寛政12年7 月下旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編
寛政12年7月21日(1800年)
18日から連日ヤマセ風。曇天、五つ頃から四つ前まで小雨。正午過ぎから少晴れ、曇る。夜も薄曇り。雲間に測量(天体観測)。サルルで宿が同じであった榎本忠兵衛に出会う。(シヤクベツに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
サルル泊(7月4日〜7日)の日記には榎本忠兵衛の名前はないのですが、シヤクベツ(尺別)で再会したのでその名を書き留めたようです。忠敬は測量日記では必要最小限のことしか書かず、気になったことに少しだけ触れるというスタイルで書いています。
寛政12年7月22日(1800年)その1
朝より曇天、八つ頃より小雨降るもほどなく止む。その後曇り、夜はまた雨。朝五つ後に出立。海岸を二里余り行き、パシクロにて中食。さらに海岸を一里余り行き、八つ半頃シラヌカに着。同所の詰合いの八王子千人同心の頭原半左衛門殿及び他の同心衆に挨拶。仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年7月22日(1800年)その2
原氏の手付同心である吉田元治殿が旅宅へ来て、天文のことを談じ合った。ご自身でつくられた天球をお持ちになった。春海子の方図及び円図を用いており、細工が大いに良い。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、シヤクベツ(尺別)〜シラヌカ(白糠町)。グーグルマップでは約18 kmです。シラヌカでは天文の同好者でる手付同心の吉田元治です。会話は多いに盛り上がったようです。
伊能忠敬と吉田元治との会話(想像)
吉田「これ私が作った天球です。」
忠敬「おお、これは春海子(渋川春海のこと)の方図及び円図を用いたものではありませんか。何とも細工が良いですな」
吉田「それほどでもございません。先生はどのようなものをお作りになったので…」等という会話が繰り広げられており、楽しい一夜になったことでしょう。
寛政12年7月23日(1800年)
朝雨天、四つ頃より晴れる。太陽の南中を観測。夜も晴天であり、測量(天体観測)。原氏の手付石坂重治郎、肝いり前嶋新兵衛らが旅宿へ挨拶に来る。(シラヌカに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
シラヌカ(白糠町)二泊目。四つ頃(午前10時)から晴れましたので、昼も夜も測量・観測ができ、良いデータを収集だきたのではないでしょうか。八王子千人同心の原半左衛門の部下は忠敬を慕ってくれて挨拶にきており、注目の的となったようです。
寛政12年7月24日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝五つ前にシラヌカを出立。海岸四里余りでヲタノシケに着き、中食。そこから海岸三里程で七つ後クスリへ着。当所の詰合は支配勘定菊地宗内殿、御普請役庵原久作殿は他行されていた。御勘定組頭村田鉄太郎殿が当地に御止宿につき、ご機嫌伺に参る。夜に測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はシラヌカ(白糠町)〜クスリ(釧路;釧路市)。今の白糠町役場-釧路市役所は約33kmです。
漁業と交易、交通の中心であるクスリ(釧路)に着。中心地だけあって役人の往来も多く、支配勘定と御普請役は出張中。御勘定組頭がクスリ滞在中だったので、忠敬は早速ご機嫌伺いに赴いています。佐原で名主を務めただけあって、お役人の機嫌を取っておくことが大事と心得ているのでしょう。
寛政12年7月25日(1800年)
朝から八つ前まで曇天、八つ頃雨天。朝五つにクスリを出立。海岸及び新開山道を二里行き、カチロコイで中食。そこから新開山道及び海岸三里程を経て、八つ後コンブムイに着。クスリから四里以上であり、遠い道のりである。本宅に止宿。夜は大風雨であり、翌暁まで続く。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はクスリ(釧路)〜コンブムイ(昆布森;釧路町)。今の釧路市役所-釧路町役場昆布森支所は15 kmです。
日記だと二里+三里=五里(約20キロ)となるはずですが、今のルートだと15キロと短くなります。日記では「新開山道」を通ったとあり、この山道のルートが直線ではないためでしょう。忠敬が「四里以上であり遠い」というのは、この山道のことではないかと思われます。
寛政12年7月26日(1800年)
朝から九つ頃まで薄曇り、雲間に太陽を観測する。八つ頃から中晴れ、夜もまた同じ。測量(天体観測)。(コンブムイに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はコンブムイ(昆布森)に逗留。箱館を出てからの地名は、ほとんどがカタカナです。まずはこれがどこに当たるのかを調べるのですが、地名が消えてしまっているところもあったり、思いもかけない漢字であったりします。コンブムイ⇒昆布森ですから、まだ比較的わかりやすい方です。
寛政12年7月27日(1800年)
朝曇り、午の刻前より晴天。朝五つ前出立。新開山道を行き、海岸へ出る。また新開山道をいき、また海岸へ出る。再び山へ上るところでシヨンデキに着く。中食。ゼンホウジに七つ半に着。コンブムイより六里というが実際は五里廿八丁。本宅に止宿。夜に測量。同心の関谷茂八殿、丹羽金助殿が夜に入ってから、ゼンホウジに到着された。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はコンブムイ(昆布森;釧路町)〜ゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)。今の釧路町役場昆布森支所)-釧路町役場仙鳳趾生活館までは23 km。現代のルートだと山の中を突っ切るルートになっていますが、測量日記では新開山道⇒海岸⇒新開山道⇒海岸⇒山道とあり、山道と海岸ルートが混在していることが分かります。
寛政12年7月28日(1800年)
朝曇り、四つ後より雨天。人足もおらず、海岸沿いの通路は歩くには困難。アツケシへ渡海できる船を要請。八つ半頃にアツケシから渡船到着したが、雨天ゆえ出発は見合わせ。(ゼンホウジに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)に逗留。アツケシ(厚岸町)へ行きたいチーム伊能ですが、人足がいないため、渡海ルートを検討。八つ半(午後3時)には船は到着したのですが、雨のため本日の渡海は見合わせになりました。
寛政12年7月29日(1800年)
朝四つ半頃まで雨天、その後雨やむ。空も少し晴れ気味となったので、中食を取った後直ちに乗船。関谷、丹羽氏と共にアツケシへ。アツケシまでは海上三里、七つ頃着船。船中では晴れ、暮より曇天。アツケシの詰合は御勘定太田十右衛門殿、御普請役戸田又太夫殿、木津半之丞殿で三名の同居役所である。当方は仮家に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はゼンホウジ(釧路町仙鳳趾村)〜アツケシ(厚岸町)。今の釧路町役場 仙鳳趾生活館-厚岸会所跡(北海道厚岸翔洋高校)までは陸路で23 km。海上ルートだと三里(12キロ)。同船した関谷、丹羽氏は同心で、一昨日ゼンホウジに到着している役人です(7月27日条)。
寛政12年7月晦日(30日)(1800年)
朝から晴天、大西風吹く。暮合より風は弱まる。夜に入って小雨。夜八つ頃まで測量。(アツケシに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はアツケシ(厚岸)に逗留。天候と測量の記事だけです。厚岸は天然の良港であり、外国船の通り道となってきました。ラックスマン来航事件を引き起こしたラックスマンも、厚岸を経由して松前に上陸しています。厚岸は「三名の同居役所」との記事となっているのも(7月29日条)、このあたりの事情があるのかもしれません。