こんばんは。
今日は朝から一日よいお天気に恵まれましたね、どうやら全国的にそうだったようです。
最近にしては全国で、というのも珍しい気がします、それほど北から南の間で気候がかなり違っていたということなのですね。
とはいえ週末、またしても台風が近づくとか。
もういい加減にしてほしいところです。
意識の中で、此方へ来るな、と念じてみましょうか、多少は逸れてくれるかもしれませんよ。
そんな朝は快晴で始まりました。
遠く、といっても此処から見てですのでおそらく深川(ふかわ)辺りで霧が発生していたのかもしれません。
まぁ、何枚も同じような写真を載せることもないんですけれど;。
娘の話を綴りながら、自分でも書いていて半分こみ上げてきそうな思いと、その半分は冷静にこのことを文章にしなくては伝わらないという思いが
交錯しております。
20数年、正確にはもし娘がおれば今27歳ですので、この年月を経てようやっと自身のこととはいえ客観的に捉えられるようになっていきたと
言えるのかもしれません。
これまでこの経験を心の中で反芻しなぞるような思いはあったにせよ、己一人の中に仕舞い込んで、ともすれば忘れ去った記憶の中のこととして
押し込めてきていたようにも、今改めて感じております。
ですけれど、こうして曲がりなりにも文章に起こさせて頂き、皆様の前でさらけ出させて頂くような機会を得て、ようやっと先に帰幽した娘とまと
もに対面しておるのかもしれません。
この世に生を受け、たとえ十数時間という短い間であったにせよ、娘が生まれて来てくれたことは間違いのない事実です。
今一度、当時の記憶を思い起こして、もうしばらく書かせて頂きたいと存じます。
赤ちゃんはいわれるように真っ赤になって泣くことからその名が付いたといわれておりますけれど、生まれてきた娘は申すように泣くことすら
出来なかった訳ですが、そのような症状の子であるにも関わらず、親がいうのもおかしな話かもしれませんが、顔つきが既に大人の女性の顔を
していたように思います。
生まれてくる前から、もうこの短い人生というのを理解して、その上でこのような姿、顔を持ってたまさかの光を浴びるために出てきてくれた
のかもしれません。
主人自身、この子のこの世での生きた時間、滞在時間はわずか10数時間であったとはいえ、こうして日の光を浴びたということは紛れもなく
生を受けたことには違いない、だから悲しいけれど、ありがとうと言って送ってやろう、そう申しておりました。
普通、このような場合は当事者は喪主となりどなたかに葬儀をして頂くのが本来ですけれど、神主である主人が自分自らがこの子の為にしてやると
いって、自宅にて葬儀を致したようです。
その間、自分はまだまだ病院で臥せっており、葬儀の事も後にその詳細を知ったような次第でした。
主人がその後話したことによると、自分で我が子の葬儀などするもんではない、泣けてしまって祭文(さいもん、祝詞ではなく葬儀ですのでこの
ように称します、仏教でいわれるところのお経をあげる、読経されるのと同等の意味合いかと存じます)が上げられなかったと言う事でした。
それでもなんとか葬儀を済ませて、後に役所へ出生届と死亡届を同時に提出した時には、係りの方がなんともいえぬ顔をしておられたとも話して
おりました。
出産後のバタバタは、少し違った形でそうであったと言えるかもしれませんね。
自分の方はといえば出産、そうしてその直後に子供が亡くなったということで、それまでは6人部屋でしたけれど、病院側の計らいで個室となり
ました。
6人というと今では信じられないかもしれませんが、当時は産婦人科でも大部屋はすべてその人数でして、今現在を存じませんのでどの位の方が
同室となるのか検討もつかないのですけれど。
ともあれ、赤ちゃんが生まれて家族に囲まれ楽しい雰囲気であろう中に、自分のような者が居てはお互い気まずかろうとの考えだったようです。
確かに一人で考える時間はその部屋では大いにありましたが、反面そのことばかりを思いあぐね、話し相手もいない部屋にじっといることの方が
ある意味辛かったようにも覚えております。
出産後は精神的なこともあったのかどうにも体力が回復せず、先に書きました、頭を打った時にお世話になったご夫婦の所へ整体をして頂きに退
院後は通いました。
そのお宅はマンションで、下に車を停めてエレベータで部屋まで上がるのですが、その少しの距離を歩くのが身体がまるで雲の上を歩くようにふわ
ふわとし、自分自身の実体がないように感じておりました。
出産したとはいえ既に子供はおりませんが、おっぱいはどうしても張ってくるため、それを止める薬を処方されておりました。
早く止めた方が次の妊娠をしやすくなると言われたようにも思いますが、その事も少し悲しい思いもしておりました。
そんな、心身共に疲れ切っていた自分でしたけれど、そのような自分を殊更に慰めるでもなく、ごく普通に接して下さったそのお二人の優しさが
余計に沁みる思いでした。
自宅では仏教でいうところの四十九日にあたる五十日祭までの期間、娘の為の小さな祭壇を設け日々祈っておりました。
十日毎に、これも祭りを行い、この時は主人が祭文を奏上してくれました。
その間、二ヶ月程、前に述べたようにまだどこか身体も心もフワフワしたような感覚が抜けず、ただ毎日を娘の小さな遺骨に手を合わせていたよう
に思います。
五十日祭をなんとか済ませた後、いわば納骨したのですけれど、墓は出雲にあり、骨の一部、ほんの少しをよくは覚えておりませんけれど、稲佐の
浜であったか他所であったかで散骨したような記憶がうっすらとあります。
ただし、本当にそうしたのか、これも申すようにどうにも自分がしっかりしていなかった時期のことでもあり、その記憶も曖昧です。
それでも何とか一連の為すべきことを一通り終わって、自分も夢うつつなようだった状態から抜け出したように感じております。
娘の事を書いていると、いつの間にか自分の事になってしまっておりました。
あの頃の記憶を辿ると、どうしてかそこへ行き着き、外せないようにも感じます。
この分だとどうやらこの週末までこの話が続く事になりそうです;。
どのように決着がつくのか、皆目自分でもわかりませんけれど、娘との覚束ない記憶を思い起こしながら、今しばらく続けさせて頂こうと思います。
少し重苦しくなってきておりますけれど;;。
それでもお付き合い頂きました皆様、いつも有難うございます。
感謝申し上げます。
今日は朝から一日よいお天気に恵まれましたね、どうやら全国的にそうだったようです。
最近にしては全国で、というのも珍しい気がします、それほど北から南の間で気候がかなり違っていたということなのですね。
とはいえ週末、またしても台風が近づくとか。
もういい加減にしてほしいところです。
意識の中で、此方へ来るな、と念じてみましょうか、多少は逸れてくれるかもしれませんよ。
そんな朝は快晴で始まりました。
遠く、といっても此処から見てですのでおそらく深川(ふかわ)辺りで霧が発生していたのかもしれません。
まぁ、何枚も同じような写真を載せることもないんですけれど;。
娘の話を綴りながら、自分でも書いていて半分こみ上げてきそうな思いと、その半分は冷静にこのことを文章にしなくては伝わらないという思いが
交錯しております。
20数年、正確にはもし娘がおれば今27歳ですので、この年月を経てようやっと自身のこととはいえ客観的に捉えられるようになっていきたと
言えるのかもしれません。
これまでこの経験を心の中で反芻しなぞるような思いはあったにせよ、己一人の中に仕舞い込んで、ともすれば忘れ去った記憶の中のこととして
押し込めてきていたようにも、今改めて感じております。
ですけれど、こうして曲がりなりにも文章に起こさせて頂き、皆様の前でさらけ出させて頂くような機会を得て、ようやっと先に帰幽した娘とまと
もに対面しておるのかもしれません。
この世に生を受け、たとえ十数時間という短い間であったにせよ、娘が生まれて来てくれたことは間違いのない事実です。
今一度、当時の記憶を思い起こして、もうしばらく書かせて頂きたいと存じます。
赤ちゃんはいわれるように真っ赤になって泣くことからその名が付いたといわれておりますけれど、生まれてきた娘は申すように泣くことすら
出来なかった訳ですが、そのような症状の子であるにも関わらず、親がいうのもおかしな話かもしれませんが、顔つきが既に大人の女性の顔を
していたように思います。
生まれてくる前から、もうこの短い人生というのを理解して、その上でこのような姿、顔を持ってたまさかの光を浴びるために出てきてくれた
のかもしれません。
主人自身、この子のこの世での生きた時間、滞在時間はわずか10数時間であったとはいえ、こうして日の光を浴びたということは紛れもなく
生を受けたことには違いない、だから悲しいけれど、ありがとうと言って送ってやろう、そう申しておりました。
普通、このような場合は当事者は喪主となりどなたかに葬儀をして頂くのが本来ですけれど、神主である主人が自分自らがこの子の為にしてやると
いって、自宅にて葬儀を致したようです。
その間、自分はまだまだ病院で臥せっており、葬儀の事も後にその詳細を知ったような次第でした。
主人がその後話したことによると、自分で我が子の葬儀などするもんではない、泣けてしまって祭文(さいもん、祝詞ではなく葬儀ですのでこの
ように称します、仏教でいわれるところのお経をあげる、読経されるのと同等の意味合いかと存じます)が上げられなかったと言う事でした。
それでもなんとか葬儀を済ませて、後に役所へ出生届と死亡届を同時に提出した時には、係りの方がなんともいえぬ顔をしておられたとも話して
おりました。
出産後のバタバタは、少し違った形でそうであったと言えるかもしれませんね。
自分の方はといえば出産、そうしてその直後に子供が亡くなったということで、それまでは6人部屋でしたけれど、病院側の計らいで個室となり
ました。
6人というと今では信じられないかもしれませんが、当時は産婦人科でも大部屋はすべてその人数でして、今現在を存じませんのでどの位の方が
同室となるのか検討もつかないのですけれど。
ともあれ、赤ちゃんが生まれて家族に囲まれ楽しい雰囲気であろう中に、自分のような者が居てはお互い気まずかろうとの考えだったようです。
確かに一人で考える時間はその部屋では大いにありましたが、反面そのことばかりを思いあぐね、話し相手もいない部屋にじっといることの方が
ある意味辛かったようにも覚えております。
出産後は精神的なこともあったのかどうにも体力が回復せず、先に書きました、頭を打った時にお世話になったご夫婦の所へ整体をして頂きに退
院後は通いました。
そのお宅はマンションで、下に車を停めてエレベータで部屋まで上がるのですが、その少しの距離を歩くのが身体がまるで雲の上を歩くようにふわ
ふわとし、自分自身の実体がないように感じておりました。
出産したとはいえ既に子供はおりませんが、おっぱいはどうしても張ってくるため、それを止める薬を処方されておりました。
早く止めた方が次の妊娠をしやすくなると言われたようにも思いますが、その事も少し悲しい思いもしておりました。
そんな、心身共に疲れ切っていた自分でしたけれど、そのような自分を殊更に慰めるでもなく、ごく普通に接して下さったそのお二人の優しさが
余計に沁みる思いでした。
自宅では仏教でいうところの四十九日にあたる五十日祭までの期間、娘の為の小さな祭壇を設け日々祈っておりました。
十日毎に、これも祭りを行い、この時は主人が祭文を奏上してくれました。
その間、二ヶ月程、前に述べたようにまだどこか身体も心もフワフワしたような感覚が抜けず、ただ毎日を娘の小さな遺骨に手を合わせていたよう
に思います。
五十日祭をなんとか済ませた後、いわば納骨したのですけれど、墓は出雲にあり、骨の一部、ほんの少しをよくは覚えておりませんけれど、稲佐の
浜であったか他所であったかで散骨したような記憶がうっすらとあります。
ただし、本当にそうしたのか、これも申すようにどうにも自分がしっかりしていなかった時期のことでもあり、その記憶も曖昧です。
それでも何とか一連の為すべきことを一通り終わって、自分も夢うつつなようだった状態から抜け出したように感じております。
娘の事を書いていると、いつの間にか自分の事になってしまっておりました。
あの頃の記憶を辿ると、どうしてかそこへ行き着き、外せないようにも感じます。
この分だとどうやらこの週末までこの話が続く事になりそうです;。
どのように決着がつくのか、皆目自分でもわかりませんけれど、娘との覚束ない記憶を思い起こしながら、今しばらく続けさせて頂こうと思います。
少し重苦しくなってきておりますけれど;;。
それでもお付き合い頂きました皆様、いつも有難うございます。
感謝申し上げます。