1月26日(水曜日)晴れ
少し気温が上がって2桁に。随分楽だ。
群馬の上毛新聞の記事にトンガとの交流邑楽町
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昨夏の東京五輪・パラリンピックでホストタウンでもあった
▼1993年は記録的な冷夏だった。低温と日照不足が続き、
農作物は大打撃を受けた。
とりわけコメは本県をはじめ全国で凶作。
国産米が品薄になり、外国米を緊急輸入する事態になった。
「平成の米騒動」と聞けば思い出す方も多いだろう
▼冷夏をもたらしたのは91年のフィリピン・ピナトゥボ火山の噴火だ。
成層圏に達した二酸化硫黄などが太陽光を遮り、地球全体の平均気温が0.5度ほど下がったとされる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★冷夏の原因がピナトゥボ火山の灰の影響であったとは知らず1996年に
仕事で出かけたフィリピン。首都マニラから強盗などの防御のため
専属のドライバーと車でピナツボの噴火で埋まったパンパンガ州を迂回して
サンフェルナンド⇒タルラックの街まで・・通常3.5時間で着くらしいが
この時は雨期も重なって大渋滞と灰の上に川が出来て、8時間以上の道のりになった。
苦痛であった。噴火から5年を経ても一向にかたづかない灰(ラハール)であった。
それほど凄い今世紀最大の爆発だったんだなあ!と記憶をたどっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼南太平洋・トンガ沖で15日に起きた海底火山の大噴火は、
このピナトゥボ火山以来の規模とみられる。
トンガ政府によれば降灰と津波の被害が深刻で、
人口の8割超が被災したという。
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▼邑楽町「おうらまち」はいち早く支援に動き、
日本トンガ友好協会に見舞金を贈った。
昨夏の東京五輪・パラリンピックでホストタウンとなり、
大会後も文化交流の催しを開くなど、
関係を深めていたことが素早い行動につながった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★邑楽町は当時三洋電機「現パナソニック」のラグビーチームがあり。トンガの有名選手も
活躍していた「日本代表のナンバー8”ラツウ”は有名だ」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼国際社会からの救援物資は届き始めたところで、生活を取り戻すには時間がかかる。
町の担当者は「住民をはじめ、企業や団体とのネットワークも生かして
支援の輪を広げていければ」と話す。
▼心配される気候への影響については今のところ、
ピナトゥボ火山噴火に比べて限定的との見方が出ている。
ただ詳しい解析はこれからで、私たちの暮らしに影響するかもしれない。
日本には111の活火山があることも忘れてはならない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
地方紙の記事に
日本人の「島国根性」に疑問を投げ掛け、
「日本文化には国際性がある」と説いたのは日本文学研究者の
故ドナルド・キーンさん(講演集「日本を寿(ことほ)ぐ」)。
古くは遣隋使や遣唐使。中世以降はヨーロッパからもあらゆるものをためらいなく取り入れた。
~~~~~~~~~~
日本人のその姿に、決して排他的だったとは思えないと。
確かに漢字や仏教をはじめ、見渡せば外国由来のものが根付いている。
壁をつくらず多くの国と関わってきた先人たちに思いをはせる。
そんなキーンさんが「とにかく長すぎた」と言うのが「鎖国」だ。
外国人との付き合いが一番少ない時代。
独自の文化も発展したが、国粋主義が生まれてしまったとも。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
新型コロナの世界的流行でここ2年、
日本は外国人の新規入国をほぼ閉ざしている。
2019年に3千万人を超えていた訪日客は
2021年、24万人にまで激減。
★1964年の統計開始以降最少だ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まるで鎖国との声が聞こえる中、
苦境に立たされているのが留学や語学指導で来日を希望する若者たち。
将来日本との懸け橋になりうる存在だが、
留学先を変更したり赴任を断念したりする事態になっているという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
政府は先ごろ、国費留学生で卒業などに支障が出る場合のみ例外的に入国を認めるとした。
対象はわずか87人。
オミクロン株の拡大で厳格な水際対策は致し方ない面もあろう。
ただもう少し道を開く手だてはないものか。
日本の国際性が試されるときでもある。
=================================
★中学生に戻って
日本の鎖国の期間は正確に何年から何年までですか?
鎖国は、段階的に行なわれましたが、最後の鎖国令が出され、
ポルトガル船の来航を禁止したのは1639年、島原の乱が終わった翌年です。
家光の時らしいが・・
開国も、どこから開国かというと難しいのですが、
1853年にペリーが1回目の来航をしていますが、
和親条約を結んで,下田と箱館への入港を認めたのは、翌54年です。
ただ、日本の社会に大きな影響が出るのは,
58年に修好通商条約を結んで貿易が始まってからなのですが。
そんなわけで強いて言うならば、
1639年から1854年でいいのではないでしょうか。
200年以上だから・・
~~~~~~~~~~~~
ついでに言うと「いい国作ろう鎌倉幕府、1192年鎌倉幕府成立」とか
覚えますが、
鎌倉幕府の成立年代にもいくつか説があります。
1192年は頼朝が征夷大将軍になった年ですが、
例えば、守護・地頭を設置した年など、他の時点で鎌倉幕府が成立したという説もあります。
時間があったら調べてみると面白いかも..
★今NHKで鎌倉殿の13人も始まったので興味深く見ていこう。
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ちなみに、種子島に初めてポルトガル人がやって来てから
鎖国の完成までが約100年、
その後,ペリーが開国を求めて来航するまでが約200年です。
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★本当に長かったんだなあ~実質300年。

群馬の上毛新聞の記事にトンガとの交流邑楽町
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昨夏の東京五輪・パラリンピックでホストタウンでもあった

▼1993年は記録的な冷夏だった。低温と日照不足が続き、
農作物は大打撃を受けた。
とりわけコメは本県をはじめ全国で凶作。
国産米が品薄になり、外国米を緊急輸入する事態になった。
「平成の米騒動」と聞けば思い出す方も多いだろう
▼冷夏をもたらしたのは91年のフィリピン・ピナトゥボ火山の噴火だ。
成層圏に達した二酸化硫黄などが太陽光を遮り、地球全体の平均気温が0.5度ほど下がったとされる。
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★冷夏の原因がピナトゥボ火山の灰の影響であったとは知らず1996年に
仕事で出かけたフィリピン。首都マニラから強盗などの防御のため
専属のドライバーと車でピナツボの噴火で埋まったパンパンガ州を迂回して
サンフェルナンド⇒タルラックの街まで・・通常3.5時間で着くらしいが
この時は雨期も重なって大渋滞と灰の上に川が出来て、8時間以上の道のりになった。
苦痛であった。噴火から5年を経ても一向にかたづかない灰(ラハール)であった。
それほど凄い今世紀最大の爆発だったんだなあ!と記憶をたどっている。
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▼南太平洋・トンガ沖で15日に起きた海底火山の大噴火は、
このピナトゥボ火山以来の規模とみられる。
トンガ政府によれば降灰と津波の被害が深刻で、
人口の8割超が被災したという。
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▼邑楽町「おうらまち」はいち早く支援に動き、
日本トンガ友好協会に見舞金を贈った。
昨夏の東京五輪・パラリンピックでホストタウンとなり、
大会後も文化交流の催しを開くなど、
関係を深めていたことが素早い行動につながった。
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★邑楽町は当時三洋電機「現パナソニック」のラグビーチームがあり。トンガの有名選手も
活躍していた「日本代表のナンバー8”ラツウ”は有名だ」
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▼国際社会からの救援物資は届き始めたところで、生活を取り戻すには時間がかかる。
町の担当者は「住民をはじめ、企業や団体とのネットワークも生かして
支援の輪を広げていければ」と話す。
▼心配される気候への影響については今のところ、
ピナトゥボ火山噴火に比べて限定的との見方が出ている。
ただ詳しい解析はこれからで、私たちの暮らしに影響するかもしれない。
日本には111の活火山があることも忘れてはならない。
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地方紙の記事に

日本人の「島国根性」に疑問を投げ掛け、
「日本文化には国際性がある」と説いたのは日本文学研究者の
故ドナルド・キーンさん(講演集「日本を寿(ことほ)ぐ」)。
古くは遣隋使や遣唐使。中世以降はヨーロッパからもあらゆるものをためらいなく取り入れた。
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日本人のその姿に、決して排他的だったとは思えないと。
確かに漢字や仏教をはじめ、見渡せば外国由来のものが根付いている。
壁をつくらず多くの国と関わってきた先人たちに思いをはせる。
そんなキーンさんが「とにかく長すぎた」と言うのが「鎖国」だ。
外国人との付き合いが一番少ない時代。
独自の文化も発展したが、国粋主義が生まれてしまったとも。
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新型コロナの世界的流行でここ2年、
日本は外国人の新規入国をほぼ閉ざしている。
2019年に3千万人を超えていた訪日客は
2021年、24万人にまで激減。
★1964年の統計開始以降最少だ。

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まるで鎖国との声が聞こえる中、
苦境に立たされているのが留学や語学指導で来日を希望する若者たち。
将来日本との懸け橋になりうる存在だが、
留学先を変更したり赴任を断念したりする事態になっているという。
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政府は先ごろ、国費留学生で卒業などに支障が出る場合のみ例外的に入国を認めるとした。
対象はわずか87人。
オミクロン株の拡大で厳格な水際対策は致し方ない面もあろう。
ただもう少し道を開く手だてはないものか。
日本の国際性が試されるときでもある。
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★中学生に戻って
日本の鎖国の期間は正確に何年から何年までですか?
鎖国は、段階的に行なわれましたが、最後の鎖国令が出され、
ポルトガル船の来航を禁止したのは1639年、島原の乱が終わった翌年です。
家光の時らしいが・・
開国も、どこから開国かというと難しいのですが、
1853年にペリーが1回目の来航をしていますが、
和親条約を結んで,下田と箱館への入港を認めたのは、翌54年です。
ただ、日本の社会に大きな影響が出るのは,
58年に修好通商条約を結んで貿易が始まってからなのですが。
そんなわけで強いて言うならば、
1639年から1854年でいいのではないでしょうか。
200年以上だから・・
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ついでに言うと「いい国作ろう鎌倉幕府、1192年鎌倉幕府成立」とか
覚えますが、
鎌倉幕府の成立年代にもいくつか説があります。
1192年は頼朝が征夷大将軍になった年ですが、
例えば、守護・地頭を設置した年など、他の時点で鎌倉幕府が成立したという説もあります。
時間があったら調べてみると面白いかも..
★今NHKで鎌倉殿の13人も始まったので興味深く見ていこう。
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ちなみに、種子島に初めてポルトガル人がやって来てから
鎖国の完成までが約100年、
その後,ペリーが開国を求めて来航するまでが約200年です。
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★本当に長かったんだなあ~実質300年。