色川三中「家事志」文政10年6月上旬
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第一巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
1827年6月1日(文政10年)
昨日(5月29日)亡くなった間原の娘やすの葬礼が夜に入ってからいとなまれた。蓮耀孩女となられた。昨年8月に生まれてから様々な病を患い、疱瘡(天然痘)にかかってから、一ヶ月で亡くなった。痛ましいことであり、間原夫妻が哀れである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
友人の娘の死。しかもまだ満一歳にもならない子どもの死という悲しい出来事。間原家の心痛はいかばかりでしょうか。それを思いやる三中なのでした。
1827年6月2日(文政10年)
所有していた沈南蘋の三幅対の画を江戸の白木屋に飛脚で送った。白木屋で預かってもらい、木挽町の大西圭斎様に真偽の鑑定をしていただくためである。画を売却することを隠居(祖父)に知らせるのは忍びないため、話しをせずに進めている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の日記にしては珍しく有名どころの名前が出てきます。まず、沈南蘋は(しんなんびん)。中国清代の画家。日本にも2年間弱滞在し、円山応挙・伊藤若冲などに多大な影響を及ぼしています。かつては裕福な時代があり沈南蘋の画を買えたのでしょう。
《雪中遊兎図》
大西圭斎は江戸時代後期の南画家。沈南蘋の影響を受けた画風です。鑑定専門家がいませんから、画家が鑑定していたのでしょう。
白木屋さんに大西圭斎との橋渡しを頼んでいます。白木屋(しろきや)は、江戸三大呉服店のひとつ。日本の百貨店の先駆的存在。白木屋の井戸が旧跡として指定されています。
1827年6月3日(文政10年)
先日亡くなった間原の娘のお悔やみに金平糖200文を贈った。4歳前の子が亡くなったときは、物を贈るには及ばないのだけれども、間原の初めての子であることを考えてのことである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
人が亡くなったときの儀礼は、年代や地域によって変わるものですが、三中の時代は、4歳前の子が亡くなったときは、物を贈るには及ばないという習慣があったようです。それだけ乳幼児死亡率が高かったのでしょう。
1827年6月4日(文政10年)
色川吉右衛門方で娘が産まれたことを今日聞いた。初生衣を仕立てて遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
産着を贈るのは生後三日目のお祝いですが
、一日早く贈るのもありだったのでしょう。生後三日目のお祝いについて。
1827年6月5日(文政10年)
昨日子どもが生まれたと聞いたので、朝から色川吉右衛門方を尋ねる。女児が産まれて本日で三日目で、母子共に無事であるとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今よりも出産がリスクだった時代ですから、母子ともに元気であることは、現代よりも重く受け止められていたのでしょう。重い記事が多い三中の日記ですが、久々の明るいニュースです。
1827年6月6日(文政10年)
役人、名主、町年寄りによる庚申待ちは、祖先徳右衛門のときに始まった。庚申の掛物の箱に祖先の名がある。町の政治の在り方を論じ、無益なことはやめ、益となることは何かを話すことで始まったはずだが、単に酒を呑む場になってしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
庚申待ちは、庚申(かのえさる)の日の夜、眠らず夜を明かし、祭り事や催し事などを行うこと。三中は、本来町の政治の在り方を論じる場だったはずといいます。真面目な三中らしい直球の記事。もっとも、政治に携わる人は、皆が皆、そう真面目な方ばかりではないですから…。
1827年6月7日(文政10年)
四つ前、入江(名主)のところへ行く。西門の松屋との債務整理の件、相手は利足1両2分はまけてくれるとのこと。当方からは、残り12両のうち当初2両支払い、来年3月までに月賦で完済するという提案をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
父親が残した債務の整理。自分が作った債務ではないだけに、これって本当にストレスだったと思うのです。何件もある債務を一つずつ処理していくのは。今と違って知り合いが中に入ってくれたり、バックアップがありますが、それでも大変なことには違いないでしょう。
1827年6月8日(文政10年)
先日生まれた色川吉右衛門の女子。名前をつけてもらいたいとのことで、隠居(祖父)に話をしたら、「今日は日が良くないから、明日にする。」とのこと。隠居は、阿見の弥七をつれて江戸にいっており、今日戻ってきたばかりであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名付け親を頼まれた三中ですが、祖父にまさかの丸投げ!?(三中の父親は既に亡き人です)。それとも、このようなことが普通だったのでしょうか…。
1827年6月9日(文政10年)
五つ半頃、色川吉右衛門方へ女子の名前を2つ書き記して、人を遣わした。「いそ」又は「せむ」という名前である。この2つのいずれでもよく、気に入った方で名付けなさいと書いて遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
名前は時代によって移り変わりますね。今、女の子に「いそ」「せむ」なんて名前つけたら、怒られますが、三中(の祖父)が慎重に提案した名前がこのような名前なのですから。
1827年6月10日(文政10年)
夏だというのに冷気が行き交っていて涼しすぎるので、人はみな「今年は大雨で、出水するぞ」と言っている。江戸では風邪が流行っており、「津軽風」と呼ばれている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代には、風邪とは違うが風邪のようなもの(今でいうインフルエンザ)を「風」と呼んでいます。今日の日記の「津軽風」もその一つ。それ以前には、谷風、お七風、薩摩風があり、津軽風以降は、琉球風、アメリカ風がありました。