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寛政12年6 月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年06月20日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年6 月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年6月朔日(1日)(1800年)
この日朝から七つ後まで晴天、夜四つ後より雨、夜半より大雨。朝六つ後大野村を出立。同村より少し先に一ノ渡村があり、村上嶋之丞殿が在宅していたので訪問。内浦嶽(駒ヶ岳)の麓のスクノッペという山の間に休むところ一家あり(その手前には大沼、小沼がある)。その後、鷲ノ木村に七つ半頃に着。同所で止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
村上島之丞宅を訪問。村上は蝦夷地エキスパートの一人で、間宮林蔵の師匠。林蔵は村上従者として蝦夷地に来ています。この日に伊能忠敬と間宮林蔵は初めて会ったのではないかと推測されています(測量日記には間宮林蔵の名前はでてこない)。測量日記に名前が出てくるのは、役人か忠敬の印象の残る人だけですから、このときはまだ間宮林蔵の名前を記載するほどではなかったのでしょう。

村上島之丞はこのとき著作『蝦夷島奇観』執筆中でした。同書は、2021年に現代語訳と解説が出版されています。
『現代語で読む蝦夷島奇観 アイヌ絵文献』的場光昭

本日の旅程は大野村(北斗市)〜鷲ノ木村(森町鷲ノ木)。今の大野小学校〜鷲ノ木小学校は約29キロ。

大野小学校前 to 森町立鷲ノ木小学校

大野小学校前 to 森町立鷲ノ木小学校



寛政12年6月2日(1800年)
朝より雨天、夜も同じ。よって、(鷲ノ木村に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は鷲ノ木村(現・森町鷲ノ木)に逗留です。同村周辺は江戸時代初期より、箱館周辺の漁民がニシンなどを求めて出稼ぎに来た所。寛政12年(1800)、箱館六ヶ場所一円の人口が次第に増加したため幕府は鷲ノ木を和人地と定めています。忠敬が来たのは丁度この年です。
 

寛政12年6月3日(1800年)
朝曇天、坤風が度々吹く、雨あり、夜もまた同じ。(本日も鷲ノ木村に)逗留。この日三厩村庄屋忠兵衛方より書状を送ったとの触れがあった。なお、箱館からも添触があり、大方位盤銅具を継送するという。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
坤風は南西の風のこと。本日も悪天候で鷲ノ木村に逗留です(3泊目)。三厩村の庄屋忠兵衛というのは、チーム伊能が三厩に滞留していたときに、毎日不出帆書付を書いていた庄屋です(5月18日条)。


寛政12年6月4日(1800年)
朝六つ頃まで大雨、それより度々中雨、七つ半頃より夜まで中晴。雲間から測量(天体観測)を行う。(鷲ノ木村に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日も悪天候で鷲ノ木村に逗留です(4泊目)。もっとも、天候は回復傾向で夕方からは晴れ、測量(天体観測)も雲間から行っています。明日には鷲ノ木村を出立できそうです。


寛政12年6月5日(1800年)
朝より七つ頃まで晴れ、その後薄曇、夜五つ後より中晴れ。この朝五つ後に鷲木を出立し、ヲトシベ村にて中食。海辺を行き、七つ後山越内に着。同所に詰めている湯浅三右衛門殿の支配人伊藤茂座衛門の別家甚之丞方に止宿。五つ後より四つ頃まで測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は鷲ノ木村(森町鷲ノ木)〜山越内(八雲町山越)。今の鷲ノ木小学校〜山越小学校までは約25キロ。内浦湾沿いを通るルート(「海辺を行き」)。五つ後(午後8時過ぎ)から四つ頃(午後10時)まで天体観測を行っています。昼間移動しながら測量、夜も天体観測。データの整理もあるはず。息抜きはいつしているのでしょう…。

森町立鷲ノ木小学校 to 八雲町立山越小学校

森町立鷲ノ木小学校 to 八雲町立山越小学校



寛政12年6月6日(1800年)
朝曇り、四つ後より晴れ。太陽の南中を観測。七つ後より曇る、夜は雨。(山越内に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
山越内には、1801(享和元)年、山越内関所が作られ、蝦夷地と和人地(日本民族が暮らす土地を指した言葉)の境として、和人が蝦夷地に入る取締業務をしていましたが、忠敬が訪れた寛政12年(1800年)はその前年であり、まだ山越内関所はありません。もっとも、「山越内」と漢字表記で村の名前が記されていることや、役人が詰めていることから、和人の統治が進んでいたことは窺えます。

寛政12年6月7日(1800年)
晨中雨、五つ後より晴天、夜は曇天。昨日の雨で行先の川々が増水しており、歩行が難渋するとのことであり(山越内に)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
晴れてはいたものの、昨夜来の雨で川の増水を回避するため本日も山越内に逗留。山越漁港からは駒ヶ岳が見えるので、チーム伊能の面々もこの山を見ていたことでしょう。


寛政12年6月8日(1800年)
朝より晴天、夜また同じ。朝六つ後に出立。海辺を行き、四里程で中食。七つ半前にオシヤマンベに着く。会所に止宿。夜測量を行う。折柄甚暑もあり、ここ九日ほど単物を着て過ごす。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は山越内(八雲町山越)〜オシヤマンベ(長万部町)。今の山越小学校〜長万部町役場までは約36キロ。内浦湾沿いを通るルート。北海道とはいえ、さすがに甚暑。最近は単物で過ごせます。
https://maps.app.goo.gl/J9UZVmevrAA6eHCR6

「会所」について。忠敬が測量に来る一年ほど前のこと、寛政十一年(一七九九)八月幕府は、東蝦夷地知内村から以東を直轄し、東蝦夷地の場所請負人を廃し、道路を開き会所を建て、駅馬を備え、官船を造って運輸を便利にするという政治方針を確立しています。長万部には1800年には会所があったことが分かります。 

八雲町立山越小学校 to 長万部町役場

八雲町立山越小学校 to 長万部町役場


寛政12年6月9日(1800年) 
朝曇り、五つ頃より晴れ。太陽の南中を観測する。夜は曇り。本日、湯浅三右衛門殿が出張先のアブタから帰ってこられたのに出会った。湯浅殿は山越内・小砂満辺に詰めておられる方である。本日はヤマセ風も吹いて涼しく、袷を着る。(オシヤマンベに)逗留。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日はオシヤマンベに逗留。晴れて、太陽の南中観測も行っています。昨日までは甚暑でしたが、今日は涼しく、気温の上下動がありますね。。役人の湯浅三右衛門との山越内及び長万部に詰めている役人です(6月5日条にも名前が出てきています)。


寛政12年6月10日(1800年) 
朝五つ後まで小雨、その後中晴れ、また七つ後より曇る。本日五つ後までは寒く、袷の上に襦袢。四つ後よりは単物で問題なし。朝六つ過ぎ(六つ半後)出立。霧深く、海辺三里ほどで新道峠にかかる大難所。七つ頃にレブンケに着。詰合出役の小屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はオシヤマンベ(長万部町)〜レブンケ(豊浦町礼文華)。今の長万部町役場〜礼文華小学校までは約27キロです。これまでは海岸沿いの道を通って来ればよかったのですが、現在の長万部町静狩で山に阻まれ海岸沿いから山の中を通って行かざるを得ません。これが「新道峠にかかる大難所」。

長万部町役場 to 豊浦町立礼文華小学校

長万部町役場 to 豊浦町立礼文華小学校



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