〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量まで測量を行い8月7日にこの旅行の最北端ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)にたどり着きました。同所から折り返し、江戸を目指すこと2ヶ月半、寛政12年10月21日に無事江戸に着きました。滅多に個人の思いを日記に披露しない忠敬ですが、長旅を終えて個人の思いを吐露しています。同日の日記をフルバージョンをご紹介します。
寛政12年10月21日(1800年)
(草加を出立し千住で酒宴)
朝六つ(午前6時)過ぎに出立。曇天。草加から千住まで二里八丁。千住に着くまでに大勢の人の出迎えを受ける。高橋先生から御使い札をいただく。千住で酒宴、昼食をなす。
(千住から自宅まで及び感想)
九つ(正午)出立。(浅草の)司天台へ立ち寄る。八つ(午後2時)頃、深川の自宅に着いた。
閏4月19日に江戸を出て、今日神無月の21日まで半年と2日間の旅行であった。往古から遥かに遠いことを津軽・合浦・外ヶ浜といった。外ヶ浜に行くのも生涯のうちでは難しいであろうと思っていた。ましてや外ヶ浜から大海を隔てた寒冷の地、蝦夷国の奥までいけるとは思わなかった。二百里余りかなたのニシベツまで往復し、供として連れて行った四人とも一日も病気になることなく無事に江戸に着くことができたことは、誠に給わった命令と先祖の霊のおかげであり、有難いと感じる。
〈コメント〉
この時代、遥かに遠いことを「津軽・合浦・外ヶ浜」と言っていたと書かれています。これらは本州の北端の地名です。北海道は日本とはみなされていなかったようです。外ヶ浜から大海を渡り蝦夷国のそのさらに奥の方までいくことができるとは伊能忠敬も思っていなかったのでしょう。日記では淡々と職務をこなす様子が書かれており、その積み重ねがこの大事業を可能にしたのでしょう。