当地には「○○様」と様付けで呼ばれてきた
豪農が何軒かある。
農地解放やらなにやらで
今では「豪農」は死語になったと思う。
それでも古くて大きな母屋や
いくつも残る蔵のたたずまいに
昔日の繁栄を偲ばせられる。
写真は夜明けのゴミ集積所。
*************************
私は妊娠中も、ほとんどムクミを知らずに過ごした。
リンパ浮腫という病名も、聞いた事はなかった。
入院したがんセンターのリハビリ室の入り口の掲示板に
新聞記事のコピーが貼ってあり、
それをしげしげと眺めたけれど、
ピンと来なかった。
手術後 ドレーンがようやく取れて
遅まきながらリハビリ室に出入りするようになると
まるでぞうさんのような手足の人が
何人もいらっしゃるので驚いた。
その手足の太さに。
それが一人じゃないことにも。
そしていくらか理解した。
リンパ浮腫は なるのは簡単でも、
治すのは 簡単じゃなさそうってことを。
リンパ浮腫は
乳がんで私のように
脇の下のリンパを取った人(腕)や
子宮ガン、卵巣がん、前立腺がんで
リンパ節切除(足や下腹部)、
あるいは 放射線療法のあとにも
起こりうる障害で、
以前(20数年前)には
医療者にあまり感心を持ってもらえなかったらしい。
QOLという言葉の認知度が示すように
今は 命があるというだけでなく
どのような生活ができているか、
深く考えていくようになってきて、
浮腫は 無視できないものになった。
無視できないどころか、
ぞうさんの足で車椅子に乗って
リハビリ室にやって来る人たちは
とうてい普通の暮らしに戻れるようには見えない。
私のように サボろうと思えば
年末でも働かずに ご飯が食べられる者はいい。
腕さえ下げないようにしていればいいのならともかく、
足の場合は。
足を下げずにフツーに暮らすことは できない。
そのうえ 切り捨てたいようなダルさがあったりしたら、
これは かなり 悲劇だ。
がんを切り取って 命の危機がなくなれば
それでいいかというと、そうはいかないものだ。
少なくとも 落ち着いてくれば
“もとの生活”に戻りたい。
戻れない、となれば、
「なんで?」と思う。
ところが 浮腫が起こってしまうと、
腕なら スポーツどころか、
ペンや包丁ももてず、字もかけず、
物を持ったり握ったりもできなくなる。
脚の場合、
歩けなくなる!
そして、衣服、靴、アクセサリー、
そういった身につける物も
制約を受ける。
早ければ ひと晩から数日のうちにむくんで、
早めに積極的にケアしなければ、むくんだま、
あるいは免疫機能の低下から
細菌感染を起こし、進行することもあるという。
命に関わるものではないと
見過ごしていいはずはない。
また、外見上の変化は
精神的に苦痛をもたらす。
私はどうも動作が荒く、
自分の手を反対側の手で傷つけるような
ドジをしょっちゅうしている。
術側の左手を右手の爪でひっかいて
傷つけたり。
いつか左手のささくれが 赤く腫れた時からは
懲りて 極力傷をつけないように
気をつけてきた。
右手の爪は 必要最小限にしか 伸ばさない。
マニキュアは
塗らなくなった。
亭主はマニキュアに対して寛大で、
来客に対しても ド派手な色でなければ、
むしろキレイでいる事を好んだが、
まあるく短く切った爪では
あまりつけたくない。
そしてそんなふうな爪の手に似合う
ブレスレッドを私は好まない。
したい格好、したいおしゃれ、
つけたいアクセサリー。
そんなの、
命が助かるかどうか、という大問題の前には
どうってことない些細なことなのだけれど、
あれも、これもと
自分で楽しみを狭めていきそうになる時には
ため息がでるほど
大きな問題なのだ。
外に出たくなくなったり
うつのきっかけになったりもするという。
若くてオシャレを楽しみたくて
しかも都会に住んでいるような女性には
今の私などよりも
ずっとずっと大きな苦痛なのに違いない。
どうかそんな人たちがいたら
その苦痛を 他愛のないものだと
笑わないでほしい。
精神的な苦痛は 目には見えないものだから。
以前は術後の約5%に、
最近では25~30%に発症する、というのは、
ムクミ感を自覚した患者も
カウントしているのではないか。
『リンパ浮腫がわかる本
――予防と治療の実践ガイド』
(2004.8.15、法研、1500円)
には、そう書いてある。
私は、結局、「なんにもしない」で治ったので、
勘定にはいれてもらっていない。
弾性包帯、弾性スリーブ、弾性ストッキング、
リンパ誘導マッサージ・・・。
ケアはやはり 根気が必要なようだけれど、
この本によると、
かなり重症のひとでも 手術なしで
かなり改善されるようだ。
太るのもよくないそうだし、
根を詰めたり 寝不足が続いたりも
浮腫のきっかけになると書いてある。
適度にスリムな、健康ながん患者を目指そう。
日本語として矛盾があるだろうか。
豪農が何軒かある。
農地解放やらなにやらで
今では「豪農」は死語になったと思う。
それでも古くて大きな母屋や
いくつも残る蔵のたたずまいに
昔日の繁栄を偲ばせられる。
写真は夜明けのゴミ集積所。
*************************
私は妊娠中も、ほとんどムクミを知らずに過ごした。
リンパ浮腫という病名も、聞いた事はなかった。
入院したがんセンターのリハビリ室の入り口の掲示板に
新聞記事のコピーが貼ってあり、
それをしげしげと眺めたけれど、
ピンと来なかった。
手術後 ドレーンがようやく取れて
遅まきながらリハビリ室に出入りするようになると
まるでぞうさんのような手足の人が
何人もいらっしゃるので驚いた。
その手足の太さに。
それが一人じゃないことにも。
そしていくらか理解した。
リンパ浮腫は なるのは簡単でも、
治すのは 簡単じゃなさそうってことを。
リンパ浮腫は
乳がんで私のように
脇の下のリンパを取った人(腕)や
子宮ガン、卵巣がん、前立腺がんで
リンパ節切除(足や下腹部)、
あるいは 放射線療法のあとにも
起こりうる障害で、
以前(20数年前)には
医療者にあまり感心を持ってもらえなかったらしい。
QOLという言葉の認知度が示すように
今は 命があるというだけでなく
どのような生活ができているか、
深く考えていくようになってきて、
浮腫は 無視できないものになった。
無視できないどころか、
ぞうさんの足で車椅子に乗って
リハビリ室にやって来る人たちは
とうてい普通の暮らしに戻れるようには見えない。
私のように サボろうと思えば
年末でも働かずに ご飯が食べられる者はいい。
腕さえ下げないようにしていればいいのならともかく、
足の場合は。
足を下げずにフツーに暮らすことは できない。
そのうえ 切り捨てたいようなダルさがあったりしたら、
これは かなり 悲劇だ。
がんを切り取って 命の危機がなくなれば
それでいいかというと、そうはいかないものだ。
少なくとも 落ち着いてくれば
“もとの生活”に戻りたい。
戻れない、となれば、
「なんで?」と思う。
ところが 浮腫が起こってしまうと、
腕なら スポーツどころか、
ペンや包丁ももてず、字もかけず、
物を持ったり握ったりもできなくなる。
脚の場合、
歩けなくなる!
そして、衣服、靴、アクセサリー、
そういった身につける物も
制約を受ける。
早ければ ひと晩から数日のうちにむくんで、
早めに積極的にケアしなければ、むくんだま、
あるいは免疫機能の低下から
細菌感染を起こし、進行することもあるという。
命に関わるものではないと
見過ごしていいはずはない。
また、外見上の変化は
精神的に苦痛をもたらす。
私はどうも動作が荒く、
自分の手を反対側の手で傷つけるような
ドジをしょっちゅうしている。
術側の左手を右手の爪でひっかいて
傷つけたり。
いつか左手のささくれが 赤く腫れた時からは
懲りて 極力傷をつけないように
気をつけてきた。
右手の爪は 必要最小限にしか 伸ばさない。
マニキュアは
塗らなくなった。
亭主はマニキュアに対して寛大で、
来客に対しても ド派手な色でなければ、
むしろキレイでいる事を好んだが、
まあるく短く切った爪では
あまりつけたくない。
そしてそんなふうな爪の手に似合う
ブレスレッドを私は好まない。
したい格好、したいおしゃれ、
つけたいアクセサリー。
そんなの、
命が助かるかどうか、という大問題の前には
どうってことない些細なことなのだけれど、
あれも、これもと
自分で楽しみを狭めていきそうになる時には
ため息がでるほど
大きな問題なのだ。
外に出たくなくなったり
うつのきっかけになったりもするという。
若くてオシャレを楽しみたくて
しかも都会に住んでいるような女性には
今の私などよりも
ずっとずっと大きな苦痛なのに違いない。
どうかそんな人たちがいたら
その苦痛を 他愛のないものだと
笑わないでほしい。
精神的な苦痛は 目には見えないものだから。
以前は術後の約5%に、
最近では25~30%に発症する、というのは、
ムクミ感を自覚した患者も
カウントしているのではないか。
『リンパ浮腫がわかる本
――予防と治療の実践ガイド』
(2004.8.15、法研、1500円)
には、そう書いてある。
私は、結局、「なんにもしない」で治ったので、
勘定にはいれてもらっていない。
弾性包帯、弾性スリーブ、弾性ストッキング、
リンパ誘導マッサージ・・・。
ケアはやはり 根気が必要なようだけれど、
この本によると、
かなり重症のひとでも 手術なしで
かなり改善されるようだ。
太るのもよくないそうだし、
根を詰めたり 寝不足が続いたりも
浮腫のきっかけになると書いてある。
適度にスリムな、健康ながん患者を目指そう。
日本語として矛盾があるだろうか。