ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

喪中欠礼

2006-12-20 | なんでもないこと
今年は「喪中につき 云々」の葉書を出した。

全部亭主がやってくれた。

よく「年末年始のご挨拶は 云々」と
書かれていると思っていたが

お世話になった人へのお歳暮は欠かせないのだそうで
「年末」のひとことは 入っていない文章にしたらしい。




トウガラシは美しいと思う。 可愛いと思う。 



やれ、これで今年は 注連飾りを用意しなくていい、
と思ったが

今頃になって
スーパーにさえ かわいい注連飾りが売られているのを見ると

なんだかとっても寂しい。



私の頭の中では
年末のご挨拶も遠慮すべき、という気分があって

まして クリスチャンではないから
クリスマスの飾りつけも
(子供が小さいころはひとりでやっていたが)
するのはおかしい、と思っている。

なのに
かわいいクリスマスリースが売られてを見ると
思わず寄って行って
どれにしようかと迷っている私が居る(苦笑)。

そして
ああ、そうか、今年は飾らないんだっけ、と思うと
とっても残念。



息子が3歳の頃、
私のお出かけにはいつも
真っ赤な丸いポシェットがお供だった。

父が急死した時に
実家に向かう準備をしていて ポシェットを見たら
その色がとても腹立たしく、
「もう二度と使うことはないかも知れない。」
と思ったのだった。

事実、タンスの奥に仕舞われたそのポシェットは
その後 数年間 
明るい場所に引っ張り出されることはなかった。



今回の服喪は
亭主の母親のためのものだから

注連飾りやリースに 浮かれそうになるのは
私だけなのだろうか?

義父や義弟や亭主は 
街中にあふれる 浮かれたクリスマス・ソングに
神経を逆なでられ、

これからあちこちで見かけるであろう門松や注連縄を
哀しい気持ちで眺めるのだろうか?



亭主は昨日 実家に行き
石屋に出向き
手付金を支払ってきたという。

墓石のことだ。

義父は三男坊なので 墓地を持っていない。

第一、どこにお墓を作るのか、さえ
秋のお彼岸の頃にようやく決まった。

亭主の実家の近くに作る。

これは 義父の意向を一番に考えて
義父の気の済むようにした結果だ。



ただし 亭主は 石材店には
「父には内緒だが
 将来は 
 私が住んでいる土地に 墓地を移転することになるだろう。」
と伝えてあるという。

義父の死後、
亭主の実家には
ふたりの息子の どちらも住む計画がないから
長男である自分の住む場所に
我が家の墓所を用意するつもりだ。



いつまでにお骨を墓に納めなくてはならない、
という決まりもないが
いつまでも家の中に置いておくのも
なぜかよくない気がする。

春の一周忌には 納骨できるだろう。

亭主は 昨夜 帰宅すると
玄関で靴を脱ぎながら
「墓地の設計を決めてきた!」と
真っ先に ほっとした声で報告してくれた。

気がかりでもあったのだろう。



これからしばらくの間
義父は 出来上がる墓地のことを楽しみにしていくのだろう。

大事な人を失った人にとって 疎外感を覚える季節だから

まだ悲しみが癒えていない人たちが傷つくような
事件や事故のない年末であってほしい。

(できれば、バカ騒ぎも。)



昨日 亭主に持たせた 海苔の佃煮。

水とだし汁と醤油と水あめで。

うそ。ホントはつゆの素も入ってる。

義父はスプーンですくって食べていたという。

いくら、好きだからって。

いくら、薄味だからって。

いくら、「すぐにカビるから、早く食べて」と
言付けたからって(笑)。