オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

日本の昔話と皇室や、神や仏の嘘

2024-09-09 11:10:01 | 歴史に埋もれた真実

 

 

 飲食店が公共の路上にまで椅子やテーブルを持ち出して、外で飲食の提供をする景色は、40年くらい前に、アジアの後進国に毎月のように遊びに出掛けていた時代に見た景色とおんなじだ。

 これが日本の現実だ。

 いよいよアジアでも後進国と化して来た景色は、哀れなもんだと笑うしかない。

 俺には別に痛くも痒くもない景色だから、世の中社会なんざなるようにしかならないと笑って居る。

 大勢のお馬鹿がおれば、そっちの方に社会は向かうしかないのが、この島国の歴史であり常識だ。

 

 いつ行ってもいない、留守だ! と言われることが多いが、銀座に居る時は獅子奮迅の動きを続けて居る訳だから、介護に看病に仕事にナニやらアレやらと、ジッとしていることなど有り得ない。

 こんなところに書けない動きの方が多くなる。

 その辺のサラリーマンや公務員あがりの暇を持て余してる年金受給のボケ老人と一緒にすんなよ。

 運よく貰ってる年金だって、日常に毟り取られて自転車操業の輪の中で回ってるだけ。

 生かさず殺さずの輪の中で、他人と較べて上がったり下がったり、良かったり悪かったり、微々たる上下動に喜怒哀楽。

 老いた視界はどんどん狭められて枝葉末節で生きるだけ。

 そんな社会などどこ吹く風で、あっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ、関わり合いの範囲に際限がないから、皆さんが想像もつかない相手らと密談を交わしてたりする。

 ここは、大笑いするとこだ。

 理解など出来ない日常を、普通に送っている者の普通とは、あんたらの普通とはぜんぜんに違うということ。

 そもそも俺が自営を30代の半ばに無借金で始めたのは、その後を自由自在に好きに生きて行く為の食い扶持作りの手段であって、儲けようとか会社を大きくしようとか、名を売って有名になりたいとか、そんな猿の動機なんかではないわいな。

 売り上げが何十億円もあっても会社を大きくすることには興味もなく、別にナニをする訳でもなく、会社としては有限会社のまんま、借金・負債とは無縁だから銀行とも無縁で、悠々と自分の生きたいように生きて居る。

 自分の生きたいように生きることに稼ぎはいつも使い果たし、蓄えすら持たないように生きて居る。

 

  枝葉末節なことには真面目で真剣で努力を惜しまない日本人だが、大きな視点で世界や地球を見ることをしなくなったせいで、その日常は無駄な時間潰しに成り下がっている。

  与えられた問題の答えを考えて記入して提出する・・・誰に??

 試験対策と称して、模範解答を覚えて媚びを売る・・・誰に??

 良い成績を取るために勉強をし、目指す大学に入る為に勉強をし、常に褒めてもらって承認を得るための人生が始まって行く。

 学校のお勉強なんざ、その程度の奴隷の育成でしかない。

 東大や京大を出ていたって、他よりも凄いと認めてもらいたい、他よりも能力の違いを誇示したい、そうして世界的に認められたい・・・阿呆でしかない。

 ナニも無いところで、自分で命題を考え、自分で答えを探すために生きる。

 俺はそうやって66年を生きて来た。

 

 誰かに認めてもらいたいとか、誰かに褒めてもらいたいとか、名を売って社会から名誉な評価を受けたいとか、優勝したい金メダルが欲しいとか、一番になりたい負けたくないとか、興味の湧かない奴隷のゲーム。

 だから30代半ばで自営を始めた時は、いよいよ社会からすべて離れて生きて行けると愉しみしかなかった。

 馬鹿や阿呆とは距離を置いて、面倒なことからも距離を置いて、それで悠々と借金・負債に貸し借り無しで生きて行ければ、それで充分だった。

 あとは自分の命題作りと、解答を探す旅が俺の生きる意味になった。

 他と競う奴隷の闘技場からは姿を消したとも言える。

 会話が成り立たないジジィは、こうやって生きて来て出来上がってしまった。 

 

 さて、皇室や伊勢神宮や出雲大社にしても諏訪神社にしても、日本中の古い神社や寺院の由緒には、鉄などの鉱石を得てたたら製鉄で栄えていた山や川を近くに持っていたことが調べればすぐに解る。

 山名や川の呼び名や地名からも、それは解る。

 神や仏という、精神的な目に見えない偶像化ばかりを施して、現実からかけ離れた空想物語をたくさん語り継いで来たのは、そんな歴史を隠そうとする意図がある。

 何故だろう?

 現実こそ唯一の素敵なモノだろうに?

 それが俺には不思議でならない。

 

 人や国を治めるには、鉄や火などの地球由来のモノでは駄目で、稲穂や五穀豊穣という人間の営みの元を牛耳っているということが必要だと考えたんだろう。

 砂鉄が採れる海辺があり、そこでたたら製鉄が盛んになっただけでは刀や農機具だけが進歩するだけで、それを使って人々を脅し殺し恐怖の道具にして支配しようとした連中には、繰り返される残酷な現実とは別に、夢のような甘美な物語が必要だった。

 だからそんな荒々しいたたら製鉄で栄えた場所の近くには、必ずや今でも続く古い神社や寺院が残って夢物語が語り継がれて来ている訳だ。

 たたらという原始の製鉄が行われていた事実を封印するかのごとく、優しい物語がそれぞれに由緒として記されている。

 俺は、笑うしかない。

 高家神社という料理の神様を祀る社が南房総の千倉の方にあるが、包丁塚がある。

 残酷な殺し合いに使っていた刀ではなく、美味しい料理に使う包丁を祀る意味を考えるに、ここでも俺は笑うしかない。

 その周辺では砂鉄や鉱石は大量に採れ、鉄砂流しの跡が棚田になって、大山不動尊だとかが残り、素敵な物語に変わってしまってる。

 そこにも波の伊八の彫刻は遺っている。

 

 勉強や他の競い合い、食べてゆく為の競争に奪い合い、時間と借金に追われて視界を狭くさせられて、全体を見ることがなくなってる現代人は、一芸だけを真面目にこなしておればご褒美がもらえるシステムに満足しきっている。

 奴隷支配のマニュアル通りだろう。

 関わらず距離をおいていると、滑稽な社会は崩壊を続けて行ってる。

 政治でも金融経済でも、島国の社会のすべてを実地で関わって経験して見渡して生きてくると、現場での間抜けな争いすら馬鹿馬鹿しい時間潰しとガス抜きだと解ってくる。

 

 ということで、いろいろ歩き回って来たがな。

 庶民の大多数を祭りに参加させて狂わせておけば、嘘でも本当の話になっていたのが島国原住民の日常だったが、いまもそれは延々と続いておるがな。

 AIロボットや量子コンピューターが開発されている時代でも、だな。

 旨いモノも喰い、近くに行ったので前から好きだった旨い酢昆布も買って置いた。

 人間社会の現実だけを見て、ワザと封印の為に語られた歴史や人工の作りモノはすべて排除して、本当の話を俺の中では作り上げて行ってる。

 遺すことはしないし、俺自身が完結すればそれでエエ話や。

 



最新の画像もっと見る