知らされず、何の対応もなかった。
山下は厚生省に情報公開を求めたが、肝心の人体への放射線量は記されていなかった。
再度説明を求めても、人体の記録は無いの一点張りだった。
水爆実験の翌年、国はアメリカから200万ドルの見舞金を受け取り、この問題を終わらせた。
そして「第五福竜丸」以外の被ばくは無いものとされた。
室戸の漁船員やその家族は放射能の恐怖は感じていたものの、漁業で生計を立てている
漁船員たちにとって、被ばくは長い間禁句とされ、被ばくの事実は60年にわたって
闇に葬られた。
これに風穴を明けたのは、山下と広島の科学者たちである。
2013年4月、広島でビキニ水爆実験の被ばくを明らかにするプロジェクトを立ち上げた。
集まったのは、被ばく者たちの体に残る影響を長年調べてきた専門家たちである。
科学者たちは、当時の被ばく量が国際基準の100ミリシーベルトを超えるかに注目した。
(100ミリシーンベルトを超えると、健康に影響を及ぼすとされている)
その中の一人である星正治は、歯に注目した。歯には被ばくの痕跡が残っているからだ。
これを測れば、当時の放射線をどれくらい浴びたかがわかる。
ところが60年という歳月が経ち、亡くなった人や歯を全部ぬいてしまった人もいた。
たまたま9日前に抜歯したという人の放射線量を測ったところ、驚くべき結果が出た。
この方は水爆実験現場から1300キロメートル離れた海域にいたのだが、歯を分析すると
414ミリシーベルトの放射線量が検出された。
そこから、これまでの自然放射線45ミリシーベルトと医療被ばく線量
50ミリシーベルトを引き319ミリシーベルトだったことがわかった。
これは国際基準の100ミリシーベルトを遥かに超えている。
(1ミリシーベルトは1000マイクロシーベルトなので、319000マイクロシーベルト)
国が60年間認めてこなかった漁船員の被ばくが、初めて明らかになった。
319ミリシーベルトは、広島の爆心地から1・6キロ離れた場所での放射線量と
ほぼ同じである。
広島では被曝手帳が交付され、医療費は無料だが、当時の漁船員たちは被ばくした事実を
知らされることなく、医療費や見舞金を支払われることなく、お詫びの言葉もお見舞いの言葉も
聞く事こともなく、病気や体調不良を抱えながら多くの方々が亡くなっていたのだ。
田中公夫は、血液学の立場から被曝の実態に迫ろうとした。
亡くなった方々の無念さを晴らそうと、高知・愛媛・宮城などから18人の血液が集まり
染色体の異常率から被ばく線量を導き出そうとした。
2014年2月、アメリカでも新たな事実が見つかった。
実験から数十年が経ち公開された極秘文書の中に、これまで存在しないとされてきた
漁船員たちの検査結果があったのだ。これは厚生省から外務省を通じて
アメリカ国防省に渡ったものだ。
被ばくした船のリスト、魚と船体が浴びた放射線量の他に、漁船員の血便や歯茎からの
出血の記載、そして人体の被ばく量が記されていた。
これは毎時2・5マイクロシーベルトになるという。
14隻の被ばくの事実を知りながらもアメリカは水爆実験を続けたことになる。
アメリカは、被ばくによる人体への影響に目を向けることはなかったのか。
1953年、ソ連が水爆実験に成功したことで、アメリカはあせりを感じていた。
核兵器の開発に不可欠な核実験が中断されることを恐れ、実験の邪魔になるものは
全て極秘とし、日本の漁船員の被ばくも極秘とされた。 2につづく
(敬称略)
※長崎被爆者代表 城臺美彌子さんのスピーチを、ブックマークに入れました。
私のブログの一番右下にありますので、是非、クリックして下さい。
残念ながら削除されました。(2016年2月12日 記)
(2014年8月6日放送)
東西冷戦が激しさを増していた1950年代に、米ソは競って水爆実験を行っていた。
1954年3月1日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行う。
これは広島に投下された原爆の1000倍もの威力があるものだ。
水爆実験は2か月半の間に6回行われた。
アメリカはソ連との核開発競争で優位に立とうと、不利になるものはことごとく排除した。
周辺には数多くの日本漁船が操業していたが、日本政府は被ばくを認めようとしなかった。
大量の死の灰(放射性降下物)を浴びたのは、「第五福竜丸」だけではなかったのだ。
なぜ60年もの間、その事実が封印されてきたのか。そしてそれがどのようにして
判明したのか。
1989年に高校教師だった山下正寿が、ビキニ周辺で操業していた船が
高知県土佐清水の港近くに捨てられているという話を耳にする。
生徒たちと放射線量を測ると、30年以上が経っているにも関わらず、
毎時1・5マイクロシーベルト(自然界の37倍)の値を示した。
ここから山下は、当時の漁船員と被ばくとの関係を調査し始める。
204人の実態調査を行うと、ガンや心臓病などを患い全体の3割にあたる
61人が亡くなっていた。中には40歳で突然亡くなった人もいた。
そして一般には1万3千人に1人の割合で発症する白血病で、
3人もの人が亡くなっていたのだ。
漁船員たちはビキニから帰ってすぐに放射線測定を受け、測定器が激しく
鳴ったのを覚えていた。
しかし国からは何も知らされず、何の対応もなかった。
山下は厚生省に情報公開を求めたが、肝心の人体への放射線量は記されていなかった。
再度説明を求めても、人体の記録は無いの一点張りだった。
水爆実験の翌年、国はアメリカから200万ドルの見舞金を受け取り、この問題を終わらせた。
そして「第五福竜丸」以外の被ばくは無いものとされた。
室戸の漁船員やその家族は放射能の恐怖は感じていたものの、漁業で生計を立てている
漁船員たちにとって、被ばくは長い間禁句とされ、被ばくの事実は60年にわたって
闇に葬られた。
これに風穴を明けたのは、山下と広島の科学者たちである。
2013年4月、広島でビキニ水爆実験の被ばくを明らかにするプロジェクトを立ち上げた。
集まったのは、被ばく者たちの体に残る影響を長年調べてきた専門家たちである。
科学者たちは、当時の被ばく量が国際基準の100ミリシーベルトを超えるかに注目した。
(100ミリシーンベルトを超えると、健康に影響を及ぼすとされている)
その中の一人である星正治は、歯に注目した。歯には被ばくの痕跡が残っているからだ。
これを測れば、当時の放射線をどれくらい浴びたかがわかる。
ところが60年という歳月が経ち、亡くなった人や歯を全部ぬいてしまった人もいた。
たまたま9日前に抜歯したという人の放射線量を測ったところ、驚くべき結果が出た。
この方は水爆実験現場から1300キロメートル離れた海域にいたのだが、歯を分析すると
414ミリシーベルトの放射線量が検出された。
そこから、これまでの自然放射線45ミリシーベルトと医療被ばく線量
50ミリシーベルトを引き319ミリシーベルトだったことがわかった。
これは国際基準の100ミリシーベルトを遥かに超えている。
(1ミリシーベルトは1000マイクロシーベルトなので、319000マイクロシーベルト)
国が60年間認めてこなかった漁船員の被ばくが、初めて明らかになった。
319ミリシーベルトは、広島の爆心地から1・6キロ離れた場所での放射線量と
ほぼ同じである。
広島では被曝手帳が交付され、医療費は無料だが、当時の漁船員たちは被ばくした事実を
知らされることなく、医療費や見舞金を支払われることなく、お詫びの言葉もお見舞いの言葉も
聞く事こともなく、病気や体調不良を抱えながら多くの方々が亡くなっていたのだ。
田中公夫は、血液学の立場から被曝の実態に迫ろうとした。
亡くなった方々の無念さを晴らそうと、高知・愛媛・宮城などから18人の血液が集まり
染色体の異常率から被ばく線量を導き出そうとした。
2014年2月、アメリカでも新たな事実が見つかった。
実験から数十年が経ち公開された極秘文書の中に、これまで存在しないとされてきた
漁船員たちの検査結果があったのだ。これは厚生省から外務省を通じて
アメリカ国防省に渡ったものだ。
被ばくした船のリスト、魚と船体が浴びた放射線量の他に、漁船員の血便や歯茎からの
出血の記載、そして人体の被ばく量が記されていた。
これは毎時2・5マイクロシーベルトになるという。
14隻の被ばくの事実を知りながらもアメリカは水爆実験を続けたことになる。
アメリカは、被ばくによる人体への影響に目を向けることはなかったのか。
1953年、ソ連が水爆実験に成功したことで、アメリカはあせりを感じていた。
核兵器の開発に不可欠な核実験が中断されることを恐れ、実験の邪魔になるものは
全て極秘とし、日本の漁船員の被ばくも極秘とされた。 2につづく
(敬称略)
※長崎被爆者代表 城臺美彌子さんのスピーチを、ブックマークに入れました。
私のブログの一番右下にありますので、是非、クリックして下さい。
残念ながら削除されました。(2016年2月12日 記)