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巨大な海食洞・鬼ケ城



鬼ケ城


二日目、ホテル出発は8:30。ホテルの朝食はバイキング。美味しかった。2時間ほどバスに揺られて着いたのは鬼ケ城。行程表には紀州の名勝とあった。だが、前持っての知識は全くのゼロ。行ってびっくり、こんなところがあったとは・・・。地質的に興味津々。巨大な岩の洞窟である。最初砂岩かと思ったが、説明板には石英粗面岩とあった。火山岩の一種・流紋岩のことのようだ。その巨大な岩が、波によって削られて洞窟状になり、それが急激に隆起しているのだ。6段の階段状と言うから、6回の巨大な地震によって隆起したのだろう。どこにも書いてはいなかったが、過去の南海トラフ地震による痕跡なのではないのだろうか。個人的には、今後も注目しておきたいところだ。
尚、鬼ケ城は、1935年(昭和10年)に国の天然記念物指定、日本百景に選定され、2004年7月には、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されている。
鬼ケ城という名は、桓武天皇(737~806)の頃、鬼と恐れられていた海賊・多娥丸(たがまる)を 坂上田村麻呂が征伐したという伝説が元になっているようだ。看板にある獅子巌もじっくり見たかったが、そこは融通のきかないツアー。なので、車窓から見ただけ。残念。




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鳥居が印象的だった伊勢神宮







伊勢神宮


3月と4月の田植えが終わり、ご褒美としてちょっと旅行。といっても団体ツアー。行先は、行ったことがない三重県と和歌山県。そう、伊勢神宮、那智大社、那智の滝、熊野古道の他、高野山などをめぐる2泊3日の旅行だ。
一日目は朝早かった。宮崎空港7:35発。伊丹空港まで約1時間。そこから高速。京都を横に見ながら、ちょうどお昼に伊勢神宮へ。鳥居が飾り気が無くシンプルでとても印象に残った。「スモール・イズ・ビューティフル」ということか。20年ごとに行われる式年遷宮後に、内宮・外宮正殿の棟持柱が鳥居になっていくようだ。最初に迎えてくれた宇治橋の鳥居は、入口側が旧・外宮正殿の棟持柱、神域側が旧・内宮正殿の棟持柱でつくられたものだ。そしてその後は、入口側の鳥居は桑名市「七里の渡し場後」の鳥居へ、神域側の鳥居は亀山市「関宿」の鳥居へとなっていくそうだ。
式年遷宮は、内宮や外宮など社殿を20年ごとに作り替える一大イベントだ。そのことによって宮大工や神職の技術なども伝承されるようだ。そういう意味では、うなずける行事だ。その他、記憶に残ったのは、巨杉。どれも写真に撮りたいと思うほどの立派な杉だった。現代の使い捨て文化は見習うべきかもしれない。
お土産やさんがずらりと並ぶ「おかげ横丁」は、行き交う人でごった返していたが、終活の身にあっては、ブラブラするだけ。ただ、店頭の生姜砂糖が目についたので、一袋買い求め昔味を楽しんだ。


二見ヶ浦の夫婦岩


中央の小島はミキモト真珠島

伊勢神宮の後は、二見ヶ浦の夫婦岩へ。大小の岩にしめ縄が懸けてあるあの場所だ。天気がよければ、見る角度によっては、しめ縄の先に富士山が見えるというのだが、風強く、波高く、その上遠くは霞んでいたので残念。それでも負けじと目をこらしてみたがやはり見えず。なので早々にバスに引き上げた。
後は鳥羽のホテルへ。ここのロケーションは最高。眼下には悠々と舞うトビの姿や行き交う船が見えた。その向こうには、日本の真珠産業の中心・ミキモト真珠島が新緑の照葉樹の中にあった。そして目を遠くに移せば、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった神島。どれもが真珠に劣らずの絶景だっt。
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海の向こうに荘厳な利尻富士

雲間に姿を見せた利尻富士


納沙布岬に立つ灯台


嵐の中に立つ間宮林蔵像(宗谷岬)


大鵬も降り立った稚内北防波堤

昨年晩秋、北海道を旅行する機会があった。と言っても、ほぼ弾丸ツアーに近いパックのバスツアー。寒いと思い出かけたが、思ったほどではなかった。あれから、約2ヶ月。宮崎に帰ると、旅行時とは打って変わって厳しい雪降る様子などがニュースで流れ続けた。
脳裏に焼き付いているのは、納沙布岬の草原に建つ白黒に塗り分けられた灯台。あるいは嵐の中だった宗谷岬とそこに立つ間宮林蔵像や、昭和の大横綱となった大鵬が、樺太からの帰還途上に上陸した稚内北防波堤。そして最も印象に残っているのは、サロベツ原野とそこから見た利尻富士。頂上付近は、灰色の雲に覆われてはいたが、海の向こうに浮かぶ姿は、荘厳そのもの。原野を走る車窓から、何度も何度も振り返った。だが、窓越しの撮影ゆえに荘厳さ捉えきれず。サロベツ、また行きたし。


ルイス・C・ティファニーのステンドグラス


似鳥美術館で買い求めた画集

ところで、パックツアーの最終日は、札幌から小樽へのオプションツアー。小樽への道路沿いは、よく整備されていた。小樽の売りは、運河とガラス工芸と聞いていたが、運河はまあまあ。ガラス工芸は綺麗だが趣味に合わずほとんどパス。なので、歩き歩きで、行き着いたところが「似鳥美術館」。元々は、旧北海道拓殖銀行小樽支店だった建物。あの「蟹工船」を書いた小林多喜二も働いていたことがあるのだという。玄関を入るとすぐに聞いてみた。「あのニトリですか?」 すると「ええそうです。」との応え。バスの中ではガイドも添乗員も、美術館のことは何も紹介しなかったが、ここは凄かった!入るとすぐに、ルイス・C・ティファニーの代表的教会ステンドグラス。そして上に上がれば、日本美術から西洋美術までずらり。誰でも知っていそうな作家達の作品でいっぱいだった。見終えて一冊画集を買った。600円、とても安かった。尚、ここで販売されていたガラスはとても良かった。だが、もう断捨離の身。記憶にだけ収めた。機会があれば行くこと絶対おすすめ。
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甑島(里港周辺〜串木野新港)


3日目の夕食は、地元の居酒屋さん。雲間に時折月が顔を出す天気。傘を持って歩いて出掛けた。観光案内所からは、地元の居酒屋さんなどは地元の人が利用するので、予約しておいた方がいいとアドバイスをいただいていた。集団ともなればなおさらだ。一応、昼間に電話はしてあった。だが、やはりまずかった。大人数にすぐには対応できないのだ。私のほか数人は、最も簡単なはずの刺身定食を頼んだのだが、食事できたのは約1時間後だった。誰が悪いと言うことはないだろう。2、3人で行くならすぐにできたのだろうが、大人数ではやはり無理があったようだ。だが、とにかく食べることができたということで、良としたい。

4日目。今日こそは帰れるだろう。ホテルの朝食は言うことなし。美味しかった。出港は12時50分だ。それまで時間たっぷりある。ということで、またまた里港周辺散歩。歩けばやはり何か見つかる。すぐそばの公園に「里の風」と題する石彫があった。里のシンボルと言ってもよさそうだが、観光パンフ等には載ってないので足を運ぶ人は少ないようだ。見えていても見てないということになりそうだ。題名のごとく、風を感じさせるいい石彫なのにちょっと残念。じっくり見た後、公園の階段を降りた。その時、ちょっといい発見をした。目に止まったのは石垣の石にある紋様。地衣類がきれいな紋様を描いていたのだ。まるで着物の柄そのもの。自然はやはりすごい。ところで、地衣類をコケ類と書きそうになった。調べてみると、やはり違う。コケ類は植物だが、地衣類は植物でなく、菌類なのだそうだ。地衣類は自分では光合成ができないので、藻類と共生して暮らしているらしい。「似て非なるものここにあり」といったところだ。私たちの足元には不思議がいっぱいだ。





さて、時間もそろそろ近づいてきた。乗船名簿を提出し、乗船券をいただいた。待合室も人が増えてきた。今度こそ出港だ。帰路では、左舷窓側のスペースに陣取った。左舷側に双子島が見えるはずだったので、どうしても左舷窓側を確保したかった。大正6年から2年間だけ、銅の採掘も行われた島だが、時代が下ると昭和33年に、鉱床ではウラン・チタン酸化物のブランネル石による放射能異常が確認されている。また、露出している岩から領家帯に属する島とも考えられているのだ。見逃す手はない。近島に続き、野島、そして双子島が姿を見せた。名前のように真ん中から二つに分かれている島だった。そしてその向こうに白く輝く沖ノ島が見えた。ここは、釣りの絶好のポイントのようだ。





というようなことで、写真を撮れるだけ撮って、あとは甲板へ上がった。往路に見たように九州本土側には川内原発や川内火力が見えていた。そして、甑島はフェリーの航跡の先に遠ざかりつつあった。さようなら甑島だ。しばらく見ていると、甑島の方に真っ黒い雲が広がり始め、フェリーをどんどん追いかけてきた。とうとう串木野新港に着く頃には雨粒が落ち始め、下船時は強い雨模様となった。なので、ここで参加者とはお別れだ。と、ここで突然思い出した。会の旗をリュックに入れたままだった。絶景ポイントで、旗を持って集合写真を撮ろうと思っていたのだが、1枚も撮っていなかった。そのため、雨を避けて待合所の軒下に全員集合。最悪ポイントでの写真撮影となった。




帰りに、川内駅まで熊本からの参加者を送り、1階の「駅市 薩摩川内」で甑島産を念頭にお土産を買い足し、わが家を目指した。途中、県境を超える頃には晴れ間が覗き始め、家に帰り着いた時には星空が広がっていた。九州の中でも、九州山地に囲まれた宮崎平野の天気は他所とは違う。冬には晴れ間が多く、雪は全くと言っていいほど降らない。なので、甑島の悪天候も、なかなかいい経験だった。なお、甑島で買った「木立甘酢」(キダチアロエで作られたお酢)は、とても美味しかった。
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甑島(里港のヨットや魚たちが描かれた防波堤)


微かな不安はあったが、串木野新港へのフェリーは出港すると思っていた。なのに、港からは欠航のアナウンス。ほぼ同じ時刻に、旅行会社からも欠航の知らせと宿泊所を探してくださいの電話。
さて、どうする。ホテルに電話しても、空きがないとのこと。困った。待合所に戻り、案内所で何か方法はないか聞いてみた。言うには、漁船で帰る方法があるという。他所の人も含めて、1人数千円かかるようだった。海は次第に荒れてくるので、早く決めてくれと言う。そうこうするうち、串木野側からのフェリーが里港に着いた。修学旅行の団体も降りてきた。並ぶ行列に、船は揺れたのか尋ねてみた。大きく揺れましたとの応え。続いて降りてきた年配者にも尋ねてみた。揺れには大丈夫と思っていたが、吐きそうになったとの応え。結構大きなフェリーなのに、相当揺れたようだ・・・。
そういうことも含め、参加者で協議した。漁船で帰りたいという者もいた。私は、一度大きな揺れを経験してもいいと思っていた。協議は、一度は漁船に傾きかけた。しかし、怖いとの声もあり、最終的にはもう一泊することに決めた。成り行きを見守っていた案内所の方などに、漁船では帰らないと告げた。だが、問題は宿泊先だ。ホテルに引き返し、フロンテであれこれ尋ねると、うまい具合にキャンセルが出たようだった。合い部屋だが、3部屋に別れるなら全員宿泊可能という。ということで即決、無事、宿確保となった。
それぞれの部屋へ分かれ、あとは夕食まで自由時間となった。ある者は岸壁で魚釣りをしたり、あるいはスケッチをしたり。また、ある者たちは、部屋でおしゃべりやお風呂等気ままに過ごした。私は、気分直しに里港周辺を一人歩きに出てみた。港越しに見える防波堤の絵が気になっていたのだ。青く塗られ、そこにわき上がる雲やヨット、フェリー、貨物船、クジラ、灯台などが描かれ、見る場所によっては、青い海そのものに間違えそうば所もあったのだ。ただ、その日は風が強かった。なので、私が行ったのは、フェリー発着側の防波堤。案内所駐車場の横にある防波堤だ。そこには、青い海の色をバックに、サンゴや海藻、アジ、タコ、アジ、ヒトデ、サメなどたくさんの海の生き物が描かれていた。竜宮城があれば、きっとこうなのだろう。楽しい絵がいっぱいだった。
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甑島(市の浦海岸、亀城、里の武家屋敷跡)



3日目ともなると、地理も少しは分かるようになった。主な観光地は、前日までに済ませてある。あとは、里町周辺だけである。昼食の後は、串木野新港に向けてフェリーに乗り込むだけだ。

雲は出ていたが、時折日がさし天気はまずまずだった。最初に向かったのが、北端に近い市の浦海岸。里町からひと山越えればすぐの所だ。緩やかな湾には、きれいな砂浜が広がり、岬の先には島々が浮かんでいた。久しぶりの穏やかな天気に浮かれ、砂浜でしばし遊んだ。だが、この海岸は歴史を秘めた海岸でもあった。ここに来る途中、「七人合頭・八人合頭」という説明板があった。甑島先住者と後に島を支配していく小川氏との合戦跡だ。小川李能(すえよし)は、承久の変(1221年)で鎌倉方ににつき、宇治川の戦いで手柄をたて、その功労として甑島などを領地として下賜され、その子李直(すえなお)が、上陸したのが市の浦海岸だったのだ。というようなことで、この日は出航するまで、少しディープな歴史散策となった。




次に案内されたのが、「史跡・小川の森」だ。小川氏歴代当主の墓や武士団の墓とともに、それを祀る菩提寺があった所だ。荒れてはいたが、地元では今でも「寺の後」とか「門の口」と呼ぶという。そして、里町が見下ろせる亀城跡へ。小川氏が13代、370年に渡って甑島を治めた本拠地だ。今は公園になっている。階段を上がった正面に、ずらりと名前が刻まれた慰霊碑があった。その中に塩田某という名前も。小川氏はのちに、上甑島は塩田備前守にあずけ、下甑島手打に住まいを移したと説明板にあった。手打の武家屋敷跡が、里の武家屋敷跡に劣らず美しいのはそのためだろう。
そして最後が、普通なら一番最初に訪れるだろう「里の武家屋敷跡」だ。整然と積み上げられた石垣とその上の緑の垣根が美しく、歩いてみたかった場所だ。7、8人で散策した。と、その一角に「石敢當」を見つけた。読みは、「いしがんとう、せきがんとう、せっかんとう」などだ。道路がTの字に突き当たった所などに立てられた石碑や石標だ。魔よけのためという。沖縄で大きなものを見たことがある。わが佐土原にも、島津の支藩だったために残されている。佐土原のものを「東の石敢當」とすれば、ここにあるのは「西の石敢當」とも言える。だが、わが地の旧城下町は、物語こそ掃いて捨てるほどだが、整備が遅れて廃れていくばかりだ。
そうこうしているうちに出港の時間が近づいた。しかし、その時港の方から聞こえてきたのは、「今日の高速船は海が荒れているため出港しません」のアナウンス。だが、私たちが乗るのは川内港行きの高速船ではなく、串木野新港行きの普通フェリーだ。出港するはずだ。はたして・・・。
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甑島(里町の空間放射線測定局)


甑島に行く前、ネットや観光パンフなどでいろいろ情報を集めた。また観光案内所にも、電話で島のことをいろいろ尋ねた。
案内所曰く、「島にはコンビニはありません。食事処も島内の人が利用するので、事前に予約しておいた方がいいですよ。」と教えてくれた。団体だと、飛び込みでの食事は難しそうだった。それに、詳細情報を集め始めたのは、東京オリンピックの頃。ちょうど、九州でも新型コロナが増えていて、県を超えての移動は自粛が呼びかけられていた頃だ。そのためか、紹介していただいた島在住の方も、電話先でちょっと来て欲しくない感じ・・・。島は高齢者が多く、病院関係も限られているためのようだった。そのことを頭に入れた上で、計画を練った。外国のコロナ感染状況などを見ながら、国内のデルタ株も急速に下火になると判断し、11月初頭の旅行を企画した。それを元に、旅行会社が全面協力。無理かと思われた食事の手配も無事やってくれた。さすが、旅行会社だ。
ということで、2日目は地元食事処で、魚料理中心の夕食ということになっていた。ところが、外は急に風雨が強まったり、雲間から月がのぞいたりの不安定な天気。そのため、車で行くか歩いていくかで議論白昼となった。参加者は日頃から議論が好きな面々だ。結局、歩きたくない人はレンタカーで送ってもらい、あとの人は歩いて向かうことになった。私は、当然歩き。広い道から高いブロック塀に囲まれた狭い道を黙々と歩いた。歩いてみれば何ということはない距離だった。着いたところは、魚料理中心の食事処。そこの自慢は、その日漁れたキビナゴ。うん、うまかった。他の刺身もうまかった。話も弾んだ。だが、そのせいか、あとの料理を覚えていない。写真も撮っていない。何たる不覚!
ホテルへの帰りも歩いた。行きより帰りの方がずいぶん早い感じがした。ところで、「犬も歩けば棒に当たる」だ。広い道を歩いていると、歩道脇の丸い円筒状のものが目に入った。目をこらしてみると、空間放射線測定局の文字が目に入った。
ここは川内原発から30km圏内だったのだ。歩いたからこその発見だった・・・。
(写真は、翌日撮影した空間放射線測定局)
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甑島断崖クルーズ(東海岸コース)



さて、次もまた今回の目的のひとつ「遊覧船かのこ」による断崖クルーズだ。目玉にもしていた。だが、自然はまたして私たちの前に立ちはだかった。予定していた西海岸コースが、荒天のために東海岸コースに変更になったのだ。東海岸は、西海岸に比べれば穏やかだ。200m級の断崖もない。なので、個人的には少し期待度ダウン。それでも船に乗り込めば、気持ちは昂った。
最初に目指すは、甑大明神橋。真ん中の支柱から左右にワイヤーが伸びた美しい橋だ。少々波が高いが、海から見る橋はまた格別。天気が良ければ、橋の下をくぐって、東シナ海へ抜けることができるのだが、ちょっと無理。ということで、しばし眺めた後、鹿の子大橋へ。橋を支えるアーチがこれまた美しい。ここは、天気が良くても船で向こうに行くのはちょっと無理のようだ。ただ、天気がいい時は、橋南端(写真では左)のアーチをくぐって少し歩けば鹿の子断層に行けるはず。だが、ガイドなしでは行かない方が無難だ。




鹿の子大橋を見納めた後、クルーズ船は上甑島南端の茅牟田崎方面に向けて大きくターン。そして着いたのは、海上に突き出た岩列。たしか、馬の立髪に見たてた名前が付いていた。次に目の前に現れたのは、三角形の大きな断崖。地層は大きく傾き、そして大きく食い違いをみせていた。実は、これこそ地質構造百選・鹿の子断層の延長部だったのだが、この時は全く知らなかった。帰ってから文献等を調べてみて気付いたのだ。クルーズ船に改めて電話でたずねると、その場所は「赤クエ」と教えてくれた。その名前から察すると、語源は「赤い崩れ」だろうか・・・。西海岸に行けなかったが故の、大きな発見だった。東海岸コース、侮るなかれだ。
そして最後は、昨年通れるようになったばかりの甑大橋だ。波を蹴立てて大橋に向かった。大袈裟ではない、シート横の窓には波しぶきがかかった。次第に大きくなる波は、船を前後にも揺らし始め、これ以上は無理という所まで行って橋を眺めた。甑大橋は、中央部が船が通れるように上に向かって緩やかにカーブしている。優雅できれいな橋だ。甑島の橋は、どれも個性的で美しい。橋を眺めるだけでも、なかなかいいクルーズが楽しめる。加えて、鹿の子断層の延長部も見ることができて、図らずも大きな成果を得ることができた。こうして、「遊覧船かのこ」でのクルーズは無事終了。港に着くと、案内していただいている方が待っていてくれた。だが、その日の昼間のスケジュールはこれで終わり、あとは島料理の夕食を待つばかりだった。
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甑ミュージアム恐竜化石等準備室〜鹿の子断層






鹿島断崖を見た後は、目的のひとつ「甑ミュージアム」だ。正式名称は「甑ミュージアム恐竜化石等準備室」。場所は鹿島支所内だ。準備室ではあるが、その内容の豊富さには驚かされた。1階の一角と2階に分けて化石などの標本がいっぱいだ。1階には恐竜の全身骨格の展示数点が目を引く。壁一面にもなる最も大きなものは、甑島から出た化石の一部を元に作られたものだ。とても大きい。2階にも、元村長室も占領して化石標本などが所狭しと展示されていた。準備室の方から丁寧な説明を受けたが、見るだけで精一杯。それほど多種多様なのだ。説明のあとは、やはり2階のクリーニング室へ。掘り出した岩石から化石を削り出す部屋だ。作業も見せていただいたが、できれば体験もしてみたかった。時間もなく、ちょっと残念。
近年、下甑島の姫浦層群からは恐竜の化石がいくつも見つかっている。肉食恐竜の歯や肋骨の一部のほか、角竜恐竜(草食恐竜)の仲間の歯根も見つかっている。角のある草食恐竜だ。その歯根は、角竜類のなかでもケラトプス類に分類できるのだそうだ。頭の後ろに、襟飾りのようなものを持つ恐竜だ。ケラトプス類は国内初、アジアでも数例なのだそうだ。ならば、実体的レプリカが欲しいところだが、今は準備室。甑島では、今後も新しい発見がどんどん続くようだ。なので、甑島ミュージアムは、いずれ、日本でも有数の恐竜ミュージアムになるはずだ。





ミュージアムの後は、日本地質構造百選の「鹿の子断層」へ。案内は、ミュージアムの方へお願いしていた。鹿の子断層は、中甑島の北部にある。案内の車に先導されて、鹿の子大橋近くの駐車スペースへ。そして、橋の下を歩いて西海岸へ向かえばすぐのはずだった。だが、とても強い風。そして波高し。歩けるはずだった海岸部は、荒波が打ち寄せていた。これではとても無理。ということで、現地観察断念となった。
現地観察はできなかったが、鹿の子断層は約8mの破砕帯を持つ巨大な正断層だ。北側に始新世の河川堆積物、南側が白亜紀後期の姫浦層群だ。層序の違いから約800mずれていると推定されている。観たかった。だが、自然には勝てない。機会があれば再挑戦だ・・・。
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甑島(長目の浜〜鳥の巣山展望所〜夜萩円山公園)



2日目。地質探訪を目的とした旅は、この日がメインだ。天気はまずまず。最初に寄ったのが上甑島北部にある「長目の浜(眺めの浜)」。展望所から眺めれば、ずっと先まで約4kmの浜が続いている。たえまなく打ち寄せる波や沿岸流は、小さなリアス式海岸の入江を堰き止め、いくつかの池を作り出した。絶景。しばし堪能。だが、海岸には我われの仲間・人類が作り出したゴミの帯が長々と続いていたのは残念。尚、遠くに天草や長島が望めた。







次に寄ったのが「鳥の巣山展望所」。中甑島を通り越し、昨年できたばかりの甑大橋を渡ったところにある。下甑島の北端に位置する。車を降りて展望所まで登ると、今通ってきたばかりの甑大橋が眼下に見えた。雄大な景観である。しばし堪能。そこから灯台の方へ降りる階段で、先に降りた参加者が、大きな声で「ストップ!」という。階段が集合写真のスポットと捉えたようだ。何枚か写真を撮られた。灯台付近でも、しばし景色堪能。そこから少し下れば、カノコユリの群生地。しかし今は11月で何もなし。見ごろは7〜8月なので、雰囲気だけ想像しながら甑海峡方角を見れば、雲間から海面へ伸びた一筋の光の帯。「天使の梯子」という声が聞こえた。幸せを呼ぶという。これまたいい景色に出会えた。



ところで、旅行会社から「観光船かのこ」での断崖クルーズ・西海岸コースは中止との連絡が入った。東シナ海が荒れていて、危ないのだ。なので、東海岸コースへ変更したいとのこと。ちょっと残念だが、断崖を見ないで帰るわけにはいかない。そこで、陸上から鹿島断崖が見える「夜萩山公園」へ案内していただいた。遊歩道を登って尾根筋へ向かうと、途端に強風。帽子も飛ばされそうだ。深くかぶり直し、さらに歩を進めると、「おおっ!」と声をあげたくなった。左手に海岸からそそり立つ「鹿島断崖」だ。高さ約200m。幾筋もの地層は、太古からの歴史を感じさせてくれる。案内書などによれば、白亜紀から古第三紀の地層だ。最も古いもので、恐竜やアンモナイトが生息していた約8000万年前のものという。この鹿島断崖は、2009年に学術的価値を認められ、「日本の地質百選」に認定されている。その断崖が目の前なのだ。パンフレットなどで見るより、地層ははっきりとして、全体的に黒く荒々しく見えた。エメラルドの海の色と砕け散る白い波が、より一層際立たせていたのだろう。静まった海上から見上げる断崖とは一味違った断崖を見たのかもしれない。甑島に住む案内者も、ここにきたのは初めてということだった。今後は、観光船が出ない時には、ここに連れてくると決めたようだ。
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