ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

『精神道入門』

2005-02-12 | 読書
サブ・タイトルが、「こんな私も修行したい!」。
帯には、「ウィークエンドは解脱しよ。」、
握りこぶしを作って、「いいぞ、修行!」と叫んでいる
著者の小栗左多里は、マンガ『ダーリンは外国人』
を描いたマンガ家。
こ~~んな 軽いノリで修行について書かれると、
・・・・・・嬉しい。(幻灯舎、2004.6.24、1200円)



『実践する!仏教』との一番の違いは、
著者が行ったところや 問合せ先が、
一切ないという点。

内緒にしておいたほうが、
面白おかしく描けるということもあるだろう。
たいてい、正直な感想を述べると、
遺憾な顔をされてしまうものだし。



著者は、瞑想、写経、日帰り座禅、滝、断食、
お泊り座禅、お遍路、それに内観の修行をしている。
(これだけでも、相当、エライ。)

始めにひとりで瞑想と写経を体験した所で、
「癒しへタレ」の杏子ちゃんが 混ざる。

「私、座禅がしてみたいんだけど・・・・・・」
「ああ、座禅は前やったことあるよ」
「いいなあ。 辛い? 何か変わる?」(p56)

杏子ちゃん。
人間って、そんなに簡単に 変わるもんじゃないと思うよ。



この本の特徴は 何といっても
漫画家の書いたものである、ということ。

言葉で説明できないようなところも、
そこはプロ、
マンガでうま~く描いてある。

ゆっくり歩きながら瞑想をしつつも、
雑念に次々襲われて
「脳みそがクラッシュ寸前」な著者。

滝に打たれる修行を(ホンの少しだけども)
やり遂げて、充実感に浸る、
「びしょぬれ天使」の杏子ちゃん。

断食のあとの 朝の
「米粒舞い踊る重湯」をいただいた後の、
女性四人の満足しきった顔、顔。

これらは 鋭くも面白おかしいマンガを描いてきた
著者の、得意ワザなのだろう。
一目でナットクしてしまう。



「修行。
 なぜ、修行がしたいのか。

 私の場合はたぶん、
 幸せじゃないと感じる瞬間があるからだと思う。

 普段は穏やかにくらしているけれど、たまに、
 嫌なことや 辛いことも ふってわく。 

 そうすると 仕事も手につかないし、
 いい年して グズるし、
 やさぐれて 寝てしまったりする。

 そうして次の日、
 「なんて自分は人間ができてないんだろう」
 とまたさらに落ち込むのだ。
 
 「きっと修行すれば、 
 何事にも動じない人間になれるに違いない」

 「そんな人間になれれば、苦しみがなくなるだろう」

 苦しみがない・・・・・・なんてすばらしい世界なんだろう。
 それを「幸せ」と言うのではないか。

 そう、結局私はもっと幸せになりたいのだろう。
 修行すれば幸せになれるのではないか。

 あるいは、「自分には何かがたりない」という思い。
 
 しかしこの「足りない」感は、
 「だから自分は幸せでないのでは」という気持ちに
 通じているように思う。

 修行すれば、「足りる」のではないか。
 
 そして幸せになれるのでは・・・・・・・。
               (「はじめに」より)



わかる、わかるよ、そのカンジ。

でも、解脱は、多分、そんなに簡単じゃない。

まあ、いいか。
こうして 軽~く マンガにしちゃってあるし。
(マンガは、一部分)



このへんのところは、
『実践する!』の「はじめに」に、

「これまでの人生を振り返り、
 仕事や家庭以外にもう一つ、
 自分の支えとなるものを求めているように思える。」

とか、

「これからの人生を、どのように生きていくべきか」と
 真剣に悩んでいること、
 その道しるべとなるものが、
 もしかすると仏教の中にあるのではないか、
 と期待していることである。」

などとあるのと、
意味はほとんど意味は同じなのではないか?




千葉氏が「仏教」をキーワードにしたのに対し、
小栗氏は「修行」とした。

その体験から得られるものは
ひとそれぞれ。
両方の著者の体験の場に居合わせた
脇役の人たちの様子も、それぞれで、
面白い。

一番面白かったのは、
どうやら同じ場所で
滝に打たれたらしい二人の著者、

千葉氏は夏に行き、
「寒い時のほうが感動が大きい」と聞いて、
「次にここを訪れる時は、
 もっと水量が多く、
 寒い時期を選ぼう」
と思い、

秋に行った小栗氏は
「夏にもう一度チャレンジしたい!」
 とマンガの自分に語らせている。

で、おふたりに、「次」は、本当にあるんだろうか?