月も星も見えない「森の時間」の夜。漆黒の闇が訪れる。2百メートルほど離れたところにある「のらくら農場」の母屋の明かりだけが木々の間に小さな点となって見える。足元も自分の手さえもどこにあるか分からない。
風が渡る梢の音と虫の声。樹木や草の匂い。頬を撫でる甘い空気。視覚が利かないと、聴覚・嗅覚・触覚が鋭くなり、昼間には感じられない世界に包まれる。
最初の小屋が出来て、始めて夜を過ごそうとしたとき、人工の音が全くない漆黒の闇が怖かった。海の上や山岳地帯の自然とは違う、人が足 を踏み入れている里奥 の夜の闇には人を脅かす何かが棲息している。自然界の生物ではなく、何をするか知れぬ人の狂気、怨念が里奥の闇に潜んでいる。窓にもドアーにも鍵を掛け、厚いカーテンで外部から遮断して室内でじっとしていた。すると、異常に研ぎ澄まされた聴覚が様々な外の音を拾った。魔人が降り立ったかのような咆哮をあげるカラマツ林を吹き抜ける風。大きな蛾の羽ばたき。甲虫が節くれた足を外壁に引き摺る音。魑魅魍魎の忍び寄る翼、足音が迫り来る。風に吹かれた松ぼっくりが地面や屋根に落ちる大きな音。闇の住人達はとうとう屋根に上りトントン叩き始めた。姿の見えない敵に完全に包囲されて、恐怖と寒さで震える体を頭からすっぽり毛布で包む。
夜半になると、落ち着き場所を見つけたらしい昆虫達の行動する音が聞こえなくなる。風も静かになり咆哮も松ぼっくりの落下も止まると、掛け時計の秒針の音が両耳の聴覚を独占する。やがて、緊張に疲れていた五感が秒針の音に誘われ和らぎ、聴覚も麻痺してゆく。そして、日の出の鳥のさえずりに起こされるまで五感は完全に眠りに落ちる。