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日記(1.29)木鶏

2018-01-29 09:52:46 | 日常
1月28日  (月曜日)   晴れ

新聞余録に・・・

昔、闘鶏を育てる名人が王に頼まれて鶏を預かった。
敵の声や姿に興奮したりするうちは使いものにならない。

 どんな敵にも無心になり、やっと最強の闘鶏が完成した。

 まるで木でできた鶏。中国の故事に由来する
木鶏(もっけい)」である。

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▲今から79年前の大相撲1月場所で、横綱・双葉山は連勝が69で止まった。

友人が心中を気遣って「サクモヨシチルモマタヨシサクラバナ」と電報を打つ。

   咲くも良し散るも又良し桜花
双葉山はこう返電した。
「イマダ モッケイタリエズ フタバ」

▲双葉山の著書「相撲求道録」には相撲道を究めようとする厳しい姿勢が表れている。
 片や今の角界は、昨年の元横綱・日馬富士による暴行事件が裁判でひとまず決着したものの、
 波風が収まらない。

▲理事から降格された貴乃花親方と日本相撲協会との確執が続く。
 2月に予定される協会の理事候補選挙を巡り、勢力争いに注目が集まる。

 そんな協会の現状は「木鶏」の精神からほど遠い。

▲不祥事が相次いでもチケットは売り切れるが、いつどうなるか分からない。

 作家の吉川英治が人気絶頂の双葉山を交え食事をした時のことを書いている
 あちこちから声がかかり、ちやほやされる。

 「低い所から落とせば欠けない物を
       勝手に高所までさし上げて行って落とすのが人気の特質である」

  人気とは恐ろしい。
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▲今場所、一人横綱となった鶴竜はどんな思いで千秋楽を迎えただろう。
 吉川が孤高の双葉山にしたためた一句がある。
    
   <江戸中で一人さみしき勝角力(かちずもう)>

    角界を支える綱のなんと重いことか。

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(蛇足)
 双葉山 「われ未だ木鶏たりえず」

冒頭の言葉は、不世出の大横綱「双葉山」が69で連勝がストップした日の夜(1939年1月15日)、師と仰ぐ安岡正篤に打電した電文として知られています。
 木鶏とは木で造った闘鶏のことで、『荘子』に出てくる鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かで  あったことから、不動心」の象徴と考えられています。

 69連勝から70年余り経った2010年、横綱白鵬が60連勝して、
 双葉山の名前が再び取り上げら始めましたので、
 日本の国技「相撲」の大横綱、双葉山をネットで勉強。
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双葉山の生い立ち
●双葉山定次(さだじ)は1912年2月9日生 - 1968年12月16日没(56歳劇症肝炎で)。
 大相撲の第35代横綱。大分県宇佐郡(現在の宇佐市下庄)出身。
 身長179cm、体重128kg。)血液型はA型でした。
 「木鷄」を目標に相撲道に精進し、
 本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。
 年2場所の時代を考えればとてつもない偉業でした。
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●少年時代は成績優秀で普通に出世を目指しており、
 相撲に元々はそれほど気持ちを入れていたわけではなかった様です。
 しかし、父親の事業(海運業)が失敗したり、兄が早世し
 妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男として父の手伝いをしながら逞しく
 育てられたようです。

右目はほぼ失明、右手の指も・・・

5歳の時、吹矢が右目に当たった負傷が元で右目が半失明状態だったことや、
 右手の小指が不自由(事故で2度の重傷)といったハンデを抱えながらの
 相撲人生であったことはあまり知られていません


●右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては
 霞んだり物が二重に見えたりしていた程度でしたが、
 やがてほとんど見えなくなったそうです。
 なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っています。
 対戦力士の側にも、
 「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている
  といった証言が多く残されています。

●安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右目の方向から攻められています。
 右目が見えないことは非公開でしたが、当時の関取・笠置山の談話によると
 「我々は皆、
    双葉山の右目のことを知っており、
         当然そこを狙って作戦を立てていた」とのことでした。
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入門当時は目立たない力士

●1927年、才能を見出した県警の双川喜一部長(のち明治大学専務理事)の世話で立浪部屋に入門。
 同年3月場所初土俵。
 四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から付けられました。
 さらに入門の際に世話になった双川氏の1字も含まれました。

●入幕以前は目立った力士ではなく、成績は4勝2敗が多く
 (当時幕下は1場所6番)大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく、
  元横綱栃木山から、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたと伝えられています。

きっかけは蓄膿症治療

●1935年蓄膿症の手術を機に体重が増え、
 それまでの取り口が一変したと言われています。
 立合い、「後の先をとる」を地で行き相手より
 一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、
 右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになったようです。

●1939年1月場所4日目(1月15日)、前頭4枚目安藝ノ海に敗れるまで69連勝を記録。
 69連勝は…1936年(昭和11年)1月場所7日目~1939年(昭和14年)1月場所3日目。
 同場所4日目に前頭4枚目安藝ノ海に敗れました。

無理に出場し連勝ストップ

●1939年1月場所、前年の満州巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、
 体調も最悪だったので、双葉山は当初、休場を考えていたようです。
 しかし、力士会長の横綱玉錦が虫垂炎を悪化させて急死した(双葉山が2代目会長になった)為、
 責任感の強い双葉山は強行出場しました。

●この場所、前頭3枚目安藝ノ海に敗れて連勝が止まると5日目同4枚目両國、
 6日目同3枚目鹿嶌洋と3連敗し、
 9日目には玉錦の跡を継いだ小結玉ノ海に敗れ計4敗を喫したと記録されています。

潔い土俵態度

●どんな相手に対しても同じような態度で臨んだとされています。
 力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、
 相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、
 1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)といわれ、
 立ち会いの乱れが叫ばれる今日の相撲界の手本とされています。

●双葉山が無駄な動作を嫌い、土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためですがが、
「勝負師は寡黙であれ」や「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ」との双葉山の言葉にもこうした土俵態度が表現されています。

双葉山人気で15日制へ延長
●双葉山が三役に上がった1935年頃は一場所の取組日数は11日でしたが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となりました。
●現在では、15日制への移行で力士への負担が増えたなどという人がいますが、双葉山は「相撲ぐらい怪我をしないスポーツはない」といって後輩を鍛えたそうです。また「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」や「相撲は体で覚えて心で悟れ」との言葉が力士の間で伝えられているようです。

相撲協会理事長としても活躍
●1957年5月に出羽海理事長自殺未遂事件の後に相撲協会理事長に就任し、相撲協会構成員(年寄、行司等)65歳定年制の実施や、部屋別総当り制の実施、相撲茶屋の再編と法人化などの改革に尽力しました。。
●また自身は年寄時津風として1横綱(鏡里)、3大関(大内山、北葉山、豊山)等数多くの名力士を育成しました。弟子の青ノ里の話では1953年(41歳)にはまだ自ら弟子に稽古をつけていたそうです。
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