ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

現在の私たち

2005-11-29 | こどものこと
私のイライラは 突然 一瞬の収まりを見せた。

そしてまた ぶりかえす、を 繰り返して
だんだんに イライラの時間が少なくなっていった。



実は今でも しょっちゅうイライラするし
キレそうになったりもするが

私の体力も気力も 
イライラを持続させることができなくなった。

そのかわり
自分を落ち着かせる事もできるようになったし
気長に待つことも容易になったし
自分をあきらめさせる事もできるようになった。



中学生の時の娘は 激しい反抗期で
私とは 毎日いがみ合い、怒鳴りあって暮らした。

口ではまだまだ 娘に負けなかった。

その頃 私は 怒鳴り合いながらも
冷静に だらしない娘を憎むことができた。



高校生になると
娘もだいぶ 反抗期をぬけてきて

おまけに 
遠くの高校に通うようになったため
家にいる時間が少なくなったので
私との仲が良くなった。



あんなに 育てやすかった息子は
成長してからが難しくて

小学生の時には
心療内科に行ったし

中学生になってからは
カウンセラーの所に行った。

最後にカウンセラーの所へ行ったのは
手術の半年くらい前だった。

その後も 息子に関しては
悩む日々が続いている。



娘に関しても 悩みは山のようにあるが
高校を無事に卒業してくれた時点で
親としての最低限のギムは(ほとんど)果たした、
と 開放された気持ちになった。

確かに 手を離れた、と思って
セイセイしたのだが・・・・・・。

だらしなさ とか 
いいかげんさ とか
料理もできない とか 
掃除もいい加減 とか
お腹や腰の出るファッションをするな とか
眉毛を生やせ とか
正座は最低でも5分はできるよな! とか
主食のある食事をしろよ とか
添加物には気をつけろよ とか
朝はちゃんと起きろよ とか
日付が変わる前に 帰って来い! とか
リビングのソファで寝ないで、自分の部屋で寝ろ! 
(今朝もソファに服着たまま寝てたんだよ!)とか
朝のシャワーじゃなくて お風呂に入れよ とか
車のスピード、出しすぎ! とか
初心者マークは 一年貼るんだよ! とか

そりゃあ、もう。。。
限りない小言を今でも連射できる。



ただ 時折りのおしゃべりは とっても楽しい。
(ただし、寝起きでなければ。)

カウンセラーに

「高校生のお姉ちゃんの方とは
 最近 友達みたいに 仲良くやってます。」

と言ったら

「友達関係、というのは よくない。
 親子はやはり親子でないと。」

と言われたのを忘れない。

というか、生意気な娘のどうしようもない子供っぽさが
親であることを 忘れさせてくれない。

これも ありがたいことではある。



今回実家に帰ってきた時に 
姉と 親子関係の話になり
姉は 娘に一度きちんと謝るように、と私に言った。

これは やはり 子供に厳しく当たってきて
つらい思いを 親も子も ともどもにしてきた姉の
心からの助言だった。

私とあの子の間は、それほどじゃあ、ないよ。
そんな必要はないよ。

そう言いたかったが 言葉が引っ込んだ。



こちらに帰ってきて
娘がベッドに乗っかった写真を掲げたり
夢バトンのやり取りをして
おしゃべりの機会が増えた時に

「オバちゃんから アンタに謝るように、
 って言われたんだよ。

 アンタが小さい頃に
 ママ、ヒステリーだったからサ。」

と言ってみた。

「覚えてる?」

「覚えてるよ。

 ママが厳しかったの。

 でも、虐待じゃないよ。

 謝るほどじゃないよ。」

ああ、よかった!

「確かに、弟にくらべると、厳しかったよね。」

「そりゃあ、アナタ。

 アナタにくらべれば、あの子はいい子だったもの(笑)。」

娘は選手宣誓みたいに 手を高く掲げて、

「ハイ!
  
 私、虐待されてます!(爆笑)」

この娘も 弟のことは 
いつも心から心配してくれている。

息子のハゲを見つけたのは
彼女だったし。

兄弟が仲がいいときは
私は親としての幸せに浸ることができる。



ただ
乳がんになった母として

どうしても 自分の娘だけは
乳がんには したくない。

これは 私に残された
彼女に対する最後の義務だと思う。

けれど 娘は 
いっこうに気にしている様子もなく

生活全般、食生活も だらしなくて。
 
母は、心配しているんだよ。

幼児虐待

2005-11-29 | こどものこと
乳幼児虐待のニュースが
一時期 頻繁だった。

今でも きっとどこかで
いたいけな子供たちが 
悲鳴をあげている事だろう。

(ある程度の年齢の子供が 
 反抗もせずにな亡くなったニュースには
 たじろいだ。

 『“It(それ)”と呼ばれた子』の主人公は
 あきらめなかったが

 何をしても 何をしようとしても無駄、
 とあきらめてしまうと

 人は 悲鳴をあげることも
 助けを求める事もなくなってしまうのか?)



そんなニュースに接するたびに
私は切なく苦しい思いをした。

なんとかしてやりたかった。

虐待で亡くなった子供に、ではなく、

虐待せざるをえなかった 親の方に。



誰か、あの人たちを救ってあげて!と思う。

思い通りになんか 決してならない人生を
あの人たちは 人一倍苦しい思いで
これまで生きてきたのではないかと思うから。

どんなに彼らが若くても。

誰か、あの人たちを 愛してあげて!と思う。

きっと これまで
無償の、無限の愛に包まれていた時間が
少なすぎたのだと思うから。



幼児虐待は
虐待される側に 罪はない。

ならば すべての罪は
虐待した大人(未成年もいたが)の側にあるのか?

助けてあげて、彼ら、虐待した側の人たちを。

子供を救う事も大切。

けれど 虐待をしてしまった、
虐待をしてしまう 彼らこそ

本当に助けを求めていて

精神的に虐げられていて

愛に飢えていて

思い通りにならなくて

満たされていなくて

我慢ができなくて

可愛そうな人たちなのだから。



だいたい、
私は確かに 

虐待の手前で踏みとどまったし
子供を殺しもしなかったし
ニュースにもワイドショーにも出なかったが

私と彼らとの間に どれほどの差があるというのか?

このままいくと
いつか 子供を殺してしまうのではないか?
と不安に思ったこともあった。

子供が憎くて、
殺したいくらいの憎しみを感じた事もあった。

全部投げ出したい、何もしたくない、と思うことは
しょっちゅうだった。

実際、
何十分かは 娘をほったらかしにしたこともある。

これは 育児放棄以外の何物でもないはず。



私は殺してなくて、彼らは殺した。

その差は 大きいけれど 小さいのかもしれない。

私は もう少し状況が違っていたら
彼らになったかもしれないのだ。

叩きたくなる彼らの気持ちは
私には わかる。

叩けば叩くほど 激昂していき、
抑えられなくなるのもわかる。

決して楽しくてやってるんじゃない。

哀しいのに 止まらないのだ。



ある日 
テレビから聞こえたアナウンサーの声。

「○○は 
 〈▲▲ちゃんが 泣き止まないのに腹を立てて
 殺してしまった〉
 と言っているということです。」

私は思い切って 言ってみた。

「そうねー。

 泣き止まないと、腹が立つのよねー。」

その場に居合わせた娘は こう返してきた。

「ありがとうございます。

 おかげで、生きてます!」

娘は大学生になっていた。

自分自身のかつての‘育てにくさ’を
何度か聞かされて 知ってはいる。

やはり 親の思い通りには
決して 決して 動いてはくれないけれど

親もだんだん若さを無くして
叱る気力も体力もなく。

アキラメばかりで 日々は過ぎてゆく。

娘のアトピーは治らないけれど
喘息にはならずに済んでいる。

育てにくい子は 
一緒にいて楽しい娘になった。

とんちんかんな間違いをしょっちゅうやりながら
(だから、一緒にいて飽きないのよ!)

何にでも一生懸命取り組む娘になった。

きっと 
母を越え 父を越えた大物になるに違いない(笑)。

ある友人の悩み

2005-11-29 | こどものこと
娘が小学生の時。

娘の同級生の男の子のお母さんと親しくなった。

そのお宅には 上に優秀なお姉ちゃんがいた。



そのお母さんは 悩んでいた。

お嬢さんは 小さいころから 従順ないい子で、
お母さんが 「こうすれば? ああしたら?」
ということを
いつも 素直に聞いていた、という。

「私もすこ~し、押し付けがましいかな、とは
 思ったんだけども、

(いえ、貴女の押し付けがましさは
 いつもかなり大胆なまでに激しいデス。
 ---私の心の声)

 親としては、サ。

 できたら、こうして欲しい、というのがサ、
 理想っていうのが、あるじゃない。

 そんで、そういうと、あの子がね、
 いつも 私の言うとおり、言うとおりに
 してくれてたわけよ。

 だからねー。

 私が あの子の やる気や 自主性なんかを
 みんな潰してきちゃったんじゃないかと思うとねー。」

彼女の悩みも 深そうだった。



そうか。

お勉強ができても 親は悩むんだなあ。

その頃の私は 
学校の勉強に完璧に落ちこぼれてしまった娘に
打ちのめされていたので

(私が母として 無能だから
 娘が落ちこぼれた・・・と思って。)

新鮮な気持ちで、でも 深刻にはなれずに
聞いていた。



娘は そんなタイプではなかった。

親の言う事は聞かなかった。

どなっても、言うとおりにしなかった。

亭主や私にひっぱたかれても、

涙をいっぱい目にためて「ごめんなさい。」とあやまっても

泣きじゃくりながら「もうしません。」を言っても

しばらくすると 同じことをやっている子だった。

興味があると
手を出さずにはいられなかったらしい。



亭主と私はお互いに
「これは 自分に似たのではない。」
と主張しあった。

頑固なのは 仕方がない。

父も母も 頑固だから。

だけど、あの バカさ加減は
真似できない。

そして それは 今も変わらないんだなあ。