日頃感じたこと、思ったこと事などを書きとめておきます。
野のアザミ
甑島探訪(里港〜下甑島)
甑島は、上甑島・中甑島・下甑島の3島と多数の小さな無人島からなる。里港は上甑島にある。里港を出てすぐ、登り坂から振り返ったのは、トンボロ地形と言われる出発したばかりの里の町。沿岸流や波、台風、季節風が砂礫を運び、島と島が砂州で結ばれたのだ。次に車を止めたのは、甑大明神橋の手前。実は上甑島と中甑島の間には中島という小さな島がある。甑大明神橋は、上甑島と中島間にかかる橋だ。車を降りると橋中央に向かって歩いた。風が強くすぐに引き返したが、橋上から左を見ると、赤い鳥居とその前には甑(せいろ)に似た形の大岩があった。これが甑大明神で、御神体は大岩そのものなのだ。「甑島」の名の原点、ここにありだ。橋は、中央の柱から伸びたワイヤーが橋自体を吊り上げている構造で、これがなかなか美しかった。
次に降り立ったのも橋。中島と中甑島間にかかる鹿の子大橋だ。橋を渡り、橋の下に降りると、実に様々な種類の石が足元に転がっていた。今思えば、この様々な種類の石にこそ甑島の歴史がつまっている感じがする。もっとゆっくり観察すべきであった。実は、目的のひとつ「鹿の子断層」は、すぐそばだったのだが、この時は全く知らずに車へと引きあげた。
先を急ごう。中甑島はトンネルが大部分だ。その真新しいトンネルを抜けると、昨年出来たばかりの甑大橋を渡って下甑島へ。甑大橋は、長さ1,533m。下を船が通れるように真ん中がアーチ状に高くなっている美しい橋だ。だが、風がとても強く、別のレンタカーは飛ばされるのではと思うほど揺れを感じたようだ。我々のレンタカーは、それは無し。
そこを抜けると、一路県道を順調に南下。そして、着いたのが瀬尾観音三滝だ。県道から山の方へ入るとすぐだった。だが、駐車場に車を止めるやいなや、すぐに雨が降り始めた。案内者の予想は大きく外れ、予報より30分ほど早く強い雨が降り始めたのだ。したがって、遊歩道を歩き一番大きな滝に着いた時には、ほぼ土砂降り。案内パンフではあまり感じなかったが、実際きてみると見事な滝だった。折りたたみ傘が危なげだったが、滝下で写真を何枚か撮った。だが、急変した天候のため、上にある二段目、三段目の滝には行けずじまいとなった。それでも、遊歩道から振り返ると雨に煙る森の中に三段目がちらりと見えた。
そして雨の中、下甑島最南端の手打地区へ。この「手打」という言葉は、誰それを手打ちにしたとか思いがちだが、それは全く違うようだ。由来はこうと聞いた。源平合戦で敗れた平家の落人が、この地に流れ着いた時、「ここはいいいところだ」と手を打ったということに由来するそうだ。美しい砂浜海岸があった。青空の下でゆっくりできればいいのだが、雨模様なので、武家屋敷通りを車でゆっくり走っただけで済ませた。それでも武家屋敷通りは、思っていた以上に長く、美しかった。車はすれ違いできないほど狭いが、両側は石が胸辺りまで積まれその上には緑の垣根が続いていた。時間が許せば、ゆっくり散策して見たいところだ。
ここが最南端と思っていたら、もっと南があった。近くの漁港へ行くと、風がビュービュー、そして車は揺れた。どうするということで、釣掛埼灯台に行ってみることに。ほぼ最南端の地だ。幸運というか、ここでは雨が上がったので海を背にして皆で記念撮影。これで一日目は終わりにしていた。
翌日は、遊覧船をチャーターして、鹿島断崖など見る予定を組んでいた。天気が良ければ、コースを伸ばしてナポレオン岩まで行く予定にしていた。だが、この天気だ。明日も分からない。荒れ模様なら、東海岸のコースに変更しなければならない。ということで、無理を承知で、帰り時間の迫った中をナポレオン岩まで案内してもらうことにした。
どう行ったのだろうか? 狭い山道をクネクネくねくねと50分余り。車に揺られ揺られて、どうにかナポレオン岩が見える「前の平展望所」へ。だが、天気はすこぶる悪い。雨粒を伴った海からの強い風は傘をさせないほど。それでも甑島観光スポットになっているナポレオン岩を写真におさめたり、目に焼き付けたりして、1日目はなんとか無事終了。
その後ホテルへ帰って、皆で夕食。コロナ禍で会えなかった分、久しぶりに談笑を伴う会食となった。
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甑島探訪(串木野新港〜里港)
ハラハラハラ・・・。集合時間になっても到着しない2人。8日午前中のことだ。『日本の地質百選・地質構造百選の甑島探訪』を企画したのは今年4月。参加者は、串木野新港に出港30分前までに必ず集合としていた。「フェリーニューこしき」の出港時間は11時20分。なのに熊本からの友人が来ない。九州新幹線内で「京王線事件」をまねした放火未遂事件に巻き込まれたのだ。LINEで連絡が入った。35分遅れで出発とのこと。薩摩川内駅に10時37分着の予定と再びLINE。そこからは知り合った方の息子さんが串木野新港まで送るとのこと。だが、駅を出るまでにも時間を喰う。間に合わなければどうなることか。2人のチケットは私が持っている。間に合えばいいが・・・。他の参加者もハラハラドキドキだ。
出港間際、やはり事件に巻き込まれた何人かが、手続き窓口に現れた。その1、2分後、2人も待合室に駆け込んできた。よかった。これでみんな揃って甑島へ行ける。まぁ、最初からつまずいた旅行だった。だが、とにかく甑島へ向けて無事出港となった。
串木野新港を出てまもなく、右舷方向に川内原発が見え始めた。陸上側からは何度も見ているが、海上からは初めてだ。
宮崎が言い出しっぺになり、原発そばから事故時の放射能に見立てた風船を飛ばしてからもう33年にもなる。宮崎から出かけたのは約100人。熊本や鹿児島からも加わり総勢約600人だったか。みなで風船を持ち午後1時に風船を一斉に放流した。風のほとんどない中、ひと塊りとなった風船は、ゆっくりと上昇、そして甑島の方へ向かった。宮崎方面には飛んでいかないとも思われたが、結果は旧・川内市内で約30分後、都城でも約4時間後には拾われていた。風船には拾った時間・場所を知らせてもらうハガキが付けられていたのだ。地上では風がなくてもこのようだ。宮崎県は、川内原発の風下になりやすい東側。巨大事故では、壊滅的被害を被りかかねない。
フェリーは順調に甑島の里港を目指した。ところで、この海峡には、M7.5という大地震の可能性がある甑海峡中央断層と甑断層が眠っている。M7.5と言えば、兵庫県南部地震や熊本地震(本震)の約2倍のエネルギーだ。出港した串木野新港自体も、五反田川断層の真上だ。川内原発近くには、このように活断層がいっぱいだ。さらには、川内原発沖には、九州の中央構造線とも言われる「臼杵-八代構造線」が定置している可能性も報告されている。
その川内原発は、福島事故後に決まった原発寿命40年まであと3年もないのだが、九電はその延長運転を目指している。トイレもないのに、いつまで運転するつもりなのだろうか。
川内原発と川内火力がだんだん遠ざかり、まもなくフェリーは里港へと着いた。降りると、予約しておいたレンタカー会社の方と、事前に紹介していただいていた島在住の方が待っていた。以後、島内観光はこの方の労に負うこと大となる。それぞれの簡単な自己紹介を済ませ、早速レンタカーに分譲して出発。初日は遠い下甑島を済ませ、だんだんと近場へと移動する予定にしていたが、天気予報では、午後3時頃から急に荒天との予報。そのため、初日は近場からに変更してもいいと思ったが、案内者は「大丈夫、天気は持つ」との言。それに従うことにしたが、天気は予報通り急変した。
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