海洋生物の生態を調べるために船から色んな信号音を出し電波を海に放つ、これが原因で生態系が変わってる。
漁船から出す魚群探知機の電波によって、魚たちは逃げ出して行く、なんのことはない、人類の敗北の一場面。
自分たちがそこにいることで本当は海洋生物の生態の邪魔をしておるくせに、それを環境の変化や地球の変化のせいにして、恥の上塗りのように次の手を打つ、どう協力的に眺めて居っても、笑うしかない話だろう。
これが現代人の普通に行ってる、あらゆる惨状に言える。
一度でも良いから高い山の上から、狭いと言ってる日本の原風景を眺めおろしてみると良い、広いぞ。
人類の身勝手な屁理屈・自作自演なんてのは、ミジンコほどにも値しないと、肝から痛感させられるだろう。
生きて居って、上手く行かず、ヘマをして、みなに迷惑をかける、壁にあたり、絶望し、どうにもならんと天を見上げ・・・その繰り返しが俺の前半生なら、そこで必ず遊んでしまってた自分はなんだったのか? 誰に教えられたわけでもないのに、せっかくだからなんか愉しもう・・・そう想っていた自分がいた。
それが今の俺の原点でもある。
子供らをいろいろ育てて来て言えることは、幼稚園や学校に預けるのは自分が働かなければいけないから悪いのであって、本当ならいつも一緒にいていろいろと教えてやりたい、このことだった。
だから学校へ通い始めたなら、そのスケジュールを調整してでも、俺がなるべく一緒に遊んでいろんなことを見せてやり、教えてやり、社会とはそういうものだが、本当はこうなんだということを叩き込んでやって来た。
今の人間の世界では、幼児期の子育てはメスが必要だが、10歳前後になったなら、オスが必要になる。
現代社会という、愚かな人間の大人社会を教えてやるには、いつも高いところに登って見下ろしてる、仙人のようなオスが必要になる。
ところが今の親や爺婆を見てると金だけだして、あとは学校や他人にすべてを委ねている。
なにかが起これば金出してるからと叫んで責任を追及するだけ。
ダメだと思えばまた違う学校や他人を探してる。
なんか違うんじゃ~ないのか?
そう想って眺めてると、その親や爺婆は金だして自分の健康を買いに走ってる。
もう、どうしようもないね。
グループ登山する連中は、その日の行程については事前に聞いておるのが当たり前だけんども、俺が単独や数人と出掛けるときは、一応の目安は話すけんども、あとは行き当たりばったりで俺が決める。
縦走する場合でも、東にむかう予定が西になることもある。
それらぜんぶをオツムに入れておいて、その時々にそこで決める。
春に植えた食物が、秋に獲れる時に価格が上下してしまってては安心できないからと、春にその値段を決めてしまうような、先物取引では自然相手には遊べない。
山は一緒でも、登り下りのコースを変えるなんてザラだ。
俺はそういう自由さで、半世紀以上も生きて来てるから、最初に聞いた話と違う! なんて苦情も無い。
風まかせ、気分まかせ、山まかせ、地球まかせで、その時々の状況にまかせて、のんびり生きて居る。
登山口までの運転もおなじで、一応のコースは考えておっても、いつもなにかしら違う道になっている。
なにか必ず愉しい出会いがあり、なにか必ずアクシデントがあり、それによって変化する。
柔らかく生きてると言っても、良い。
屁理屈や固いことばかり言って、セオリーや安全と保障ばかり気にして、変わらないことがさも良いことのように考えてる人たちよりも、そういう意味では筋が通っている。
この週末は13万キロくらいしか走ってない山用の車を息子のひとりにとられてしまったから、25万キロ近く走ってるボロ車で出掛けるしかなく、混まないで、なおかつ道のある程度はしっかりした山、そうなってくると山梨か・・・。
山道ばかり走ってると、それぞれの県の道路行政の性癖みたいなもんがあることが解ってきて、乗る車に合わせた道を選ぶことも可能になる、これは相当に年季が入ってないと無理だろうな。
そろそろ、冬季閉鎖になる山道が出始めてる。