茶道に関する記事に、茶道暦が長いというレフティさんからコメントをいただきました。
左利きということで敬遠されている方にも、楽しんでもらえる会を、という内容です。
私は大賛成です。
改めて、左利きと伝統的な芸能や芸事等について考えたことを書いてみました。
【コメントをいただいた記事】――
2012.8.16
左利きとマナー(7)茶道~左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii325号
「新生活」版
◎内容の概略――
(あ)現代の茶道は、明治以降、女子教育の場に進出するという形で、変化に対応することで生き延びてきた
(い)昔のように左利きが忌避されてきた時代から左利きは左利きで良いとされる時代への変化を踏まえて、それに対応する作法を考える時期に来ているのではないか
(う)伝統を重んじつつも、この時代にふさわしい姿に変容する必要がある
(え)形式のための形式、そんな形式を守るためだけの作法ではなく、身体の変化に対応できる形式による心のこもった作法でありたい
*(注)「身体の変化」とは、利き手の問題だけでなく、ケガや高齢化に伴う身体の故障等で茶道を行う人が、正座が出来ない等の従来の作法を履行できない状態をいいます。
基本的に私の意見は上記のものと変わりませんが、お返事代わりに、茶道並びに日本の伝統的な芸事や武道等について、今回改めて私が考えたことを書いてみます。
●「形」よりも「心」を
茶道そのものは、日本のよき文化だと思います。
岡倉天心の『茶の本』など読みましても。
ですので、多くの方が親しむべきだろうと思います。
ただ、日本のこういう古典芸能とか文化においては、
「形」を重んじるあまり、「心」がおろそかにされているのでは? という印象があります。
「形」は大事ですが、必ずしも一つではないのではないでしょうか。
茶道でも最近では、椅子で行うやり方もあると聞いています。
外国人など「畳に正座」に慣れていない方や、高齢化もあり足や腰に支障がある人にも楽しんでもらえるように、という配慮のようです。
基本は定まっていても、参加者や状況に応じて臨機応変に対応を変える、という融通をきかす度量もあってよいように思います。
「左利き」というだけで敷居の高さを感じて辞めてしまう人がいるなら、その人にとっても、日本文化の継承者の皆様方にとっても残念なことでしょう。
ですから、「左利きの人のためのお茶を楽しむ会」のような催しの開催には大いに期待します。
●「右手」の作法から「利き手」の作法へ
初心者と、たとえば師範のような上級者では、
どういう風に取り組むか、は同じでなくてもよいと思うのです。
特に「まずは茶道それ自体を知ってもらう」という、ごくごく入口に立つ人たちには、必要以上に「形」にとらわれなくてもいいように思います。
「形」から入るというのは、初心者には都合のいい面もあるのです。
ただ、日本の伝統的な古典芸能や武道などでは、「右使い」が基本になっている場合があります。
書道でもそうですが、昔は「字は右手で書くもの」と、「常識」として固まっていました。
左手で書くのは、ケガ等で右手が使えなくなった人だけ。
実際には、巧みに書いてしまえば、どちらの手で書いたか分からない場合もあります。
それでも、「まずは右手で」というのが常識でした。
近年では、書家や書道家の先生方の世界では、どうかよく知りませんが、少なくとも小学校のレベルではどちらの手で書いてもいい、という状況になってきています。
それが本来の姿ではないか、と私は考えています。
「書きたい方の手で」「使いやすい方の手で」というのが、原則として通用する世の中になってほしいものです。
茶道も同様です。
「形」の上では、「右手で」という作法の規定を「利き手で」に変えるだけで、「心」の部分――本質は変わらないと思うのですが、どうでしょうか。
それで万人が受け入れられる芸能や芸術になるのなら、誰にとっても嬉しいことではないでしょうか。
抵抗勢力(?)として、「右」の作法の「形」としての美しさを訴える人もいるかもしれません。
しかし、「左」の作法にも美しさはあると思うのです。
要は、見慣れているかどうかの違いではないでしょうか。
昔は「利き手」の性質がどういうものかを理解できず、多数派の右利きによる右使いが作法として規定され、「右手」が作法になっていたのでしょう。
一方、左利きについての偏見から左利きが忌避され、左使いは邪道とされたのでしょう。
今では、「利き手」の違いが脳・神経組織の違いにあると知られ、誰もが一様に「右へ習え」とは行かないことが分かってきました。
そういう背景を考慮すれば、「右手」の作法から「利き手」の作法に切り替えてゆくことが自然なのではないか、という気がします。
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『レフティやすおのお茶でっせ』より転載
左利きと茶道および日本の伝統的芸能や武道について考えたこと
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左利きということで敬遠されている方にも、楽しんでもらえる会を、という内容です。
私は大賛成です。
改めて、左利きと伝統的な芸能や芸事等について考えたことを書いてみました。
【コメントをいただいた記事】――
2012.8.16
左利きとマナー(7)茶道~左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii325号
「新生活」版
◎内容の概略――
(あ)現代の茶道は、明治以降、女子教育の場に進出するという形で、変化に対応することで生き延びてきた
(い)昔のように左利きが忌避されてきた時代から左利きは左利きで良いとされる時代への変化を踏まえて、それに対応する作法を考える時期に来ているのではないか
(う)伝統を重んじつつも、この時代にふさわしい姿に変容する必要がある
(え)形式のための形式、そんな形式を守るためだけの作法ではなく、身体の変化に対応できる形式による心のこもった作法でありたい
*(注)「身体の変化」とは、利き手の問題だけでなく、ケガや高齢化に伴う身体の故障等で茶道を行う人が、正座が出来ない等の従来の作法を履行できない状態をいいます。
基本的に私の意見は上記のものと変わりませんが、お返事代わりに、茶道並びに日本の伝統的な芸事や武道等について、今回改めて私が考えたことを書いてみます。
●「形」よりも「心」を
茶道そのものは、日本のよき文化だと思います。
岡倉天心の『茶の本』など読みましても。
ですので、多くの方が親しむべきだろうと思います。
ただ、日本のこういう古典芸能とか文化においては、
「形」を重んじるあまり、「心」がおろそかにされているのでは? という印象があります。
「形」は大事ですが、必ずしも一つではないのではないでしょうか。
茶道でも最近では、椅子で行うやり方もあると聞いています。
外国人など「畳に正座」に慣れていない方や、高齢化もあり足や腰に支障がある人にも楽しんでもらえるように、という配慮のようです。
基本は定まっていても、参加者や状況に応じて臨機応変に対応を変える、という融通をきかす度量もあってよいように思います。
「左利き」というだけで敷居の高さを感じて辞めてしまう人がいるなら、その人にとっても、日本文化の継承者の皆様方にとっても残念なことでしょう。
ですから、「左利きの人のためのお茶を楽しむ会」のような催しの開催には大いに期待します。
●「右手」の作法から「利き手」の作法へ
初心者と、たとえば師範のような上級者では、
どういう風に取り組むか、は同じでなくてもよいと思うのです。
特に「まずは茶道それ自体を知ってもらう」という、ごくごく入口に立つ人たちには、必要以上に「形」にとらわれなくてもいいように思います。
「形」から入るというのは、初心者には都合のいい面もあるのです。
ただ、日本の伝統的な古典芸能や武道などでは、「右使い」が基本になっている場合があります。
書道でもそうですが、昔は「字は右手で書くもの」と、「常識」として固まっていました。
左手で書くのは、ケガ等で右手が使えなくなった人だけ。
実際には、巧みに書いてしまえば、どちらの手で書いたか分からない場合もあります。
それでも、「まずは右手で」というのが常識でした。
近年では、書家や書道家の先生方の世界では、どうかよく知りませんが、少なくとも小学校のレベルではどちらの手で書いてもいい、という状況になってきています。
それが本来の姿ではないか、と私は考えています。
「書きたい方の手で」「使いやすい方の手で」というのが、原則として通用する世の中になってほしいものです。
茶道も同様です。
「形」の上では、「右手で」という作法の規定を「利き手で」に変えるだけで、「心」の部分――本質は変わらないと思うのですが、どうでしょうか。
それで万人が受け入れられる芸能や芸術になるのなら、誰にとっても嬉しいことではないでしょうか。
抵抗勢力(?)として、「右」の作法の「形」としての美しさを訴える人もいるかもしれません。
しかし、「左」の作法にも美しさはあると思うのです。
要は、見慣れているかどうかの違いではないでしょうか。
昔は「利き手」の性質がどういうものかを理解できず、多数派の右利きによる右使いが作法として規定され、「右手」が作法になっていたのでしょう。
一方、左利きについての偏見から左利きが忌避され、左使いは邪道とされたのでしょう。
今では、「利き手」の違いが脳・神経組織の違いにあると知られ、誰もが一様に「右へ習え」とは行かないことが分かってきました。
そういう背景を考慮すれば、「右手」の作法から「利き手」の作法に切り替えてゆくことが自然なのではないか、という気がします。
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『レフティやすおのお茶でっせ』より転載
左利きと茶道および日本の伝統的芸能や武道について考えたこと
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