コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

入店から2ヵ月後位だったと思います

2005-06-26 12:31:20 | Weblog
マ~と喧嘩した日の閉店後、
親父はコ~ちゃん、マ~と僕の3人をタクシーに乗せビヤホール連れて行ってくれました。
うろ覚えですが日劇の前に在る大きなビヤホールだったと思います。
僕はこれまで酒を飲みませんでしたが盛んに勧められました、でも飲みませんでした。
ソーセージとチーズを食べながらコーラとオレンジジュースを飲んでいました。

『君達が一生懸命働けば、ノレン分けをするつもりだから頑張って仕事を覚えてくれ』という様な事を親父は話しました。
この話は、僕が入店する時にも聞きました。

僕が中学生の時まで住んでいた近くに当時大きなお店が在りました。
そのお店には使用人が大勢働いていました、それも一生懸命にです。
そのお店に入ると将来ノレン分けをして貰えると言う話でした。
でもノレン分けは有りませんでした、この事で揉めたようです。

この話を聞いていたので親父のノレン分けの話を鵜呑みにはしていませんでした。

次の日の朝、仕込みのためにキャベツをコ~ちゃんと取りに行きました。
『コ~ちゃん、喧嘩が強いのか?今遣ろうか!』と僕。
『・・・・・』コ~ちゃん、これで決まりました。
コ~ちゃんは自分の好きな靴をくれました、
何故靴なのか、何故自分の持ち物をクレタのかは分りません。
でも茶色の紐が付いた履き心地の良い靴をくれたんです、
当時流行っていたIVが履く様な靴で、この靴は僕のお気に入りに成りました。
コ~ちゃんは、板橋の生まれでIVの格好をしていました、それが又似合うんです。
マ~は茨城出身で言葉にナマリが有りました。

この事が有ってから僕達3人は仲良しになり、
お互いを認め合い、カバイ有って仕事を覚えました。
コ~ちゃんかマ~と一緒に全日空ビルまで、
上天重60人前、ナメコ汁60人前をオカモチに入れ自転車で運んだのも良い思いでです。
1人が30人前、2段のオカモチを肩に担ぎ、
自転車のハンドルに15人前のナメコ汁をぶら下げ、片手ハンドルで車の渋滞している所を縫うように走るんですから命懸けでした。
何度も転びそうになったのを必死で堪えたのを覚えています、転んだらどうなっていたのでしょうか?

閉店後3人で銭湯に行き、11PMを観るのが楽しみでした。

又育ち盛りの僕達3人は、シャリを炊く時目で合図をしてワザとオコゲを作り、
醤油をかけておにぎりを作り板前にも分けて食べたものです。

コ~ちゃんは酒好きで出前の途中で酒を飲む事が度々有ったようです。
ある日コ~ちゃんは寒いからと言って新橋の駅前に在る養老の滝で出前途中で酒を飲み、
酔っ払ってしまい寝込んだようです。
店に電話があり親父が迎えに行きました、
酩酊して謝っているコ~ちゃんを何回も親父は殴ったと後からマ~に聞きました。
これが原因でコ~ちゃんは店を辞めました。

コ~ちゃん、マ~と仲良しになり仕事が楽しくなり始めた、入店2ヵ月後位の事でした。