心の旅紀行

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八幡宮(はちまんぐう)よりやわたのみやの呼称が古い

2024年03月24日 | 世界

弥生時代、より絞って言うと紀元前後、朝鮮半島南部ー対馬ー壱岐ー九州北部の海路がよく利用され、九州北部の倭人(日本人)は大陸人の脅威に対抗する必要が高まり、町は戦争に強い人が権威をもつ社会へ、つまり階級社会へ変わっていったと思います。

武器は青銅器から鉄に代わっていきました。日本では特に九州北部、とりわけ瀬戸内海入口に近い、現在の北九州市あたりで数多く発掘されています。近世八幡製鉄所がここに建設されたのは、この辺りで製鉄産業が栄てきたからだと思います。

昔はこのあたりは「やわた」とよばれていますが、やわたとは数多くの旗あるいは幟(のぼり)という意味だと思います。やわたを漢字で書くと八幡となり、八幡がはちまんと読まれるようになったのでしょう。

八幡は強い軍を象徴しています。応神天皇が八幡大神(はちまんだいじん)の首座との説がありますが、弥生時代の後、紀元400年頃以降、皇室(大和政権)が発達して皇室神道が力を持ってきた結果、出て来た説と思います。伝説の域をでませんが、応神天皇は400年をはさんで皇室発展に貢献した人で、当時の倭軍(日本軍)の朝鮮半島侵略にかかわっており、九州北部を基地とし、その地のやわたのみやで武運を祈っていたかもしれません。

6世紀に即位した欽明天皇は宇佐八幡宮(宇佐神宮)(大分県宇佐市)を創建しました。当時、日本は積極的に朝鮮半島侵略を行なっており、弓矢の神の加護を強く求めていました。その後、皇室は宇佐神宮を全国に分布する八幡宮の総本社に位置付け、やわたのみやを皇室神道にしっかりと組み入れました。、

(注)八幡大神は八幡大菩薩とも言われますが、これは後、奈良・平安時代の神仏習合の中で生まれた仏教的呼称です。

つまり皇室神道前の神社神道では、八幡宮はやわたのみやと呼ばれ、弓矢の神がまつられていたと思います。

したがって鎌倉幕府創設の源頼朝は鶴岡八幡宮を、伊勢神宮の下に位置づけたとは思えません。皇室に負けない軍事力、武運を祈って建立したと思います。

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