堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

イベント

2009年11月09日 | 日記

 昨日、錦町の健康フェアが第七小学校で行われた、立川市が音頭をとって始めた事業であるが、今では全市的に行われている。日頃から、皆健康が気にかかっている。その為か、参加者も子供から高齢者まで多彩である。しかし、若干気にかかる部分もある。それは、参加者が増えるよりも減少傾向にあるということである。その原因は、イベントの本質についてた考えると分かってくるのではないかと思える。

 私は、イベントは手段であり目的ではないと考える。しかし、現実にはベントを目的化している事例が多いのではないでしょうか。
 そこで、イベントが長続きしなかったり、マンネリ化し活気のないものとなってしまっている。
 華やかで、多くの人が集まって、一見、成功しているかに見えるイベントも、裏に回ると、莫大な費用をかけている例もある。これが、多額の利益をあげている企業が、顧客に対し利益のほんの一部を還元し、顧客を繋ぎ止めるためという、明確な目的があれば、それは大成功といえましょう。
 しかし、税金を財源とする補助金や会員の会費で催すイベントについては、目的と手段を明確に意識し、効果的なものとすべきであります。

 イベントは本来の目的を達成するための気かっけづくり、啓発という役目も多いと思います。その為には、日常的運動論が必要となります。継続的に行われるイベントについては、運動論が有機的に結びつき、質的にも量的にも拡大すれば、イベントも変化し発展するのではないでしょうか。

 しかし、イベントそれ自体が目的である場合もあると思われます。
 「どん度焼き」「七夕」などです。これらの伝統的行事を後世に残すことそれ自体が目的です。勿論、地域の親睦をはかる、子供たちの情操を育てるなどの効果は期待できますが、それはあくまでも副次的効果にすぎません。この副次的効果は、ひるがえって考えれば、そのイベントが狙う目的でもあると思われます。つまり、伝承的行事の持つ本来の宗教的目的は失われても、第二次的目的が備わっているから、成功するのでしょう。

 街の活性化や発展のためにイベントが行われる場所が欲しいという意見がありますが、それは安易に過ぎると思われます。日常的な運動論が出発で、それを具体化する一つの手段がイベントであると考えます。運動論無きイベントは、浪費と単なる空騒ぎにすぎないと思われます。