寛政12年9月朔日(1日)(1800年)
朝から晴曇り。夜も同じ。朝六つ後、勇武津(ユウブツ)出立。コイトイで中食。七つ頃白老に着。道のり九里。仮屋に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程はユウブツ(勇払;苫小牧市)〜白老(白老町)。道のり九里(約36キロ)。白老まで戻ってきました。あと10日で函館に、来月下旬には江戸に到着する予定です。チーム伊能は淡々と旅程をこなしています。編集としてはラストスパートです。
寛政12年9月2日(1800年)
朝から雨天。五つ頃出立。大風雨。アイロで中食。濡れた衣服を干し、身を温める。アイロから三里三町でポロベツへ七つ半後着。ずぶ濡れ。白老からポロベツは七里六町。会所に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
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本日の旅程は白老(白老町)〜ポロベツ(登別市幌別町)。七里六町(29キロ弱)。一日中雨。大風雨。中食時に濡れた衣服を干し、身を温めることはできましたが、その後も雨の中を進んだのでずぶ濡れ。
寛政12年9月3日(1800年)
朝から曇天、四つ頃から小雨、その後曇天。朝五つ前に母衣別(ポロベツ)を出立。鷲別(ワシベツ)で小休止。八つ過ぎエトモに着。道のり五里。会所に止宿。風向きがよくないためエトモから先の渡船は止め、アブタまで陸行することとした。
なお、悪消(アツケシ)の御詰合の役人へ次のような伺いを出していた。
「江友(エトモ)に着きました。順風でありましたら、江友(エトモ)からサハラへ渡船させてください。風がない場合は、アブタへ回ります。」
#伊能忠敬 #測量日記
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本日の旅程はポロベツ(登別市幌別町)〜エトモ(絵鞆;室蘭市)。道のり五里(約20キロ)。エトモには港があり、順風であれば渡船を考えていたからです。が、風向きが良くないため、陸行することとなりました。
寛政12年9月4日(1800年)
朝曇り、四つ前より晴天。太陽の南中を測る。九つ半頃から曇る。本日七つ後に、三橋藤右衛門様(ご用人武藤貫三殿、大塚一郎殿)8月19日付書状及び長嶋新左衛門殿よりの添状が、エトモの旅宿に届けられた。夜晴天であり、測量を行った。(エトモに逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
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本日はエトモに逗留。往路ではエトモではなく、モロランに泊まっていました。エトモもモロランも現在は室蘭市です。
三橋藤右衛門(の御用人)からの書状が届きました。忠敬に天文の来歴の書付を提出するようにというもの。お偉いさんからの宿題ですので、測量旅行中ですが、レポートを作成しないわけにはいきません。
三橋藤右衛門のレポート依頼等は、長いので別のブログ記事にて。
寛政12年9月5日(1800年)
朝から曇天、夜小雨。朝五つ前江友(エトモ)を出立。モロラン(室蘭)へ渡海。そこから六里陸行し、暮六つ頃阿武多(アブタ)に着。会所は普請中であるので、仮家に止宿。悪消(アツケシ)から江友(エトモ)留で出した先触を箱館留めに直して出した。なお、本日ヲサルベツで中食。
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本日の旅程はエトモ(絵鞆;室蘭市)〜アブタ(虻田;洞爺湖町)。うちエトモからモロラン(室蘭)までは船で渡海です。アブタの会所は普請中。往路のアブタでは会所に止宿してしたので(6月13日条)、往復している間に会所の普請が始まったようです。
寛政12年9月6日(1800年)
朝から曇天、夜も曇る。朝五つ前、アブタ出立。ベンベで中食。七つ頃レブンゲに着。道のり五里。仮家・本家に分かれて止宿。
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本日の旅程はアブタ(虻田;洞爺湖町)〜レブンケ(豊浦町礼文華)。朝五つ前(午前8時)出立、七つ頃(午後4時)着。道のりは五里(約20キロ)。仮家・本家に宿泊。往路での宿泊は詰合出役の小屋等と記されていましたので(6月11日条)、別の建物ができたようです。
寛政12年9月7日(1800年)
朝から晴天、昼後から雲る。朝六つ後(レブンケを)出立。三里十七町三十間行ったシツカリで中食。そこから三里三町、七つ頃小砂満辺(オシヤマンベ)に着。川欠けで会所が打ち崩れて普請中であるため、仮屋に止宿。
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本日の旅程はレブンケ(豊浦町礼文華)〜オシヤマンベ(長万部町)。往路のオシヤマンベでは、会所に宿泊していましたが、水害にあって会所が壊れてしまいました。川欠けとは、洪水や水流で堤防などが壊れることをいいます。
レブンケ〜オシヤマンベ間には「新道峠にかかる大難所」があり、往路ではそのことに触れられているのですが(6月10日条)、復路ではスルーされています。
寛政12年6月10日(1800年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) June 9, 2022
朝五つ後まで小雨、その後中晴れ、また七つ後より曇る。本日五つ後までは寒く、袷の上に襦袢。四つ後よりは単物で問題なし。朝六つ過ぎ(六つ半後)出立。霧深く、海辺三里ほどで新道峠にかかる大難所。七つ頃にレブンケに着。詰合出役の小屋に止宿。#伊能忠敬 #測量日記
寛政12年9月8日(1800年)
曇晴れ、夜は晴れ。朝六つ半頃(オシヤマンベを)出立。二手に分かれ、私と(平山)宗平・(伊能)秀蔵は船に乗り、門倉隼太・(佐原)吉助は陸路を行き、七つ前山越内に着いた。甚之丞方へ止宿。
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(コメント)
本日の旅程はオシヤマンベ(長万部町)〜山越内(八雲町山越)。チーム伊能にしては珍しく二手に分かれて別行動。メンバーの名前が全員記されています。これも珍しい。
寛政12年9月9日(1800年)
六つ前小雨、六つ半後に雨はやむ。その後曇天、夜は晴れ。朝六つ半頃(山越内を)出立。ヲトシベで中食。七つ頃ワシノキに着。五里八町又は五里半か。同所で止宿。
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(コメント)
本日の旅程は山越内(八雲町山越)〜ワシノキ(森町鷲ノ木)。忠敬は天気の記載や距離については細かく日記に記載し、その関心ぶりが窺えますが、地名は往路と復路の表記が統一していないものがあり、結構大雑把。この点は枚挙に暇がありませんが、今回の「ワシノキ」(往路では「鷲ノ木村」)もその一つ。当時はそれが普通だったのでしょうかね。
寛政12年9月10日(1800年)
朝から少晴れ、夜も同じ。朝六つ後出立。スクノツペで中食。七つ半大野へ着。鷲木(ワシノキ)から大野まで道のり八里半。止宿。途中一ノ渡の村上嶋之丞殿へ立ち寄るが、不在であった。夜、村上氏が来られた。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は鷲木(森町鷲ノ木)〜大野(北斗市)。道のりは八里半(約34キロ)。ついに大野村に到着。大野村は函館から約20キロの距離です。函館は目前です。
村上嶋之丞。蝦夷地エキスパートの一人で、間宮林蔵の師匠。本日の旅程の途中にある一ノ渡(北斗市市渡)に居住しており、大野までは約2キロですが、わざわざ忠敬を訪ねてきました。
往路でも忠敬は村上と会っています(6月1日条)。
寛政12年6月朔日(1日)(1800年)その1
— 断感ろーれんす (@tk23956) May 31, 2022
この日朝から七つ後まで晴天、夜四つ後より雨、夜半より大雨。朝六つ後大野村を出立。同村より少し先に一ノ渡村があり、村上嶋之丞殿が在宅していたので訪問。#伊能忠敬 #測量日記
当時の蝦夷地としては比較的栄えていました。ここを1811年に通過したゴローニン(ゴロヴニン)が大野村のことを「日本幽囚記」で書き残しています。