南斗屋のブログ

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色川三中「家事志」文政10年6月中旬

2022年06月13日 | 色川三中
色川三中「家事志」文政10年6月中旬

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

1827年6月11日(文政10年)
晴 夜中雨
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中には珍しく天気だけの記事です。これだけみると全く面白くないですが、三中が延々と30年近くにわたって気候を記録し続けたので、気候復元の研究の史料となりえます。この時期は天候不順で天保期(1830年代)には大飢饉も起きています。

1827年6月12日(文政10年)
徳川式部卿様が6月10日に逝去されたため、普請は12日まで、鳴物は16日まで停止と御公儀が決められた。町御奉行からそのことの仰せがあったので、中城町役元からお触れが出た。鳴物停止のため、祇園の祭りは延期である。
#色川三中 #家事志
(コメント)
徳川式部卿は、徳川家斉(江戸幕府11代将軍)の子(十一男)。本名は、徳川斉明。文政10年6月10日に死去しており、享年19歳。元服後、従三位左近衛権中将兼式部卿に叙任されています。10日死去、同日幕府から出された触れが、12日には土浦まで届いています。

1827年6月13日(文政10年)
晴、露降らず。朝露がなければ、3日のうちに必ず雨が降ると昔から伝えられている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
天気に関する昔からの言い伝えが記されています。現代では「朝露が降りると晴れ」とはいわれますから、あながち間違いとはいえないような気もしますが、どうなのでしょう。三中は土浦の町中に住んでいますが、田畑を持っており、年貢を納めなければならない立場なので、その点からも気候には敏感です。

1827年6月14日(文政10年)
或いは晴、或いは雨。畑に蒔いた小麦を刈り取るため、店の男どもを遣わす予定であったが、雨が降ってしまい、田の草を取るのに遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日の日記では「朝露がなければ、3日のうちに必ず雨が降る」と書いており、早速雨が降りました。小麦の刈取りは関東だと、太陽暦6月上旬といわれており、この日記は旧暦なので、刈取り時期が1ヶ月ほど遅くなっています。これも天候不順の影響でしょうか。

1827年6月15日(文政10年)
宮薙の日だが延期。徳川式部卿様もお亡くなりになったため。若い男女が、鎌と箒をもって朝早く神社の掃除をする昔から続く古風な行事だが、最近男は暇が少なくなり、宮薙に行く者が少なくなってしまっているのは残念なことだ。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
宮薙は神社の掃除をする行事です。茨城、千葉だけにあるようです。旧暦6月15日が本来の宮薙の日ですが、太陽暦ではスライドして7月15日に、さらに平日を避けて15日周辺の土日に行われているようです。昔ながらのところは7月15日早朝に行っているところもあります。


三中の日記からは、宮薙が若い男女の出会いの場としても機能してことが窺えます。しかし、男性の暇が無くなってしまい、その習慣もすたれつつあることを嘆く三中でした。

1827年6月16日(文政10年)
本日は日記の記載がなく、 #色川三中 #家事志 はお休みです。

1827年6月17日(文政10年)
徳川式部卿様ご逝去に伴い、鳴物は16日まで停止とのお触れであったが、おって御沙汰があるまでは町方は物静かに過ごすべきであるとのお触れが、町の役元から出された。御上様(徳川家斉)ご自身がご遠慮されていることが理由という。
#色川三中 #家事志
(コメント) 
日本お得意の自粛は文政期にもあったことがわかる記事です。6月12日の記事にあるように鳴物は16日まで停止との決定だったのですが、将軍自ら自粛なので皆も自粛せよとされています(しかも無期限)。幕府の正式決定とは異なる自粛の使い分けは現代にも通じるものが有ります。

1827年6月18日(文政10年)
本日は日記の記載がなく、 #色川三中 #家事志 はお休みです。こんな短期間に2回も休むのは珍しいのですが、病気ではないようです。忙しいのでしょうかね。

1827年6月19日(文政10年)
先般友人の有川貞淳に竜歯(ナウマン象の化石)を見せたところ、4、5年前に間垣村で発見された竜歯を見たことがあると話してくれた。早朝、店の利兵衛と共に間垣村に赴いた。竜歯を持っている人に尋ねあたり、見ることができた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この年の4月12日に当時は竜歯と呼ばれた化石を三中は購入していますが(4月12日の記事参照)、それ(友人に見せたところ、近隣の村でも発見されたとの情報。店の者を同行させてそれを確かめに行く三中。三中は現在20代後半ですが、この行動ぶりは少年のようです。


1827年6月20日(文政10年)
入江(名主)から、組合の熊野屋と今晩同道せよといってきた。夜に入ってから熊野屋に行ったが、野良から帰って来ていないという。その旨入江に伝えたら、明日でよいから熊野屋と共に罷り出よとのこと。
#色川三中 #家事志 
(コメント)
ここで「組合」といっているのは、五人組のメンバーのことのようです。用事は書いてありませんが、五人組メンバーの一人熊野屋さんと一緒に名主のところに来なさいとの連絡。熊野屋さんは夜になっているのに帰ってきておりません。どこかでお酒を呑んでいるのでしょうか。予定を組むということのない時代のノンビリした光景です。



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