銀座の俺の店では、長年にわたって山で撮って来た写真を見ることが出来る。
暇な連中が一服しにやってきては、黙って眺めてることもあるくらいに、色々と見れる。
・・・良いな~
・・・素敵ね~
それを見て山に行きたいな~という話になっても、その景色を見る為に歩く道の9割は酷い道なんだよね・・・とは、なかなか言えなくなってる。
知識とは、知っていること、知っていないことはその人の思考や感情の起点にはならず、素敵な妄想に酔いしれてる人の前で、その妄想を木っ端みじんにするような話は出来ないのが本当さ。
素敵だったよ・・・の俺の素敵は、決してあなたの・・・素敵!・・・とはならないだろう。
不動産の仕事には守秘義務やら告知事項の説明やらいろいろあるが、告知事項とは殺人や自殺・孤独死があったとかいう内容が有名だけんども、鼻白む話でも、事実は事実として伝えなければ、違反行為になる。
その点、山の話では、ニコニコ笑って居れば済むことばかりだから、いちいち余計な話はしないのさ。
俺のまわりには人生経験の豊富な連中が多いから、笑って目を見合うだけで意味が通じることも多いが、経験や知識の足りない人がそこに居ると、その意味すら解らないだろうし、誤解や錯覚の元にもなる。
現代の大人社会とは、そういう行き違いがひじょうに多くなってるのも、行動しない大人が多いからなんだな。
テレビや新聞やネットのダダ洩れ情報だけで、生きてるつもりになってる、惨憺たるものさ。
行動してたって、そのネタや解釈は又聞きや創作が元になっておれば、触れてる対象も歪んでるんだろう。
学問が細分化されて小難しい話ばかりになるのは良いけんども、人間と言う生き物の通釈が出来る大人が減ってくると、人間社会はとても生き難くなってゆくさ。
人間の社会は歪んだ解釈に洗脳と煽動、これに満ち満ちている。
どんだけ多くの知識を身に付けても、その解釈や使い道を誤ると、なにも知らない無知よりもタチが悪くなる。
斜面の山ばかり歩いておると、平衡感覚がおかしくなることがある。
たまに立ち止まって、地球の重力の方向を確認する。
胸を張って、遠くを眺めて、確認する。
人間の社会でも、これは大事なことなんだよ。
今朝はこれから売買の決済・所有権移転に出掛ける。
まだ左の膝が完治しないが、天気図をまた眺めておるわいな。
コタツ布団を洗濯・乾燥しなきゃ~ならんから、山への道すがら、大型コインランドリーにも寄るか・・・。