南斗屋のブログ

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寛政12年9月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年09月19日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年9月朔日(1日)(1800年)
朝から晴曇り。夜も同じ。朝六つ後、勇武津(ユウブツ)出立。コイトイで中食。七つ頃白老に着。道のり九里。仮屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はユウブツ(勇払;苫小牧市)〜白老(白老町)。道のり九里(約36キロ)。白老まで戻ってきました。あと10日で函館に、来月下旬には江戸に到着する予定です。チーム伊能は淡々と旅程をこなしています。編集としてはラストスパートです。

勇払会所の跡 to 白老会所跡

勇払会所の跡 to 白老会所跡



寛政12年9月2日(1800年)
朝から雨天。五つ頃出立。大風雨。アイロで中食。濡れた衣服を干し、身を温める。アイロから三里三町でポロベツへ七つ半後着。ずぶ濡れ。白老からポロベツは七里六町。会所に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は白老(白老町)〜ポロベツ(登別市幌別町)。七里六町(29キロ弱)。一日中雨。大風雨。中食時に濡れた衣服を干し、身を温めることはできましたが、その後も雨の中を進んだのでずぶ濡れ。

白老会所跡 to 登別市役所

白老会所跡 to 登別市役所



寛政12年9月3日(1800年)
朝から曇天、四つ頃から小雨、その後曇天。朝五つ前に母衣別(ポロベツ)を出立。鷲別(ワシベツ)で小休止。八つ過ぎエトモに着。道のり五里。会所に止宿。風向きがよくないためエトモから先の渡船は止め、アブタまで陸行することとした。
 なお、悪消(アツケシ)の御詰合の役人へ次のような伺いを出していた。
「江友(エトモ)に着きました。順風でありましたら、江友(エトモ)からサハラへ渡船させてください。風がない場合は、アブタへ回ります。」
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
 本日の旅程はポロベツ(登別市幌別町)〜エトモ(絵鞆;室蘭市)。道のり五里(約20キロ)。エトモには港があり、順風であれば渡船を考えていたからです。が、風向きが良くないため、陸行することとなりました。

登別市役所 to 絵鞆漁港

登別市役所 to 絵鞆漁港



寛政12年9月4日(1800年)
朝曇り、四つ前より晴天。太陽の南中を測る。九つ半頃から曇る。本日七つ後に、三橋藤右衛門様(ご用人武藤貫三殿、大塚一郎殿)8月19日付書状及び長嶋新左衛門殿よりの添状が、エトモの旅宿に届けられた。夜晴天であり、測量を行った。(エトモに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日はエトモに逗留。往路ではエトモではなく、モロランに泊まっていました。エトモもモロランも現在は室蘭市です。
三橋藤右衛門(の御用人)からの書状が届きました。忠敬に天文の来歴の書付を提出するようにというもの。お偉いさんからの宿題ですので、測量旅行中ですが、レポートを作成しないわけにはいきません。
 三橋藤右衛門のレポート依頼等は、長いので別のブログ記事にて。

三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す - 弁護士TKのブログ

【三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す】(はじめに)今回紹介する書簡は、寛政12年(1800年)の9月4日付測量...

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寛政12年9月5日(1800年)
朝から曇天、夜小雨。朝五つ前江友(エトモ)を出立。モロラン(室蘭)へ渡海。そこから六里陸行し、暮六つ頃阿武多(アブタ)に着。会所は普請中であるので、仮家に止宿。悪消(アツケシ)から江友(エトモ)留で出した先触を箱館留めに直して出した。なお、本日ヲサルベツで中食。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はエトモ(絵鞆;室蘭市)〜アブタ(虻田;洞爺湖町)。うちエトモからモロラン(室蘭)までは船で渡海です。アブタの会所は普請中。往路のアブタでは会所に止宿してしたので(6月13日条)、往復している間に会所の普請が始まったようです。

絵鞆漁港 to 洞爺湖町立虻田小学校

絵鞆漁港 to 洞爺湖町立虻田小学校


寛政12年9月6日(1800年)
朝から曇天、夜も曇る。朝五つ前、アブタ出立。ベンベで中食。七つ頃レブンゲに着。道のり五里。仮家・本家に分かれて止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はアブタ(虻田;洞爺湖町)〜レブンケ(豊浦町礼文華)。朝五つ前(午前8時)出立、七つ頃(午後4時)着。道のりは五里(約20キロ)。仮家・本家に宿泊。往路での宿泊は詰合出役の小屋等と記されていましたので(6月11日条)、別の建物ができたようです。

洞爺湖町立虻田小学校 to 豊浦町立礼文華小学校

洞爺湖町立虻田小学校 to 豊浦町立礼文華小学校



寛政12年9月7日(1800年)
朝から晴天、昼後から雲る。朝六つ後(レブンケを)出立。三里十七町三十間行ったシツカリで中食。そこから三里三町、七つ頃小砂満辺(オシヤマンベ)に着。川欠けで会所が打ち崩れて普請中であるため、仮屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はレブンケ(豊浦町礼文華)〜オシヤマンベ(長万部町)。往路のオシヤマンベでは、会所に宿泊していましたが、水害にあって会所が壊れてしまいました。川欠けとは、洪水や水流で堤防などが壊れることをいいます。

豊浦町立礼文華小学校 to 長万部町役場

豊浦町立礼文華小学校 to 長万部町役場


レブンケ〜オシヤマンベ間には「新道峠にかかる大難所」があり、往路ではそのことに触れられているのですが(6月10日条)、復路ではスルーされています。


寛政12年9月8日(1800年)
曇晴れ、夜は晴れ。朝六つ半頃(オシヤマンベを)出立。二手に分かれ、私と(平山)宗平・(伊能)秀蔵は船に乗り、門倉隼太・(佐原)吉助は陸路を行き、七つ前山越内に着いた。甚之丞方へ止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はオシヤマンベ(長万部町)〜山越内(八雲町山越)。チーム伊能にしては珍しく二手に分かれて別行動。メンバーの名前が全員記されています。これも珍しい。

長万部町役場 to 八雲町立山越小学校

長万部町役場 to 八雲町立山越小学校



寛政12年9月9日(1800年)
六つ前小雨、六つ半後に雨はやむ。その後曇天、夜は晴れ。朝六つ半頃(山越内を)出立。ヲトシベで中食。七つ頃ワシノキに着。五里八町又は五里半か。同所で止宿。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日の旅程は山越内(八雲町山越)〜ワシノキ(森町鷲ノ木)。忠敬は天気の記載や距離については細かく日記に記載し、その関心ぶりが窺えますが、地名は往路と復路の表記が統一していないものがあり、結構大雑把。この点は枚挙に暇がありませんが、今回の「ワシノキ」(往路では「鷲ノ木村」)もその一つ。当時はそれが普通だったのでしょうかね。

八雲町立山越小学校 to 森町立鷲ノ木小学校

八雲町立山越小学校 to 森町立鷲ノ木小学校


寛政12年9月10日(1800年)
朝から少晴れ、夜も同じ。朝六つ後出立。スクノツペで中食。七つ半大野へ着。鷲木(ワシノキ)から大野まで道のり八里半。止宿。途中一ノ渡の村上嶋之丞殿へ立ち寄るが、不在であった。夜、村上氏が来られた。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は鷲木(森町鷲ノ木)〜大野(北斗市)。道のりは八里半(約34キロ)。ついに大野村に到着。大野村は函館から約20キロの距離です。函館は目前です。

森町立鷲ノ木小学校 to 大野小学校前

森町立鷲ノ木小学校 to 大野小学校前


村上嶋之丞。蝦夷地エキスパートの一人で、間宮林蔵の師匠。本日の旅程の途中にある一ノ渡(北斗市市渡)に居住しており、大野までは約2キロですが、わざわざ忠敬を訪ねてきました。
往路でも忠敬は村上と会っています(6月1日条)。


当時の蝦夷地としては比較的栄えていました。ここを1811年に通過したゴローニン(ゴロヴニン)が大野村のことを「日本幽囚記」で書き残しています。

1810年代の大野村(現北斗市) ゴロヴニン「日本幽囚記」より - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉ゴローニン事件で幕府に拘束されたゴローニンは、「日本幽囚記」という著作を残しており、岩波文庫に収められています(岩波文庫では著者を「ゴロヴニン...

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帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)

2022年09月12日 | 伊能忠敬測量日記
帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記)

(はじめに)
 伊能忠敬の測量日記に記載されている箱館からの先触及び添触を紹介します。

【寛政12年9月12日付先触】
 同日の日記に「先触の写しは以下のとおり。本日箱館町役人へ渡した。」とあり、次のように記されています。
(先触れ)
一 馬  二疋
一 人足 三人
 蝦夷地測量の御用のため、来る十四日上下五人箱館町を出立し、三厩まで通行します。お定めの賃銭を支払うので書面の人馬をご用意ください。いささかの遅滞もなく差し出し、継立てすること、かつ渡船・渡海・川越え・止宿についても、差支えのないようにお願いいたします。 以上
 申九月十二日  伊能勘解由 印 
        右村々
          名主 年寄 中
泊り順
十四日 茂戸地  十五日 知リ内
十六日 福嶋   十七日 松前町
 雨天の場合は、逗留もありうるので、そのような心得のもと取り計ってください。

(この先触れの背景)
 伊能忠敬測量チームは、8月7日にこの測量旅行での最北端(かつ最東端)のニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。ここから折返して復路となり、
9月11日に箱館(函館)に着きました。ニシベツからの添触(幕府役人発行の人馬徴用を認める書面)は箱館までであったことから、箱館以降の添触が必要となりました。

(先触の内容)
 先触の作成者「伊能勘解由」は伊能忠敬のこと。隠居してからは「勘解由」を名乗っていました。
 「測量の御用」ということで公用の旅でることを明らかにしています。公用の旅では、馬及び人足を用立てることを村の役人等に要請することができます。「お定めの賃銭で用立てください」というのは、伊能忠敬の第一次測量では人馬の費用を忠敬自信が負担せざるを得なかったからです(幕府は忠敬に一部援助)。
 人馬だけではなく、渡海・川越え・止宿についてもサービスの提供を受けることができました。宿泊は、夜具は宿泊所から提供を受けられますし、三食賄付き。昼食は弁当です。
 次に添触の写しを紹介します。

【御添触れの写し】
一 本馬 二疋
一 人足 三人
 書面の人馬は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人の伊能勘解由が、蝦夷地の御用のために使うので、本人の申し出があり次第、お定めの賃銭で用立てるように。いささかの遅滞もなく差し出し、継立てすること、かつ渡船・渡海・川越え・止宿についても、差支えのないようにするように。以上
 申九月 寺田忠右衛門 判
     水越源兵衛  判
 箱館から松前、松前から津軽三厩 奥州道中、千住宿まで
 右宿々の名主・問屋・年寄


(この添触の背景)
伊能忠敬は、寛政12年9月11日の日記で次のように書いており、「江戸へ帰る際の添触」が上記の内容です。
〈朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。〉

(添触について)
 添触の作成名義は、箱館御番所の役人です。内容はほとんど先触と変わらないので、先触の内容を公証する役割を果たします。先触と添触で内容が異なっていてはダメなのです。
 先触と違うのは、伊能忠敬が何者かということを紹介している点。「伊能勘解由は、津田山城守の知行所である下総国佐原村の元百姓で今は浪人である」となっており、この時点では伊能忠敬は幕府の役人にはなっていません。それでも測量の仕事は公用として認められていました。
 今風にいうと、伊能忠敬はフリーランス(浪人)であって、公務員(幕府の役人)ではないのですが、伊能忠敬の測量プロジェクトは幕府の公認で、幕府が同事業を委託し、必要経費の一部を助成金として交付するということになりましょうか。

(参考文献)
「蝦夷地での伊能忠敬の先触等〜幕府直轄後の宿駅制における〜」(堀江敏夫・「伊能忠敬研究第31号」2003年)

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1810年代の大野村(現北斗市) ゴロヴニン「日本幽囚記」より

2022年09月10日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
ゴローニン事件で幕府に拘束されたゴローニンは、「日本幽囚記」という著作を残しており、岩波文庫に収められています(岩波文庫では著者を「ゴロヴニン」としているので、以下この表記で統一)。ゴロヴニンは国後島で拘束され、函館まで連行されるのですが、函館に近い大野村(現・北海道北斗市)のことを描写していますので、その記載をご紹介します。

【ゴロヴニン「日本幽囚記」より】
〈大野村はこれまで通過してきた村のうちでもっとも大きい。
周囲は25~30露里(2.6~3.2㎞)に及ぶ広大な渓谷の中にある。
村は三方を高い山に囲まれ、寒い風を防ぎ、南側には函館湾と津軽海峡がある。
渓谷には流れの早い多数の河川が灌いでいる。
大野村はいわば庭園の中にあるようなもので、どの家にも広々とした菜園や庭園がついている。
西洋の普通の野菜類のほかに、林檎や梨や桃のような果樹も見え、その上ところどころ大麻や煙草や稲も見えた。
大野は函館から約7露里(7.5㎞)のところにある。〉

(コメント)
・国後島から大野村まで連行されてきたゴロヴニンは、大野村がもっとも大きな村でったと記しています。函館にも比較的近く栄えていた村でありました。
・江戸時代に大野村と呼ばれていた地域は、昭和に大野町となりましたが、平成の大合併で北斗市となり、「大野」は地名としては消えてしまったようです。小学校の名前などに「大野」の名前が残っています。
・函館からの距離は、ゴロヴニンによると約7露里(7.5㎞)というのですが、函館元町公園(当時の箱館奉行所)〜大野小学校までは18キロあり、約7露里(7.5㎞)とは計算が合わないので、これはゴロヴニンの勘違いでしょうか。
https://maps.app.goo.gl/QVdWzi2R24U1PMhm9
・大野村は伊能忠敬も蝦夷地測量で通過しています。宿泊地でもありました。なお、忠敬は、大野村から函館までの道のりは五里(約20キロ)としています(9月11日条)。
寛政12年9月11日
朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。




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三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す

2022年09月04日 | 伊能忠敬測量日記
【三橋藤右衛門、蝦夷地測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課す】

(はじめに)
 今回紹介する書簡は、寛政12年(1800年)の9月4日付測量日記に記載されているものです。
 伊能忠敬は、閏4月19日に江戸を出立。測量しながら北海道に入り、8月7日にニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。ここから折返し、測量をしながら江戸に向かい、9月4日にはエトモ(絵鞆;室蘭市)に着きます。旅宿に着くと書状が届いていました。
「本日七つ後に、三橋藤右衛門様(ご用人武藤貫三殿、大塚一郎殿)8月19日付書状及び長嶋新左衛門殿よりの添状が、エトモの旅宿に届けられた。」(9月4日条)
 三橋藤右衛門の書状は、北海道測量旅行中の伊能忠敬に天文の来歴のレポートを課すという書状です。三橋藤右衛門様の勉強熱心のためとはいえ、なかなかに無茶ぶりです。
 まずは、三橋藤右衛門ご用人からの書状を紹介します。

【三橋氏ご用人からの書状】
一筆啓上致します。ご壮健のこと、またご旅行もご無事のことと存じます。
ところで、天文の来歴を唐土紅毛(中国・オランダ)からの伝来も含めてお書きいただき、三橋様にお見せいただくようお願い致します。このことは(三橋)藤右衛門が拙者どもに仰せつけられたことです。江戸に帰りになるまでのうちに認めて、ご提出いただくようくれぐれもよろしくお願い致します。
八月十九日
    三橋藤右衛門内
       大塚一郎
       武藤貫三
 伊能勘解由様

(解説)
 三橋藤右衛門のご用人(家来)からであり、主人の意向を伝えるものです。8月19日付、この年は寛政12年(1800年)です。レポートの内容は、「天文の来歴を唐土紅毛(中国・オランダ)からの伝来も含めて書きなさい」というものです。日本だけではなく、世界的な視野でという注文がつけられています。
 レポートの期限は「江戸に帰りになるまでのうちに認めてご提出」というもので、測量をしているのに、それに加えてレポートを作成せよという注文はなかなか過酷です。
 三橋藤右衛門は、本名を三橋成方(なりみち)といい、幕府の旗本。寛政8年(1796年)3月8日勘定吟味役に昇進。寛政10年(1798年)幕府はロシアの南下を受けて180名からなる蝦夷地巡察隊を組織し、成方は責任者として蝦夷地へ派遣され、西蝦夷地を巡見。11月半ばに江戸に戻った後、翌寛政11年1月には蝦夷地取締御用掛を命じられ、同12年4月から9月まで箱館に詰めています。
 伊能忠敬にレポート作成を指示していることからすると、忠敬の蝦夷地測量の件については三橋藤右衛門もかなり絡んでいるのかもしれません。
 それにしても、測量旅行中のレポート作成の指示は無茶ぶりという気がします。レポートの内容は、これまでの暦の来歴というものであり、江戸に帰ってから書かせてもよい内容ですし、旅先の伊能忠敬は何の文献も参照できないのですから。
 それに比べると、このあとご紹介する長嶋新左衛門からの書状は忠敬への配慮が感じられます。この書状は、三橋氏ご用人からの書状に添えられていたものですが、白老出立の日の大風雨を気遣い、長嶋新左衛門の性格が表れています。
 長嶋新左衛門殿は白老詰合の御普請役であり(6月17日条)、出張の際は留守支配人への指示により、伊能忠敬らに会所本陣での宿泊をさせてくれた方です(6月19日条)。

【長嶋新左衛門殿からの書状】
寛政12年9月4日付(1800年)
道中ご安全にご旅行をされておられることと存じます。先日、御止宿なされましたが、早々にお立ちになられまして、お構いもできず申し訳なく思っております。白老をご出立の日(九月二日)は、大風雨になってしまい、難渋なされたのではないかとお察しいたします。その日は私も出立の予定でしたが、風雨のため出立を見合わせ、翌三日に母衣別(ホロベツ)に着きました。
 さて、武藤貫三殿から用向きの書状が届いておりましたので、当方で伊能様にお渡しするように手配させていただきました。無事届き、ご意向に沿うようになられるとよいのですが。以上
九月四日 長嶋新左衛門
伊能勘解由 様

(9月2日の大風雨)
 この書状で9月2日の大風雨について触れてありますが、忠敬は以下のように日記に記しています。長嶋新左衛門が出立を見合せた中に先を進んだチーム伊能でした。

寛政12年9月2日(1800年)
朝から雨天。五つ頃出立。大風雨。アイロで中食。濡れた衣服を干し、身を温める。アイロから三里三町でポロベツへ七つ半後着。ずぶ濡れ。白老からポロベツは七里六町。会所に止宿。

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寛政12年8月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年08月31日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年8月21日(1800年)
朝から晴れる、霜降る、蒙気多し、夜薄曇り。朝六つ半後出立。ルベシベツにて中食。行路は山多く、海岸少なし。五里廿四町でサルルに七つころ着。本番屋に止宿。往路と帰路では追分から道を異にし、海岸からサルルに入ったので、難所となった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はビロウ(広尾町)〜サルル(猿留;えりも町目黒)。難所。昭和初期に「黄金道路」と呼ばれる道路が作られるまでは難を極めていたルートです。

会所前 to 日高目黒郵便局

会所前 to 日高目黒郵便局


黄金道路について。黄金道路のいわれは、「まるで黄金を敷き詰められるほど、建設に莫大な費用が掛かった道路だ」とのこと。

風のまち「えりも」観光ナビ| 黄金道路

風のまち「えりも」観光ナビ


寛政12年8月22日(1800年)
朝曇天、後中晴れ、夜曇天。朝六つ半サルルを出立し、アツヒで中食。道のり六里廿七町で、七つ半ホロイヅミに着。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルル(猿留;えりも町目黒)〜ホロイヅミ(幌泉;えりも町)。道のり六里廿七町(約27キロ)。猿留山道(現在は国指定史跡)を通ったはずです。往路では「山坂多く難所」との所感あるも、復路では記載なし。淡々とした記事です。

日高目黒郵便局 to えりも町立えりも小学校

日高目黒郵便局 to えりも町立えりも小学校

寛政12年8月23日(1800年)
朝曇天、暮に至って微雨あり。朝六つ半に出立。海岸三里ホロマンベツで中食。そこから新開山道の難所三里半。この間大小の峰を越えること六、七回。海辺へ出、半里ほど歩き、暮六つ前にシヤマニ着。道のりは七里。夜は雨。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はホロイヅミ(幌泉;えりも町)〜シヤマニ(様似町)。七里(約28キロ)。「新開山道の難所三里半。この間大小の峰を越えること六、七回。」とあり、今回の測量旅行中最大の難所。

えりも町立えりも小学校 to 様似会所跡

えりも町立えりも小学校 to 様似会所跡

往路の日記では、今回の測量旅行中最大ののボリュームで描写されていました。
往路の難所の様子(7月2日条)

難路に苦しむ伊能忠敬 寛政12年(1800年)7月2日付の測量日記 - 弁護士TKのブログ

(はじめに)今回紹介するのは、寛政12年(1800年)7月2日付の測量日記です。伊能忠敬は、閏4月19日に江戸を出立。測量しながら北海道に入り、5月2...

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寛政12年8月24日(1800年)
朝から曇り、九つ頃より晴れ、後また曇る。夜も四つ頃まで薄曇り。夜深晴、測量(天体観測)(シヤマニ逗留)。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
シヤマニに逗留。逗留の理由は書いていません。昨日の難路の疲れを癒すためでしょうか。夜の天体観測は、土地の緯度を知り、地上測量による誤差を補正するためのものです。忠敬は「測量」と書いていますが、現代語訳では(天体観測)と補いました。

寛政12年8月25日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝五つ前にシヤマニを出立。道のり三里で午の時にムクチに着。中食はなし。会所脇の新宅に止宿。ミツイシの詰合宮本源次郎殿が御出役であった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシヤマニ(様似;様似町)〜ムクチ(浦河町)。「会所脇の新宅」に宿泊。ミツイシの詰合の役人(宮本源次郎)が会所に泊まるため、チーム伊能はその脇の新宅の方に泊まらざるをえなかったようです。

様似会所跡 to 浦河町立堺町小学校

様似会所跡 to 浦河町立堺町小学校

寛政12年8月26日(1800年)
朝から暮に至るまで晴天。朝五つ前ムクチ出立。浦川にて中食。七つ前にミツイシに着。道のり五里。会所に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント) 
本日の旅程はムクチ(浦河町)〜ミツイシ(三石;新ひだか町)。往路のミツイシでは仮屋に止宿していましたが(6月26日条)、復路では「会所に止宿」と待遇が良くなりました。ミツイシ詰合の宮本源次郎殿がムクチに出張中で(8月25日条)、会所が空いていたからでしょう。

浦河町立堺町小学校 to 新ひだか町立三石小学校

浦河町立堺町小学校 to 新ひだか町立三石小学校

寛政12年8月27日(1800年)
朝から夜に至るまで快晴。朝六つ半前ミツイシを出立し、ウセナイで中食。七つ前ニイカップに着。道のり六里半。粗建ての新宅で、造作や壁がないところに止宿。夜大いに寒し。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はミツイシ(三石;新ひだか町)〜ニイカツプ(新冠町)、道のりは六里半(約26キロ)。造作や壁がないところに宿泊で、夜はひどい寒さ。往路では快適だったのに。〈「会所に止宿。詰合から親切に応対いただいた。」(6月24日条)。〉

新ひだか町立三石小学校 to 新冠会所跡と3基の墓石

新ひだか町立三石小学校 to 新冠会所跡と3基の墓石

寛政12年8月28日(1800年)
朝から夜に至るまで快晴。朝五つ前に出立し、アツベシで中食。七つ前サルモンベツに着。道のり六里。この夜、御詰合の比企市郎右衛門殿から御酒をいただく。(佐原の)領主津田公からご依頼があったとのご挨拶があった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はニイカツプ(新冠;新冠町)〜サルモンベツ(門別;日高町)。道のり六里(約24キロ)。詰合は比企殿で往路同じ。今回は酒食の饗応あり(往路では「仮家に止宿」)。態度の変化は、佐原の領主津田公の忠敬推しがあったからです。上からの押しに弱い役人の世界というのは、200年前も同じです。

新ひだか町立三石小学校 to 新冠会所跡と3基の墓石

新ひだか町立三石小学校 to 新冠会所跡と3基の墓石

佐原の領主津田公(津田山城守)について。このとき西丸小姓組番頭を務めています。西丸小姓組は、江戸幕府の徳川将軍直属の親衛隊で、小姓組のひとつ。任務は将軍の世継ぎの住居で、また禅譲後の住居である江戸城の西の丸を守ること。出世コースの足がかりとなるポスト(田沼意次は、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢されたことで出世した)。

寛政12年8月29日(1800年)
朝から四つ半ころまで白雲、後晴れ、夜は快晴。朝六つ半前に出立。四里十二町行きムカハで中食。七つ後ユウブツに着。八里三十町。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はサルモンベツ(門別;日高町)〜ユウブツ(勇払;苫小牧市)です。道のりは八里三十町(35キロ強)。往路のユウブツでは、医師の月輪安濟と大司馬伊織と面会したことや、石狩川の話しを記録していたのですが(6月21日条)、復路はユウブツでの記事は全くありません。帰りを急いでいるかのような忠敬の日記です。 https://maps.app.goo.gl/yboUBQMbk9zm2w7h8

日高町役場 本庁 to 勇払会所の跡

日高町役場 本庁 to 勇払会所の跡


8月30日
#伊能忠敬 #測量日記 はお休みです。
寛政12年8月は小の月であり、30日はありませんでした。

8月31日
旧暦31日は存在しないため、 #伊能忠敬 #測量日記 はお休みです。






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寛政12年8月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年08月25日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年8月11日(1800年)
朝曇天、霧あり、四つ頃より雨天。朝五つ頃ノコベリベツ出立。ヤブイニで中食。その後、雨で強風。船に乗るが、大風雨でずぶ濡れ。七つ頃アツケシへ着く。夜五つ後に雨やむ。道のりは七里という(岡が五里、海川が二里)。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はノコベリベツ〜アツケシ(厚岸町)。道のりは七里(約28キロ)。雨で強風の中、船に乗ったためずぶ濡れ。その後の陸路も雨の中。

浜中町円朱別会館 to 北海道厚岸翔洋高等学校

浜中町円朱別会館 to 北海道厚岸翔洋高等学校

当時の厚岸(アツケシ)の様子。
「寛政3年(1791年)に記された『東蝦夷道中記』には、厚岸場所の産品として、ラッコ・アザラシ・シカの皮、熊胆、ワシの羽、干さけ、魚油、干たら、にしん、塩カキ、塩くじらなどがあげられている。生産高およそ3千石とあり、近年になって昆布も生産されるようになったと記されている。」

寛政12年8月12日(1800年)
朝曇り、四つ前から晴天。先触れを出す。(平山)宗平をバラサンに登らせ、ヲアカン、メアカンを測量させる。(アツケシに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアツケシ(厚岸町)に逗留。同所からエトモ(絵鞆;室蘭市)までの先触れが出されています。先触の内容は、馬二匹、人足三人を用立ててほしいというもの。この要請は往路と同様です。先触れは長いのでブログに書きました。

先触れ ニシベツからアツケシ、アツケシから箱館ま(伊能忠敬・測量日記) - 弁護士TKのブログ

(はじめに)以前、伊能忠敬測量で、函館〜国後までの先触、添触を紹介しました。伊能忠敬測量日記にみる先触・添触(寛政12年5月)-弁護士T...

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「(平山)宗平をバラサンに登らせ」とあり、厚岸にあるバラサン岬に若者を登らせています。眺望のあるところで測量させるためでしょう。道は今でも荒れているということなので、当時はかなり大変だったのではないかと思います。国泰寺は文化元年(1804年)に設置されているので、忠敬が訪れたときはまだありません。

寛政12年8月13日(1800年)
朝から曇天。朝六つ半ころアツケシを出立。乗船し海を渡って、四つ半頃善宝地に着く。アツケシから海上三里で善法地である。そこから直ちに出立し、シヨンデキで中食。七つ半頃コンブムイに着。善法地からアツケシまでは五里。暮から雨、夜に入って大雨。本番屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はアツケシ(厚岸町)〜コンブムイ(昆布森;釧路町)。往路では善法地(ゼンホウジ)〜アツケシの船の手配がうまくいかず、善法地に逗留せざるをえませんでしたが、復路は船の手配も万全で一気にコンブムイまで来ました。海上三里+五里=八里(約32キロ)。

北海道厚岸翔洋高等学校 to 昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所)

北海道厚岸翔洋高等学校 to 昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所)



寛政12年8月14日(1800年)
朝曇り、五つ前出立するも小雨。四つ頃止んで曇天。干潮を利用して、海岸を通る。難所。新道も少し通る。四里の道のりである。八つ過ぎクスリに着。会所で一緒になった客と座敷で止宿。御詰合菊池宗内殿と面談した。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はコンブムイ(昆布森;釧路町)〜クスリ(釧路;釧路市)。四里(約16キロ)。滅多に愚痴らない忠敬が、往路では「遠い」と嘆いたルート。海岸を干潮時に通る必要あり(満潮時には通れない)。復路では「難所」とだけ記しています。
整備されたルートだと一日40キロを平気で歩く忠敬が、現代のルートで15キロのところを「遠い」というのですから、難所のほどがしれます。

昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所) to 釧路市役所

昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所) to 釧路市役所

 

寛政12年8月15日(1800年)
朝曇天。五つ頃出立。四つ頃から九つ頃まで少晴れ。八つ頃から霧が深く、暮にかけて甚だしい。夜大曇り。七つ半頃(シラヌカに)着。クスリからシラヌカまで七里。会所に止宿。今日の行路は海岸ばかりであった。中食はヲタノシケにてとる。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はクスリ(釧路;釧路市)〜シラヌカ(白糠町)。七里(約28キロ)。ひたすら海岸を通るルートであったようです。往路のシラヌカでは、八王子千人同心の吉田元治と天文談議をしたことが記載されていたのですが、復路では特記事項がありません。 https://maps.app.goo.gl/xhvzWkDwWNf62T4o9

釧路市役所 to 白糠町役場

釧路市役所 to 白糠町役場



寛政12年8月16日(1800年)
朝五つ前少晴れ、五つ後より霧がでて深暮に至る。朝五つ出立。海岸三里廿四町を行き、九つ半後シヤクベツに着。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシラヌカ(白糠町)〜シヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)。三里廿四町(15キロ弱)。「海岸を行き」とあり、ひたすら海岸を歩くルート。

白糠町役場 to 尺別信号場(旧尺別駅)

白糠町役場 to 尺別信号場(旧尺別駅)



寛政12年8月17日(1800年)
前夜より風雨が続いており、(シヤクベツに)逗留。雨は午前中には止み、夜は晴れ。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はシヤクベツ(現・釧路市音別町尺別)に逗留。シヤクベツから先は川が合流している地点を通らねばならず、増水の危険もあります。雨の中を行くのは危険との判断でしょう。

寛政12年8月18日(1800年)
朝から中晴れ、夜も同じ。朝六つ半に出立。道のり七里でシユツベツ・キナウシ両川が合している。水量が多く、本道は通行できない。道なき山を登って難所を通り、至峻の山を下りて海岸へ出る。アツナイの岬では岩に登る。平地に下りたところで中食。そこからヲコツペの難所を越え、海岸を歩行し、七つ時にヲホツナイに着。仮屋止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシヤクベツ(尺別;釧路市音別町尺別)〜ヲホツナイ(豊頃町大津)。グーグルマップ上では38キロ。シヤクベツから七里(28キロ)の川の合流地点から本道通れず。昨日の雨で増水したため。迂回し、道なき山を登り、至峻の山を下ります。さらにヲコツペの難所、海岸の歩行。いやはや大変です。

尺別駅跡 to 豊頃町立大津小学校

尺別駅跡 to 豊頃町立大津小学校


本日の止宿地ヲホツナイ(豊頃町大津)ですが、河鍋暁斎の「絵馬カムイノミの図」があります。河鍋暁斎(1831~1889)は、幕末から明治初期にかけて江戸の日本画壇で活躍した人物。絵馬は、アイヌの人々の生活風俗を主題として描いており、当時十勝場所の漁場持を努めていた福島屋杉浦嘉七の配下の船頭によって、明治5年(1872)に大津稲荷神社に奉納されたものと推測されています。

絵馬カムイノミの図 文化遺産オンライン



寛政12年8月19日(1800年)
霜大いに降り、地は凍って寒し。天気は晴れだが、蒙気多し。夜もまた曇晴れ。朝六つ半に出立。ユウトウで中食。海岸六里十一町行き、七つ頃トウブイに着。仮家に止宿。冷気のため蚊が一切いない。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はヲホツナイ(豊頃町大津)〜トウブイ(大樹町)。「地は凍って寒し」と冬のような気候です。ニシベツからUターンする決断が早かったのは正しかったようです。

豊頃町立大津小学校 to 當縁神社

豊頃町立大津小学校 to 當縁神社


「昼夜に蚊が甚だ多く難儀している。昼でも蚊帳がないとしのぎ難い。」(7月14日条)と書いていたのに、わずか一ヶ月で「冷気のため蚊が一切いない」までに。湿気は多いのですが、地が凍るほどですから、蚊もいなくなってしまいました。

寛政12年8月20日(1800年)
大霜で道路は悉く凍る。水たまりも凍って、氷の厚さは一、二分ほどある。朝から中晴れ、蒙気多く夜も同じ。朝六つ半頃出立。モンベツで中食。海岸を七里〇六町行き、七つ半頃ビロウに着。仮家に止宿。ここは鰤多し。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はトウブイ(当縁;大樹町)〜ビロウ(広尾町)。道路も水たまりも凍る寒さ。「ビロウは鰤多し」。これまで日記では産品・食材へ言及ほとんどなく、このような記載は珍しい。食べ物にさほど興味ないのでしょう。

當縁神社 to 会所前

當縁神社 to 会所前



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寛政12年8月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年08月15日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年8月朔日(1日)(1800年)
朝から晴天、午の刻に太陽の南中を測る。八つ後より曇る、夜は晴れ。御役所に御用状を出すついでに、江戸への書状を届けていただくようお願いする。同心の丹羽氏は本日もアツケシにおられた。(アツケシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
チーム伊能が測量を行っているのは、前年に幕府が直轄とした東蝦夷地。この領域では宿駅制度が行われていますので、幕府公用であれば、前触・添触で人馬の供給を受けられる仕組みが整っています。書状の伝達もこの仕組みで届けられ、忠敬の書状も宿駅間をリレー式で運ばれて江戸に到達することになります。

寛政12年8月2日(1800年)
朝から曇天、夜から暁まで大風雨。五つ前出立。入海と川を二里渡り、そこからさらに二里行ってヤブイに着く。中食。そこから三里ノコベリベツに着。合わせて七里。ここはアツケシ持ちの番屋である。同心の関谷氏も同伴された。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、アツケシ(厚岸町)〜ノコベリベツ(浜中町)。日記では「合わせて七里」とあり約28キロ。ノコベリベツは浜中町円朱別としました。角川日本地名大辞典では「(近世)江戸期から見える地名。東蝦夷地アツケシ場所のうち、釧路地方東部、風蓮川支流ノコベリベツ川流域。」とあり、特定には至っていないのかもしれません。

北海道厚岸翔洋高等学校 to 浜中町円朱別会館

北海道厚岸翔洋高等学校 to 浜中町円朱別会館




寛政12年8月3日(1800年)
朝少晴れ、昼晴曇り。朝五つ前に出立、三里余り行き、ヲイナヲシにて中食。そこから三里程行き、八つ半頃アンネベツに着。夜晴天、測量(天体観測)。番屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、ノコベリベツ(浜中町)〜アンネベツ(浜中町姉別)。本日は「番屋」に泊まっています。番屋には、番人の詰所という意味と、ニシン・サケ漁などの漁夫の泊まる小屋の意味がありますが、ここでは後者の意味でしょうか。ノコベリベツも番屋であり(8月2日条)、この辺りはまだ建物が整備されなかったのかもしれません。

浜中町円朱別会館 to 浜中町立姉別小学校跡

浜中町円朱別会館 to 浜中町立姉別小学校跡



寛政12年8月4日(1800年)
朝から晴天、午の刻に太陽を測る。八つ後より曇る、夜は薄曇り。アンネベツはネモロの管轄である。ネモロより迎えの船を待つ。測器をしまうが、風の関係で船が来ない。(アンネベツに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアンネベツに逗留。アンネベツ(浜中町姉別)はこの当時ネモロ(根室)管轄でした。チーム伊能は船で根室に行く予定ですが、ここでも風待ち。やはり渡船はこの時代風待ちがつきものです。

寛政12年8月5日(1800年)
朝から晴天、午の刻に測量。七つ過ぎから夜は曇天。この日も(ネモロからの)迎え船は来ず。(アンネベツに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
アンネベツ(浜中町姉別)三泊目。今日もネモロ(根室)からの迎え船は来ません。
チーム伊能、我慢の日々です。このような時でも愚痴も言わず、淡々と日記を書き続けるのが伊能忠敬流。


寛政12年8月6日(1800年)
朝から晴天、昼に太陽を測る。七つ頃ネモロの御詰合がニシベツに御出役につき、ニシベツから迎船が来た。諸器具をしまって乗船の用意をしたが、遅い時刻に船が着いたので、引き続き(アンネベツに)逗留。夜は少し曇る。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日もアンネベツ(浜中町姉別)逗留。四泊目。ネモロ(根室)からの船を待っていましたが、今日も来ず。一方、ニシベツ(別海町本別海)からの迎え船が来ました。このままネモロからの迎船を待っていても埒が明かないと判断したのでしょう、ニシベツに向かうことにしました。しかし、着船が遅く、出航は明日に。


寛政12年8月7日(1800年)
朝から四つ頃まで霧深し、後晴天。朝五つ後に出立。川船で三里余りフウレントウに着く。そこから草原平地を十町ばかり行き、海岸に出て、さらに二十七町余りでニシベツに九つ過ぎ着。仮家に止宿。なお、ニシベツはすべて仮家である。夜晴れ、測量す(続)。
#伊能忠敬 #測量日記

(承前)ネモロの御詰合がニシベツに御出役されており、ネモロへ行きたいとのお伺いを立てる。「現在ネモロは鮭引網漁の最中で会所には誰もいない。」と仰られた。よって、ここニシベツから引き返すこととした。八つ後からクナシリ島、ネモロ等の方位を測る。ニシベツに逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。忠敬としては、通り過ぎてしまったネモロ(根室)に行き、さらにクナシリ(国後)までも行きたかったのですが、鮭漁猟で人手が少なく、送迎の船が手配できないようでは、為すすべがありません。ここニシベツが、伊能忠敬最北端かつ最東端の地となりました。ツイートは日記を要約しています。フルバージョンも別に作りましたので、興味のある方はご参照を。

伊能忠敬、北海道ニシベツから引き返す:寛政12年8月7日日記フルバージョン - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り...

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本日の旅程は、アンネベツ(浜中町姉別)〜ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)。グーグルマップは、姉別小学校跡地〜第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱。川を船で航行していますので、グーグルマップは場所の参考程度に見てください。

浜中町立姉別小学校跡 to 第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱

浜中町立姉別小学校跡 to 第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱



寛政12年8月8日(1800年)
朝から晴天。今朝、御詰合及び支配人から、飛脚でアツケシに我々の出立のための迎船の触れを出していただいた。我々からも先触れを出した。昼、太陽の南中を観測。昼過ぎから十間縄でクナシリ、ネモロ、ノツケ等の方位を測る。夜は薄曇り。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ニシベツ(別海町)からの帰り支度が進みます。お役所は迎船を要請し、忠敬は先触を出しています。人足7人用意されたしとの内容。馬を要請していないのは、アツケシ(厚岸)までは船利用だからでしょう。測量器具等の荷物を人足だけで運ぶとなると、7人必要だったのですね。先触の写し全文はブログで紹介しました。

ニシベツ〜アツケシ、アツケシ〜箱館までの先触(伊能忠敬・測量日記) - 弁護士TKのブログ

(はじめに)以前、伊能忠敬測量で、函館〜国後までの先触、添触を紹介しました。伊能忠敬測量日記にみる先触・添触(寛政12年5月)-弁護士T...

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寛政12年8月9日(1800年)
朝から夜まで晴天。朝五つ前にニシベツを出立。海辺廿七町は原と野地。さらに十町ばかりでフウレントウに至る。船に乗り、一里余り行く。さらにウレシ川を三里余り、アンネベツに七つ半後に着。道のりで五里。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
いよいよ復路が始まりました。本日の旅程は、ニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)〜アンネベツ(浜中町姉別)。往路と同様ニシベツ〜フウレントウは徒歩(馬は使えず)、フウレントウ〜アンネベツは川を船で航行します。川を船で航行していますので、グーグルマップは場所の参考程度に見てください。

第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱 to 浜中町立姉別小学校跡

第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱 to 浜中町立姉別小学校跡




寛政12年8月10日(1800年)
朝から暮まで曇天、夜も同じ。暮六つ二三分に少し地震有り。朝五つ頃アンネベツを出立。ヲイナヲシで中食。八つ後ノコベリベツへ着。道のりは六里というが、足では五里七丁ほどであった。止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、アンネベツ(浜中町姉別)〜ノコベリベツ(浜中町)。この道のりは六里(約24キロ)とされていましたが、チーム伊能の測量結果では五里七丁(21キロ弱)であったと記しています。誤差を減らすため復路でも測量していたのでしょう。

浜中町立姉別小学校跡 to 浜中町円朱別会館

浜中町立姉別小学校跡 to 浜中町円朱別会館



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先触れ ニシベツからアツケシ、アツケシから箱館ま(伊能忠敬・測量日記)

2022年08月08日 | 伊能忠敬測量日記
(はじめに)
 以前、伊能忠敬測量で、函館〜国後までの先触、添触を紹介しました

伊能忠敬測量日記にみる先触・添触(寛政12年5月) - 弁護士TKのブログ

(はじめに)寛政12年閏4月19日に江戸を出発した伊能忠敬は、函館に5月22日に到着。函館で測量や諸手続きを行い、国後を目指します。手続きのうち、先触、添触...

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伊能忠敬は復路でも先触の写しを測量日記に掲載していますので、現代語訳で紹介します。



【寛政12年8月8日付先触】
覚 封紙 先触 ニシベツよりアツケシまで
一 人足 七人
我ら蝦夷地測量の御用のため、明日九日ニシベツを出立してそちらへ向かうので、御定めの賃銭で人足を用意し、遅滞なく渡海・止宿できるよう御執りはかりいただくようお願いいたします。
申八月八日 伊能勘解由 印
アツケシ 支配人中

(この先触れの背景)
 伊能忠敬測量チームは、8月7日にニシベツ(別海町本別海西別川河口付近)に着きました。忠敬としては、通り過ぎてしまったネモロ(根室)に行き、さらにクナシリ(国後)までも行きたかったのですが、役人からこれ以上は難しいと聞かされ、ニシベツから折り返すことにしました。そこで、翌8日に先触れを出しました。アツケシ(厚岸)までで馬は不要、人足を7人用意されたしとの内容です。ニシベツ〜アツケシまでは船の利用が入るので、人足のみで荷運びをするようです。測量器具等の荷物を人足だけで運ぶとなると、これだけの人数が必要なのでしょう。

(先触の内容)
 先触の作成者「伊能勘解由」は伊能忠敬のこと。隠居してからは「勘解由」を名乗っていました。
 「測量の御用」ということで公用の旅でることを明らかにしています。公用の旅では、馬及び人足を用立てることを村の役人等に要請することができます。「お定めの賃銭で用立てください」というのは、伊能忠敬の第一次測量では人馬の費用を忠敬自信が負担せざるを得なかったからです(幕府は忠敬に一部援助)。
 人馬だけではなく、渡海・川越え・止宿についてもサービスの提供を受けることができました。宿泊は、夜具は宿泊所から提供を受けられますし、三食賄付き。昼食は弁当です。
 次に寛政12年8月13日付先触れです。

【寛政12年8月13日付先触】
先触 アツケシから箱館まで 伊能勘解由
   覚
1 馬 弐疋、但し軽尻
1 人足 三人
 我ら蝦夷地測量の御用である。上下五名がニシベツまで来ており、明日13日はアツケシを出立して箱館へ向かうので、書面の人馬を所定の賃銭で用意し、遅滞なく継立てできるようにお願いします。渡海・川越・止宿できるよう、また測量をまだしていない場所については逗留もするので、そのように心得て御執りはかりいただくようお願いいたします。以上
申八月十三日 伊能勘解由 印
アツケシよりエトモ迄
右村々場所場所
名主・支配人 中

(この先触れについて)
8月12日にアツケシ(厚岸)から出された先触れです。アツケシからエトモ(室蘭市絵鞆)までの村の名主や支配人宛となっています。この間は陸路ですので、馬二匹、人足三人を要請しています。
 先触の冒頭に「アツケシから箱館まで」とあるのに、末尾では「アツケシよりエトモ迄」となっていて、平仄があっていないのは、この先触れを出した当初はエトモから船で箱館近くまで渡海することも考えていたからです(9月3日条)。結局、風向きが悪いため、陸行することとなり、エトモ留で出した先触は箱館留めに書き直されますした(9月5日条)。

(参考文献)
「蝦夷地での伊能忠敬の先触等〜幕府直轄後の宿駅制における〜」(堀江敏夫・「伊能忠敬研究第31号」2003年)

【追記】
寛政12年8月13日付先触にある「馬 弐疋、但し軽尻」の軽尻の意味。
「軽尻(からじり)」とは、本馬の半分の積載量、ないしは人が乗って手荷物5貫目(18.75㎏)までを積載できる馬のこと。
下記ブログで教えていただきました。なお、「本馬(ほんま)」とは、40貫目(150㎏)まで積載できる馬のことだそうです。

『執筆日誌476日目 -「領内本道・横道駅々運賃定」-』

2023年10月6日 『大字誌浪江町権現堂』前近代編執筆中の西村慎太郎です。引き続き、近世権現堂村の交通・流通に関する項目を執筆するための素材をまとめておきた…

『大字誌 浪江町権現堂』執筆日誌



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伊能忠敬、北海道ニシベツから引き返す:寛政12年8月7日日記フルバージョン

2022年08月07日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り返すことになりました。
その理由を記したのが寛政12年8月7日の日記です。長いのでブログにてフルバージョンをご紹介します。


寛政12年8月7日(1800年)
(アンネベツを出立し、船でニシベツに着く)
朝から四つ頃まで霧深し、後晴天。朝五つ後に出立。川船で三里余りフウレントウに着く。そこから草原平地を十町ばかり行き、海岸に出て、さらに二十七町余りでニシベツに九つ過ぎ着。仮家に止宿。なお、ニシベツはすべて仮家である。夜晴れ、測量す。
(役人に根室行きを伺うも断られる)
ネモロの御詰合は、御勘定大嶋栄治郎殿、御普請役井上辰之助殿、同勤方村上治郎右衛門殿であり、ニシベツに御出役された。
ネモロへ行きたいとのお伺いを立てたところ、「現在ネモロは鮭引網漁の最中で、皆ネモロからこのニシベツへ引き上げてきており、会所には誰もいない。鮭漁猟で人手が少なく、迎船、送船とも手配ができなくて困ってしまうであろう。ネモロへ行かずに済むのであれば、ここニシベツで済ましてはくれまいか。」と仰られた。
(忠敬の方針)
私からは、「そのようなご事情であれば、今年はネモロは遠くからの測量のみ行い、ここニシベツから引き返します。」と申し上げた。人足及びアツケシへの迎船のことをお願いしたら、明日八日は逗留し、九日に出立するようとのご指示であった。八つ後からクナシリ島、ネモロ等の方位を測る。ニシベツに逗留。

〈コメント〉
ニシベツに着き、忠敬としては、通り過ぎてしまったネモロ(根室)に行き、さらにクナシリ(国後)までも行きたかったのですが、鮭漁猟で人手が少なく、送迎の船が手配できないようでは、為すすべがありません。ここニシベツが、伊能忠敬最北端かつ最東端の地となりました。現在ニシベツには、第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱が建てられています(北海道別海町本別海西別川河口付近)。


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寛政12年7 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年08月04日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年7 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年7月21日(1800年)
18日から連日ヤマセ風。曇天、五つ頃から四つ前まで小雨。正午過ぎから少晴れ、曇る。夜も薄曇り。雲間に測量(天体観測)。サルルで宿が同じであった榎本忠兵衛に出会う。(シヤクベツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
サルル泊(7月4日〜7日)の日記には榎本忠兵衛の名前はないのですが、シヤクベツ(尺別)で再会したのでその名を書き留めたようです。忠敬は測量日記では必要最小限のことしか書かず、気になったことに少しだけ触れるというスタイルで書いています。

寛政12年7月22日(1800年)その1
朝より曇天、八つ頃より小雨降るもほどなく止む。その後曇り、夜はまた雨。朝五つ後に出立。海岸を二里余り行き、パシクロにて中食。さらに海岸を一里余り行き、八つ半頃シラヌカに着。同所の詰合いの八王子千人同心の頭原半左衛門殿及び他の同心衆に挨拶。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記

寛政12年7月22日(1800年)その2
原氏の手付同心である吉田元治殿が旅宅へ来て、天文のことを談じ合った。ご自身でつくられた天球をお持ちになった。春海子の方図及び円図を用いており、細工が大いに良い。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、シヤクベツ(尺別)〜シラヌカ(白糠町)。グーグルマップでは約18 kmです。シラヌカでは天文の同好者でる手付同心の吉田元治です。会話は多いに盛り上がったようです。

尺別信号場(旧尺別駅) to 白糠町役場

尺別信号場(旧尺別駅) to 白糠町役場



伊能忠敬と吉田元治との会話(想像)
吉田「これ私が作った天球です。」
忠敬「おお、これは春海子(渋川春海のこと)の方図及び円図を用いたものではありませんか。何とも細工が良いですな」
吉田「それほどでもございません。先生はどのようなものをお作りになったので…」等という会話が繰り広げられており、楽しい一夜になったことでしょう。

寛政12年7月23日(1800年)
朝雨天、四つ頃より晴れる。太陽の南中を観測。夜も晴天であり、測量(天体観測)。原氏の手付石坂重治郎、肝いり前嶋新兵衛らが旅宿へ挨拶に来る。(シラヌカに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
シラヌカ(白糠町)二泊目。四つ頃(午前10時)から晴れましたので、昼も夜も測量・観測ができ、良いデータを収集だきたのではないでしょうか。八王子千人同心の原半左衛門の部下は忠敬を慕ってくれて挨拶にきており、注目の的となったようです。

寛政12年7月24日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝五つ前にシラヌカを出立。海岸四里余りでヲタノシケに着き、中食。そこから海岸三里程で七つ後クスリへ着。当所の詰合は支配勘定菊地宗内殿、御普請役庵原久作殿は他行されていた。御勘定組頭村田鉄太郎殿が当地に御止宿につき、ご機嫌伺に参る。夜に測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシラヌカ(白糠町)〜クスリ(釧路;釧路市)。今の白糠町役場-釧路市役所は約33kmです。
漁業と交易、交通の中心であるクスリ(釧路)に着。中心地だけあって役人の往来も多く、支配勘定と御普請役は出張中。御勘定組頭がクスリ滞在中だったので、忠敬は早速ご機嫌伺いに赴いています。佐原で名主を務めただけあって、お役人の機嫌を取っておくことが大事と心得ているのでしょう。

白糠町役場 to 釧路市役所

白糠町役場 to 釧路市役所



寛政12年7月25日(1800年)
朝から八つ前まで曇天、八つ頃雨天。朝五つにクスリを出立。海岸及び新開山道を二里行き、カチロコイで中食。そこから新開山道及び海岸三里程を経て、八つ後コンブムイに着。クスリから四里以上であり、遠い道のりである。本宅に止宿。夜は大風雨であり、翌暁まで続く。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
 本日の旅程はクスリ(釧路)〜コンブムイ(昆布森;釧路町)。今の釧路市役所-釧路町役場昆布森支所は15 kmです。
日記だと二里+三里=五里(約20キロ)となるはずですが、今のルートだと15キロと短くなります。日記では「新開山道」を通ったとあり、この山道のルートが直線ではないためでしょう。忠敬が「四里以上であり遠い」というのは、この山道のことではないかと思われます。

釧路市役所 to 昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所)

釧路市役所 to 昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所)



寛政12年7月26日(1800年)
朝から九つ頃まで薄曇り、雲間に太陽を観測する。八つ頃から中晴れ、夜もまた同じ。測量(天体観測)。(コンブムイに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はコンブムイ(昆布森)に逗留。箱館を出てからの地名は、ほとんどがカタカナです。まずはこれがどこに当たるのかを調べるのですが、地名が消えてしまっているところもあったり、思いもかけない漢字であったりします。コンブムイ⇒昆布森ですから、まだ比較的わかりやすい方です。

寛政12年7月27日(1800年)
朝曇り、午の刻前より晴天。朝五つ前出立。新開山道を行き、海岸へ出る。また新開山道をいき、また海岸へ出る。再び山へ上るところでシヨンデキに着く。中食。ゼンホウジに七つ半に着。コンブムイより六里というが実際は五里廿八丁。本宅に止宿。夜に測量。同心の関谷茂八殿、丹羽金助殿が夜に入ってから、ゼンホウジに到着された。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はコンブムイ(昆布森;釧路町)〜ゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)。今の釧路町役場昆布森支所)-釧路町役場仙鳳趾生活館までは23 km。現代のルートだと山の中を突っ切るルートになっていますが、測量日記では新開山道⇒海岸⇒新開山道⇒海岸⇒山道とあり、山道と海岸ルートが混在していることが分かります。

昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所) to 釧路町役場 仙鳳趾生活館

昆布森福祉センター(釧路町役場昆布森支所) to 釧路町役場 仙鳳趾生活館



寛政12年7月28日(1800年)
朝曇り、四つ後より雨天。人足もおらず、海岸沿いの通路は歩くには困難。アツケシへ渡海できる船を要請。八つ半頃にアツケシから渡船到着したが、雨天ゆえ出発は見合わせ。(ゼンホウジに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)に逗留。アツケシ(厚岸町)へ行きたいチーム伊能ですが、人足がいないため、渡海ルートを検討。八つ半(午後3時)には船は到着したのですが、雨のため本日の渡海は見合わせになりました。

寛政12年7月29日(1800年)
朝四つ半頃まで雨天、その後雨やむ。空も少し晴れ気味となったので、中食を取った後直ちに乗船。関谷、丹羽氏と共にアツケシへ。アツケシまでは海上三里、七つ頃着船。船中では晴れ、暮より曇天。アツケシの詰合は御勘定太田十右衛門殿、御普請役戸田又太夫殿、木津半之丞殿で三名の同居役所である。当方は仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント) 
本日の旅程はゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)〜アツケシ(厚岸町)。今の釧路町役場 仙鳳趾生活館-厚岸会所跡(北海道厚岸翔洋高校)までは陸路で23 km。海上ルートだと三里(12キロ)。同船した関谷、丹羽氏は同心で、一昨日ゼンホウジに到着している役人です(7月27日条)。

釧路町役場 仙鳳趾生活館 to 北海道厚岸翔洋高等学校

釧路町役場 仙鳳趾生活館 to 北海道厚岸翔洋高等学校


寛政12年7月晦日(30日)(1800年)
朝から晴天、大西風吹く。暮合より風は弱まる。夜に入って小雨。夜八つ頃まで測量。(アツケシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアツケシ(厚岸)に逗留。天候と測量の記事だけです。厚岸は天然の良港であり、外国船の通り道となってきました。ラックスマン来航事件を引き起こしたラックスマンも、厚岸を経由して松前に上陸しています。厚岸は「三名の同居役所」との記事となっているのも(7月29日条)、このあたりの事情があるのかもしれません。

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