白州次郎という人物について僕が知っている内容は、
インターネットの記述と幾つかの書籍の内容である。
彼が生涯を通じて車好きであった事はよく知られている。
* 神戸一中時代から車が趣味で、英国留学時代は油まみれで愛車をいじってはレースに参加したり長距離ドライブに興じたりしており、友人たちから「オイリーボーイ」と呼ばれていた。次郎の車好きは晩年まで続き、ベントレー3リッターやブガッティタイプ35、ポルシェ911Sなど数々の名車を所有していた。
* ゴム長を履き自らランドローバー・シリーズ1を運転して各地のダム建設現場を回り、土産持参で飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。
以下、(書籍)白州次郎占領を背負った男、北康利(著)の372、373ページより引用。
若き日、オイリーボーイと呼ばれた次郎は晩年まで車を愛し続けた。生涯に乗った車は50台を下らないだろうと言われている。
70年代、六八年型ポルシェ911Sに乗っていた。パワステもなくクラッチもブレーキも重いが、走りとスピードに徹底的にこだわった車だった。この年式のエンジンは一九〇〇CCだったが、わざわざ二四〇〇CCのエンジンに積み替えている。パワーアップしてブレーキディスクは耐えられるかなど細かいチェックを行ったあと、自分でアルミ板を2.4切り抜いてボディーに貼り付け悦に入っていた。ロビンから送られた赤いドライビング.グラブをはめてハンドルを握るのが最高の喜びであった。
...
家族のすすめもあって、八〇歳をもってハンドルを握るのはやめにしたが、車に対する情熱が冷めたわけではなかった。
トヨタの豊田章一郎社長からソアラの新型を開発しているという話を聞き、さっそく現行のソアラを購入した次郎は、気のついた技術的な問題を書いて送った。
そこで豊田社長は、
『いつも車のことで文句を言うおじいさんがいる。私が聞いても仕方ないから、開発担当の君が行って会ってきなさい。』
と、新型ソアラの開発責任者.岡田稔弘に白州次郎担当を命じた。
一九八〇年、その岡田に ポルシェを目指せ!と激励し、
愛車のポルシェ911Sをぽんと提供した。
...以上引用終わり。
本を閉じて...、
この白州次郎について書かれた本の中で一番印象に残った言葉、
ポルシェを目指せ!
これは彼の遺言でもある。
彼が愛用していたポルシェ911Sは1968年型である、それを彼は80歳の歳まで愛用した。彼が80歳の西暦は1982年であった。1970年代2代目ポルシェはモデルチェンジを行いパワーも性能も向上し市場には新型のポルシェが存在していた。
しかし白州次郎氏は70年代も、
1968年のナローポルシェに乗り続けた。
即ち、彼が『ポルシェを目指せ!』と言ったのは、
当時(1980年代初頭)のポルシェ930ではなくて、
ナローと呼ばれる初代の911であったのだ。
...と僕は思っている。
ドライビンググラブ(手袋)をはめて、細く硬いステアリングを握る。
これが最高の喜びであった。
もしも、現在彼が生きていたとすると、
彼は最新のポルシェのステアリングを握る事が出来るであろう。
レクサスSC(ソアラ)のステアリングも握るであろう。
Nissan GT-R さえも...。
しかし、
彼は今日もまだ言うのではないだろうか?
(ナロー)ポルシェを目指せ、と。
そして、
彼は1968年型のポルシェ911Sを、
手にグローブをはめて乗っているのではないだろうか?
そういう気がする。
あくまで、これは僕の妄想だが...
なぜなら、それは、
Princeple (プリンスプル)。
*「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
現在の車に無くて1968年のポルシェ911Sにあるもの、
それは、プリンスプル。
即ち、ポルシェを目指せ!とは、
プリンスプルのある車という事。
プリンスプルを備えた車の一つが、初期型ポルシェ911S。
プリンスプルの形(実体)、それは1968ポルシェ911S。
と、理解してもいいかな?