貝殻坂橋です
童門冬二の「徳川三代の情報戦略」を読んでいる。
その中に、甲州街道について書かれている。我が家のそばを通っている甲州街道の日野橋交差点はかつて渋滞で有名であった。
しかし、「日野バイパス」の開通により交通量は激減したといってよい。
日野バイパスが国道20号線となり、今までの国道20号線は都道256号線国立八王子線となった。
先日、錦・羽衣歴史散歩で古道の幾つかを歩いた。
旧甲州街道も多摩川の渡し場の関係で何回か移動した。その一つが至誠学園の東側から根川にかかる貝殻坂橋から多摩川を渡る道、もう一つが柴崎市民体育館東側から立川市の汚水処理場の西側から多摩川を渡る道である。
貝殻坂橋からの渡しは「万願寺の渡し」と言われ、慶安年間(1648~1651)から貞亨元年(1684年)まで使われたと云われている。
ちなみに、我が家の歴史を、普斎寺の過去帳の写しで調べると、ほぼ同時代に初代の命日がある。
甲州街道も、我が家のルーツと何らかの関係があるのかもしれない。
日野の渡し碑
甲州街道の宿場は府中宿、日野宿、横山宿であったが、立川にも大水等で多摩川を渡れない時のために宿屋らしきものもあったということである。場所は奥多摩街道と旧甲州街道が交差する南側あたりだとのこと。
甲州街道を作った目的は万が一江戸城が落ちるような気緊急事態の折、将軍を天領であった甲府に避難させるためであったといわれている。
従って、江戸城の西側の門に服部半蔵の屋敷を置き搦め手の警備にあたらせた。ちなみに、八王子には千人隊を置き、いざという時の備えとした。八王子千人隊が武士であるかどうかは色々言われるが、武士ではなかったというの実態ではなかろうか。