こんなものを買ってきた。
200円ぐらいだった。
節分の軒飾りだ。
大豆の木(?)と、ヒイラギと、
楊枝にさした目刺が一匹。
大豆のまめがらの音と
ヒイラギのとげと
イワシの臭みで
鬼を寄せ付けないようにするという。
「イワシの頭も信心から」のフレーズが大好きな
教授がいたっけ。
猫は寄ってきてもいいわけだ、
米や壁を食い荒らすネズミを
やっつけてくれるから。
節分が近づくと。
父は古い茅葺き屋根の家の土間で
稲わらを使って 縄をなった。
手作業で長く“なって”いった。
その「縄ない」の作業を見ているのは、
面白かった。
足の指に縄を挟み、
両手をこすり合わせて
次々に 新しいわらを足しては
縄を撚っていく。
そうして出来た縄に 半紙で作ったピラピラ
(ヘイソクというのかな)
を何本もぶら下げ、
目刺ではなくもっと大きなイワシの頭を付けた。
栴檀の実の殻もぶら下げた。
今は栴檀の木も虫にやられてなくなったから、
義兄は何か別のものをつけているのかな。
節分の夜。
父は小さなお堂に明々と明かりを灯し、
太鼓をたたいて祈祷をする。
そのあとで
「鬼はァ外、鬼はァ外、
福はァ内、福はァ内、
鬼わあ~~ソトォォ」
「福はァ内、福はァ内、
鬼はァ外、鬼はァ外、
福わあ~~ウチィィ」
と唱える。
最後は特に大きな声で唱えて
その時に豆をまくのだ。
大きな枡に大きな手を突っ込んで、
いっぱい撒くので
気持ちいいような、
もったいないような。
父がお堂から家に戻ると、
母と姉と三人で父に合流して
豆をわけてもらい、
そこから全員で 玄関から各部屋、
風呂もトイレも土間も勝手口も
全部に豆まきをする。
東西南北の掃きだしからも
まいたような気がする。
東西南北、すべてに掃きだしがあったのだ!
(寒いわけだ)
姉と私は 時々 枡の中の豆を
こっそり食べながら まいて歩く。
「風邪鬼は外」、「泣き虫鬼は外」
と言われつつ
私の鬼を追い払ってもらう事も多かった。
姉と私はキャーキャーいいながら
まいたり ぶつけたり 逃げたりして
楽しんでいた。
そんな節分の様子を
クレヨンで絵に描いた記憶がある。
小学校の低学年、
逃げ惑う私自身の口を
まだ赤いクレヨンで描いていたころだ。
私が父に豆をまかれて、
頭を押さえて逃げているところ。
よく描けていると
母が喜んでくれた絵だった。
難しい父の法衣の色を
クレヨンでよく表現できた、
ということらしかった。
父の法衣は 階級が一番下の色だった。
日本中が豊かになって
実家もそれなりに豊かになって
食べるものに困らなくなったのに
柩に収まった父は
やはり 一番下の階級の法衣を着けていた。
実家の近所の人にも
寺に豆まきに来て、
それから自分の家に帰って豆をまく、
という人たちがいた。
それは年々減っていったかもしれない。
当地では実家の辺りよりも
古い風習が残っている。
節分には当主がお寺に豆をまきに行き、
当主の帰りを待って 家族で豆まきをする、
にぎやかな声が 近所から聞こえてくる。
家によって 豆まきの時間が すごく違う。
我が家も我が家なりの豆まきをする。
父の豆まきの方法を
亭主に教えたのに、
亭主は 自分流にアレンジしてしまった。
それはそれでいいか、と
家族みんなで 一緒にまいて回る。
まく時間も、その年によって いろいろ。
まいたあとは お楽しみ、
大豆を食べる。
モモンガさんの「標」で
落花生をまいたり食べたりする節分もある
と知った。
落花生を食べるのもいい。
まくときは 鞘のままのヤツを
まくんだろうか???
とにかく、そろそろえさのなくなった
野鳥たちには、大後馳走だ!
(もしかしたら、鹿や熊や狸や狐にも)
節分は 寒くて、あたりまえ。
子どもの頃から
私はよく 風邪を引いて 節分を迎えていた。
今年も 丸一日と半、寝込んでいた。
まだ腰が痛い。
娘の帰宅を待って、
豆を ぶつけてもらおうかしら。
特に、腰の辺りに。
200円ぐらいだった。
節分の軒飾りだ。
大豆の木(?)と、ヒイラギと、
楊枝にさした目刺が一匹。
大豆のまめがらの音と
ヒイラギのとげと
イワシの臭みで
鬼を寄せ付けないようにするという。
「イワシの頭も信心から」のフレーズが大好きな
教授がいたっけ。
猫は寄ってきてもいいわけだ、
米や壁を食い荒らすネズミを
やっつけてくれるから。
節分が近づくと。
父は古い茅葺き屋根の家の土間で
稲わらを使って 縄をなった。
手作業で長く“なって”いった。
その「縄ない」の作業を見ているのは、
面白かった。
足の指に縄を挟み、
両手をこすり合わせて
次々に 新しいわらを足しては
縄を撚っていく。
そうして出来た縄に 半紙で作ったピラピラ
(ヘイソクというのかな)
を何本もぶら下げ、
目刺ではなくもっと大きなイワシの頭を付けた。
栴檀の実の殻もぶら下げた。
今は栴檀の木も虫にやられてなくなったから、
義兄は何か別のものをつけているのかな。
節分の夜。
父は小さなお堂に明々と明かりを灯し、
太鼓をたたいて祈祷をする。
そのあとで
「鬼はァ外、鬼はァ外、
福はァ内、福はァ内、
鬼わあ~~ソトォォ」
「福はァ内、福はァ内、
鬼はァ外、鬼はァ外、
福わあ~~ウチィィ」
と唱える。
最後は特に大きな声で唱えて
その時に豆をまくのだ。
大きな枡に大きな手を突っ込んで、
いっぱい撒くので
気持ちいいような、
もったいないような。
父がお堂から家に戻ると、
母と姉と三人で父に合流して
豆をわけてもらい、
そこから全員で 玄関から各部屋、
風呂もトイレも土間も勝手口も
全部に豆まきをする。
東西南北の掃きだしからも
まいたような気がする。
東西南北、すべてに掃きだしがあったのだ!
(寒いわけだ)
姉と私は 時々 枡の中の豆を
こっそり食べながら まいて歩く。
「風邪鬼は外」、「泣き虫鬼は外」
と言われつつ
私の鬼を追い払ってもらう事も多かった。
姉と私はキャーキャーいいながら
まいたり ぶつけたり 逃げたりして
楽しんでいた。
そんな節分の様子を
クレヨンで絵に描いた記憶がある。
小学校の低学年、
逃げ惑う私自身の口を
まだ赤いクレヨンで描いていたころだ。
私が父に豆をまかれて、
頭を押さえて逃げているところ。
よく描けていると
母が喜んでくれた絵だった。
難しい父の法衣の色を
クレヨンでよく表現できた、
ということらしかった。
父の法衣は 階級が一番下の色だった。
日本中が豊かになって
実家もそれなりに豊かになって
食べるものに困らなくなったのに
柩に収まった父は
やはり 一番下の階級の法衣を着けていた。
実家の近所の人にも
寺に豆まきに来て、
それから自分の家に帰って豆をまく、
という人たちがいた。
それは年々減っていったかもしれない。
当地では実家の辺りよりも
古い風習が残っている。
節分には当主がお寺に豆をまきに行き、
当主の帰りを待って 家族で豆まきをする、
にぎやかな声が 近所から聞こえてくる。
家によって 豆まきの時間が すごく違う。
我が家も我が家なりの豆まきをする。
父の豆まきの方法を
亭主に教えたのに、
亭主は 自分流にアレンジしてしまった。
それはそれでいいか、と
家族みんなで 一緒にまいて回る。
まく時間も、その年によって いろいろ。
まいたあとは お楽しみ、
大豆を食べる。
モモンガさんの「標」で
落花生をまいたり食べたりする節分もある
と知った。
落花生を食べるのもいい。
まくときは 鞘のままのヤツを
まくんだろうか???
とにかく、そろそろえさのなくなった
野鳥たちには、大後馳走だ!
(もしかしたら、鹿や熊や狸や狐にも)
節分は 寒くて、あたりまえ。
子どもの頃から
私はよく 風邪を引いて 節分を迎えていた。
今年も 丸一日と半、寝込んでいた。
まだ腰が痛い。
娘の帰宅を待って、
豆を ぶつけてもらおうかしら。
特に、腰の辺りに。