南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

文政期のインフルエンザ流行が津軽風と名付けられた理由

2022年06月18日 | 歴史を振り返る
(1827年に流行したインフルエンザ)
文政10年5月、江戸ではインフルエンザが流行していました。当時インフルエンザという言葉はないので、人々は風邪と呼んでいましたが、普通の風邪とは症状が異なることは認識されておりました。

(土浦の薬種商の日記)
土浦(現茨城県土浦市)に色川三中という薬種商を営む者がおり、「家事志」と題する日記を書いておりました。この日記には当時のインフルエンザ流行のことが書かれています。文政10年6月10日(1827年)の日記。
《夏だというのに冷気が行き交っていて涼しすぎるので、人はみな「今年は大雨で、出水するぞ」と言っている。江戸では風邪が流行っており、「津軽風」と呼ばれている。》
 江戸では新たなインフルエンザが流行しているという記事であり、土浦ではまだ流行してはいなかったようです。しかし、土浦でも翌閏6月には感染者が広がり、死者が相当数出る事態となったのです。

(津軽風の謂われを書き残した松浦静山)
ところで、色川三中は、なぜこのインフルエンザが「津軽風」と呼ばれたのかについては書いていません。流行り言葉の謂われは、なかなか記録されないもですが、この「津軽風」に限っては同時代に記録したものがいます。甲子夜話を書いた松浦静山です。

甲子夜話96-26(甲子夜話[正]6東洋文庫)
《さて、最近江戸の都で広く風邪が流行しており、罹らないものがないほどである。その中には激症化して、死に至る者も少なくない。
 このような風邪の流行に世の中では俗諺が流行っている。
「この度のはやり風の名を津軽風という。それはなぜかと問われれば、『しそんじると輿に乗る』(輿は、死者を葬送するときに用いる道具である)」》

(内務省衛生局『流行性感冒』)
 大正時代に内務省衛生局がそれまでのインフルエンザ流行の歴史をまとめたものがあるのですが(『流行性感冒』)、次のように解説されています。
《津軽侯が御大礼の節に、輿に乗ったために厳しくとがめられたのであるが、俗に「うまくいかないと輿に乗ることになる」という言い方があるそうで、輿は俗世間では死者を送る道具であるという(運が悪ければ死ぬ、ということをかけていると思われる)》
 「津軽」は津軽侯(=弘前藩主)のことであり、大事な儀式で輿に乗ったこと、それを葬送で使う輿とかけて揶揄していることがここからはわかります。

(なぜ津軽侯は輿に乗ったか)
では、なぜ津軽侯は輿に乗ったのでしょうか。そのことでなぜ津軽侯は揶揄されたのでしょうか。
「津軽侯が御大礼の節に、輿に乗ったために厳しくとがめられた事件」にその謎を解く鍵があります。
 この事件は、猿轅事件(えんよじけん)といい、当時大いに耳目を集めたものでした。

(徳川家斉の太政大臣就任)
この事件は「御大礼」の際に起こったものですが、この「御大礼」とは11代将軍徳川家斉が太政大臣に、その世子であった徳川家慶が従一位に叙任されました。叙任は文政十年二月十六日付けで行われております。なお、この際の詔書は文政十年二月十六日詔書として名高いものです。
 徳川家斉が太政大臣となる叙任式は同年3月18日に江戸城で行われました。将軍でありながら、太政大臣となったものは、家斉の前には徳川家康、徳川秀忠のみです。家斉は将軍在職40年でもあり、めでたいことづくめでした。

(事件の主人公、津軽信順)
将軍徳川家斉の太政大臣就任を祝う御大礼には、藩主が江戸城に登城します。このときの弘前藩の藩主は津軽信順(のぶゆき)でした。
 津軽信順は、文政8年(1825年)4月10日、父津軽寧親の隠居により家督を相続し、第十代弘前藩主となりました。弘前藩は、9代寧親のときから家格向上に取り組み、7万石から10万石と石高の高直し、これに伴う従四位下昇進と大広間詰めが認められています。これにより準国主(国持並)大名に列することになったのですが、猿轅の使用は国持大名でないと認められないため、弘前藩主には認められないままとなっていました。
 信順は当時20代であり、父親の代からの家格向上政策を継承していました。このような時に家斉の太政大臣就任の御大礼があったのです。

(猿轅事件とその顛末)
 御大礼(叙任式)の中、津軽信順は轅輿(ながえごし)に乗って江戸城に登城しました(甲子夜話94-18)。このようなことをされてしまっては、身分制度を維持できません。
 津軽信順としては、軽い気持ちだったのかもしれません。おめでたい席だからいいだろう、というノリだったのかもしれません。
 しかし、公儀としては大切な御大礼だからこそ見逃すことのできない行動です。
津軽信順は、4月25日に猿轅の無許可使用を咎められ、70日間の逼塞処分を言い渡されました(甲子夜話96-5)。

(再び甲子夜話)
 甲子夜話は、この逼塞処分についての落噺を記録しています(甲子夜話96-26)。
《津軽公は御用のため、御用番御役宅へ親類の岩城伊予守の名代として出席していた。
 この度津軽公には咎があり、その処分を岩城伊予守が伝達することとなり、伊予守は津軽邸に行った。津軽公は言渡しを受け、これを受諾した。
 津軽公は、「刻限でもありますし、どうですかお食事でも。」と伊予守に話をしたが、伊予守は固辞して座を立とうとする。津軽公は再三食事を勧めたが、伊予守はやはり固辞した。津軽公は、「今日私が処分を受けたので、ほかの方であればそのような固辞する態度にでるのもわかるのですが。そなたは私の親類ではないですか。なぜそこまで固辞するのですか。どうぞ食事をしていってください。」というと、伊予守は色を正して「轅(ながえ)はおそれあり」と述べたということである。
 「盛久」という能楽の謡「正木のかつら長居はおそれあり、長居はおそれありと」この謡の中で退出する盛久がこころのうちこそ立派なものである》

長居をすると「轅(ながえ)」をかけています。「長居はおそれあり」とは、「盛久」という能楽の謡にでてくるので、これも踏まえています。最後で、シテの盛久がこの謡の中を退場する、長居をするのはおそれ多いことです=轅で登城するのはおそれ多いことですといっているわけですね。

(参考)
・家事志 色川三中日記 1 (土浦市史資料) 土浦市立博物館
・現代語訳流行性感冒 一九一八年インフルエンザ・パンデミックの記録 内務省衛生局 平凡社
・甲子夜話6 東洋文庫 平凡社


 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする