今年は、冬に咲くサクラの当たり年か・・・。
先日に歩き登った妙義山でも、冬桜がけっこう咲いておった。
神流の城峰公園や桜山公園では居並ぶ冬桜のライトアップもやっているが、この時期の奥山では、いがいにあちこちで冬桜は気持ち良く咲いている。
稜線で咲く小さな冬桜をマメザクラと呼んだり、山の中腹でポツンと咲いてる冬桜はヤマザクラと呼んだり、いろいろだけんども、総称して冬桜と呼ぶ。
葉がそろうまえに、小さく引き締まった花が咲く。
この時期に開花し、また来年の春に開花する。
なかにはずっと小出しに咲いてるサクラもいる。
欲張りなサクラではある。
・・・敷島の、大和心を人問わば、朝日に匂う、ヤマザクラ花・・・
我が国の奥山で、この時期の冬桜を見て読んだ句でもある。
春に咲くサクラではなくって、冬に咲くサクラをわざわざ大和心と言う、その意味は深い・・・。
この時期に早起きして奥山に咲くヤマザクラを見ておれば、その意味の一端でも解るだろう。
日の出前から、見て居れば良い。
・・・ということで、西上州は御荷鉾山流れの、1000mチョイの山々を静かに堪能してきた。
古い信仰の山々が連なっておって、山頂だけでなく、山腹にも朽ちた祠があちこちに佇んでいるような、そんな素敵で閑散とした山ばかりだった。
登山口まで登る道も悪路で、崖上から覗いている鹿の夫婦にしか会わず、歩いてるときでも人間とは会うことも無く、猪と熊と、そんな匂いだけの奥山歩きだった。
高速も珍しく空いておったから、帰りはライトアップされた城峰山と桜山に寄って夜桜見物も考えておった。
だから昼前までゆっくりしておいて、のんびり出掛けたわけだが、下道・裏道を使うこともなく、のんびり悠々だった。
熊出没注意ではなくって、熊が今でも棲んでいる山、そういう山は良い。
熊公が暮らす山は、実りがあり、静かで人間も近寄らず、忘れ去られたような時間がそこにはある。
先週に登った妙義山と違って、道も不明瞭な箇所が多く、積もった落ち葉に踏み跡も消され、のんびり歩くには道探しの愉しみもある。
道がなくとも、山はのんびりと上を目指す、楽しようと思えば地獄、あえて苦を選んで遠回りしておれば、思わぬ絶景がある。
遭難する奴らは、あえて苦を選ばず、楽してピークを往復しようとするからこそ、行き詰まる。
山や海で遊ぶときには、時間は考えないことが一番。
なにかに急かされたり、なにかに遠慮したり気を使ったり、これが一番おっかない。
人や獣が作る道は、不条理そのもの、だけんどもその山では意味がある、そう考えて歩けば尾根に出る。
そんなことをブツブツ独り言しながら、二・三度道に迷った。
葉の落ちた木々には熊棚が残ってるものもあって、熊公がそこでムシャムシャ実を喰った形跡があった。
・・・どれどれそんなに美味いなら、俺にも少しは残しておけよ・・・
1500m以下の低い山でも、360度の展望がある山への急登は大汗をかき、しばし呼吸を整えて山頂で温かいコーヒーを沸かして飲んでいると、下界から雲がモクモクと沸き上がってきて、急に風が出て冷え込んできたから、ダウンのベストを着こんで急いで片付けして歩き出した。
夕暮れ時の山は一気に冷える。
この頃はどんな山でも雪山装備をいつも担いでるから、別に雪になろうとも日が暮れようとも困らないけんども、それでも冷えるのは嫌だった。
痛めていた左膝はなんの違和感も無くなってた。
治ったかな・・・と油断するとまた痛みだすから、治ってはいないと想いながら丁寧に歩いた。
人の居ない山ばかり好んで登り歩いてると、無謀だとか怖いとか言われることが多いけんども、誰よりも慎重に丁寧に歩いてるのも、俺かも知れない。
その気が失せたら、山には入れないだろう。
いろんな山々の景色を眺めながら、今週末に行きたい山がまた浮かんできた。
帰路、予定通り城峰山と桜山に寄ってライトアップの下の冬桜を見て歩いたけんども、普通に奥山で見掛ける天然の冬桜のほうが、はるかに綺麗だと想ったのは、当たり前と言えば当たり前のことだったろう。